Z先生からの逃走劇

 夏期講習を境に私の宿題嫌いは日に日にエスカレートしていく。


 Z先生に気にしてもらいたい、という気持ちも確かにあったが純粋に当時は「宿題が嫌い」という気持ちも残っていた。


 この日も授業が終わりに差し掛かり、宿題が割り当てられる時間となった。

 隣に座っていた生徒に宿題の範囲をいい渡し、ついに私の出番が来た。


「はい、じゃあお姉さんにも宿題宿題出すよー」

 

 にやつきながら私に話しかけてくるZ先生。

 私は嫌と言わんばかりの表情をして顔をしかめた。


「嫌です」


「むーーーりでーーーす」


「いらないですってば」


「でもちゃんとやってくるじゃん、毎回」


「じゃあ次はやりません」


「次もやってきて下さい」


「嫌です」


「はい、じゃあ今から中一・中二の総合復習のページのコピー刷って来るから」


「嫌、いらないです!」


その瞬間、授業は終わりを告げた。


やった!これで宿題なしかな?


 期待が胸に踊ったのも束の間。


「じゃあ、宿題刷って来るから受付で待ってて」


 期待は一気に崩れていった。


「待ちません」


「じゃあ宿題受け取るまで帰さないよ」


「帰して下さい」


 なかなか狭い教室を立って動こうとしないZ先生。


「宿題受け取るって言ったらいいよ」


 なんともイヤらしい一言である。

 いつもだったら反抗するのだが、この日はとにかく早く帰らなくてはいけなかった。時計の針が6時55分を指そうとしている。なぜならこの時、両親に早く帰って来る様に言われていたから。


 しかたなく、この時はZ先生の言葉に大人しく従った。


「わかりましたよ、先生。しょうがないですね」


「やっとわかってくれたか」


 ようやくZ先生が席を立った。隣にいた生徒は最後の授業が残っていたのか、席を立とうとする様子がなかった。


 Z先生の後を追って教室を去った。

 

 人混みが廊下を占領しているなかをいつもの様に必死でかき分けた。

 

 Z先生の姿を見失わない様に。


 Z先生は廊下で足を止めた。


「じゃ、宿題のプリント、刷って来るからここで待ってて」


 そう言って、Z先生は講師室へ向かうために、再び人混みの中へと消えていった。


 しょうがないなあ、今日は真面目に宿題を受け取りますか。


 そう心の中で呟きながら、受付の前で待った。


 さっきまで廊下に溜まっていた人たちもだんだん自習室に向かうなり、家へ帰っていくなりしてどんどん数が減っていった。同時に授業の為に塾に来た人たちも沢山いたが、皆すぐに受付を通っておのおのの教室へと向かっていった。


 7時。次の授業が始まった。Z先生は戻って来なかった。


 5分くらい前まではあれだけいた人混みも気づけばなくなっていた。

 受付に私1人がポツンと取り残されていた。


 Z先生、帰ってこないのかな。早く帰ってきなさいって言われてるんだけどな。


  そう思いながらも待ち続けようとした時。


「さよなら」


 受付にいた先生に挨拶をされたのだ。



 え?

 

 まさか私、今から帰る人って思われてる?


 気まずくなった。


 ここで帰らなかったら変な人って思われちゃうよね?

 でもZ先生まだ来てないし・・・


 30秒くらい、帰るかZ先生を待つかで迷った。

 

 でも挨拶をしてくれた先生は私のことを不思議そうに見つめている。


 いや。これは帰らないと私は明らかに変な人だよね。

 よし、宿題を受け取らないで逃げよう。


 決心がついた。

 私史上初、宿題を受け取らずに逃走。

 さすがにZ先生、怒るかもしれないけど、いいや。


 Z先生に見つかるのではないかという緊張で胸がどきどきし始めた。


 勇気を出して受付のそばに行き、自分のカードをセンサーにかざした。

 ピッと音が鳴ったことを確認してからすばやくカードをリュックに付いてぶらさがっているパスケースにしまう。そしてZ先生が来ていないか確認をした後、勢い良く塾の扉をあけた。その時にはさっきいた先生は消えていた。


 そして、全力で塾から逃げた。Z先生から逃れる為に。

 止まることなく必死で足を動かした。


 ぎりぎりで止まっていた始発の電車を捕まえ、自分が乗った瞬間に発車した。

 それでも不安な気持ちを治らない。私は電車にZ先生が乗っていないか辺りを見回した。よし、いない。電車の中にはZ先生の他に数人の人が電車の席に座っていた。

私もふらつきながら端っこの席に腰を下ろした。


 そして自分の降りる駅まではあっという間だった。

 逃走は無事に成功した。


 けれども、私は宿題を受け取らなかった罪悪感に駆られていた。

Z先生、せっかく私の為に時間を割いて宿題を刷ってきてくれたのに、私がいなかったら、怒るよな。明日、塾に行って謝らなきゃ。


 罪悪感に押し潰されそうになりながらなんとか家に辿り着いた。

 当然、宿題をもらわない為に逃げてきたなんて言えるはずもない。

 ただ、Z先生から電話が来ていないか心配だったので、一応母に確認をした。


「ねえ、塾から電話来なかった?」


「え?来てないわよ」


 それを聞いて私は安堵した。


「良かった」


「塾で何かあったの?」


 母が心配そうな顔を見せたので私は慌てて


「ううん。なんでもない。ちょっと気になっただけ」


 とだけ答えて自分の部屋へ戻った。



 その翌日、朝早くから塾の自習室に来ていた。


 自習をしている間、ずっとZ先生が来ていないか心配していたが、Z先生の声はしなかった。


 午前中はZ先生、塾に来ないのかな?


 そう思うと安心して自分の勉強に打ち込むことが出来た。

 昼休みになり、私は家族とご飯を食べる約束をしていたので帰ることになった。

 自習室を後にし、受付に行こうとした時だった。


 背の高い男性がなにやら作業をしているのが目に入った。

 その男性は、紛れもなくZ先生だった。


 やっば、Z先生じゃん!逃げよ!


 私は気がつかれない様にそっとカードをセンサーにかざし、そこから早足で塾の扉の前まで来た。そして勢いよく扉を押し、再び走って逃げ出した。


 この時もZ先生は後を追って来なかった。


 良かった。


 そう思ったのも束の間。


 私から血の気が引いていくのがわかった。


 あ。


 今日、Z先生の授業、あるんだった。


 ばれるじゃん。


 また、Z先生に挨拶もせずに逃げたことを後悔した。



 夕方、気まずい思いを抱えながら私は塾の扉の前まで来ていた。


 そりゃ、Z先生も怒っちゃうよな。

 今日Z先生が冷たかったら間違いなく私のせいだ。



 深呼吸をして塾の扉を開けた。人でごった返している。そして廊下の入り口にZ先生が立っているのが見えた。


 Z先生と目があった。


 すぐに目をそらし、カードをポーチから取り出す。そして例の簡単な作業を終えてから私はZ先生の立っている廊下の方へと向かった。



 Z先生のそばまで来るとZ先生が口を開いた。Z先生は真顔だった。


 

「ねえ、今朝自習室に来てたでしょ?」


 どうしよう、怒られる。そう思って心を身構えた。


「はい、そうですけど。居たんですか」


 笑顔でそう言った。

 昼間、Z先生が受付にいたことに気がついていないふりをして。


「D村さんが受付通った時、宿題渡そうかと思った」


「そうでしたか」


「っていうかさ、昨日宿題受け取らないで逃げたよね?」


 Z先生は目を見開いて、昨日のことを問い詰め始めた。口調はだいぶふざけていた。Z先生のその表情が面白くて私は吹き出してしまった。


「きゃははははは!」


「ねえ?お姉さん?」


 そう言いながら問い詰めるZ先生の顔は笑っていた。


「はい、逃げました。宿題嫌だったんで」



 受付の先生に不思議な顔をされたから、なんて言えるはずもなかった。


「俺さ、昼間D村さんが受付にいた時、宿題渡そうかと思ったんだけど」


「でも、先生!私急いでたんですよ!早く帰ってきなさいって親から言われてましたし」


 私も弁解した。


「許しません」


「いや、許して下さいよ!先生!」


「いや、許しません!」


 そう言いながら私とZ先生は廊下を歩いた。周りの人たちからおかしそうな目で見られた。


「どうしたの?」


とたまたま通りすがった先生に声をかけられた。


「いや、この生徒、昨日宿題受け取らないで帰ったんですよ!」


「昨日は急いでたんです!」


 また言い合いを始める私たち2人。聞いた先生は生温かい目で私たちのことを見ながら去っていった。


「本当にごめんなさい!」


「いや、あれはまじで許せない。ガチで」


 そして教室についてからZ先生は私にこう言った。




「昨日逃げたんだから、今日は大量に宿題、出すからね」

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