第6話 私設秘書の陰謀
約束の場所に足を運ぶと、田口の見立て通り。そこには野原だけではなく槇もいた。野原は田口の姿を見て、不可思議な色の目を細めた。「なぜ、お前がここにいる?」と言わんばかりだ。保住がそれにこたえようとすると、田口に押しのけられた。
「おい。田口……」
いつもは口下手なタイプであるというのに。彼は怖気ずくことなく、二人を見据えて言った。
「澤井副市長から、保住係長のことを託されています。ですから、あなた方からのお誘いに、係長一人で行かせる訳には参りません」
——よくもまあ、そんな言葉が口から出るものだ。
保住は思わず吹き出しそうになるのを堪えるに必死だ。田口は振り返って保住をじっと見た。どうやら「笑わないでくださいよ」と言っているようだ。
本来であれば、緊迫した局面であるにも関わらず、どういうことか。田口がこうしてそばにいてくれるだけで心にゆとりが生まれるのは不思議なことであると思った。
案の定、いつまでも愉快そうにしている保住の態度に槇は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「こんな状況でも、君は全く持って動じないのだね。いや感服するよ。さすが澤井副市長のお気に入りのことだけはある」
槇はチェックのワイシャツに茜色のネクタイをしていた。田口ほど大柄ではないが、確実に保住や野原よりは大きい。上質な出で立ちは彼をスマートに見せていた。
槇はさも保住のことを理解しているといわんばかりの態度だが、保住にとったら初対面の相手である。なぜ槇が保住を呼び出すのか。澤井絡みであるということは明らか。
野原は、ただ黙って槇の後ろに立ち尽くしている。この場の主導権を握るのは槇だ、ということ。
——なんだか面倒ごとのようだな。早く終わってほしいものだ。
そんなことを考えていると、槇が歩き出した。それに続いて野原も。保住と田口を顔を見合わせてから、二人の後についていくことにした。
***
槙に連れられてやってきたのは、駅の近くにある小料理屋だった。比較的新しいそこは和風モダンな作りで、若い客をターゲットにしているようだった。
澤井に連れられてくるような店とは品格が違う。利用する店によって質が問われるものなのだなと実感した。
「そんな緊張しないで。田口くん。こういう料亭は初めてだろう?」
着物姿の女性に案内され、部屋に落ち着くと、さっそく槇が田口に声をかけた。しかし彼の表情は硬く、両手を膝の上で握り込んでじっと座り込んでいた。保住はつい「来なきゃいいのに」と呟く。
槇の言葉には反応しないくせに、保住の言葉には即座に反応するらしい。彼は「い、いいえ。緊張なんてしておりません」と小さく返してきた。そんな二人のやり取りを見て、槇は笑った。
「素直で可愛い子じゃない。本当に澤井副市長と接点があるとは思えないけど? さっきの言葉はハッタリかな」
槇は日本酒をあおりながら野原を見た。槇の隣に姿勢よく座っている野原は、視線を伏せる。
「確かに。田口が澤井と話しているのを見かけたことはないけど」
「ハッタリかどうかは、澤井さんに確認してみたらいいではないですか」
野原の言葉に保住はしれっと言い放つ。
「いや、別にどうだっていい話なんだけどね。保住くんに懐いているのは確かみたいだね」
「それより本題に入っていただけませんかね。そう暇でもないのです」
「それはお互い様だね」
槇は野原に視線をやった。それを受けて彼は、頷いてから保住を見据えた。
——本題は野原が語ると言うのか?
相変わらず眉一つ動かさない野原は、まっすぐに保住を見返した。
「我々は澤井副市長が目障り。そうそうにご退場願いたいという訳」
「そんな」
野原の言葉に声を上げたのは田口だが話は途中だ。保住は田口を制するように彼の目の前に手を出してから自分で言葉を発した。
「まあ、そういう思いをお持ちの方々は多いと思いますね」
「君もそうじゃないの? 随分と痛めつけられたことがあるって聞いているよ。吉岡財務部長を始めとして、君のお父さんを支持していた人たちも同じ気持ちだろう。それなのに、君は何故か澤井と懇意にしている。公私ともにね」
槇は悪戯な笑みを浮かべた。
——公私共にね。
保住はふと微笑を浮かべた。
「よくおわかりですね。さすが市長の私設秘書だ。色々な事を知っておられる」
槇は澤井と保住の関係を知っているのだ。そしてそれを材料としてなにかを持ち掛けたいのだろう。隣にいる田口は顔色が悪い。気が気ではない様子だった。それを横目に保住は冷静に言葉を返した。
「澤井と懇意にしていると言う表現は、語弊がありますね。澤井はおれの初めての指導者ですからね。色々な事を教えてもらいました。まあ、あの人間性ですからね。不快に思うことは多々ありますけど……特に深い思いはありませんね」
「そうだろうか」
槇は野原と視線を交わす。野原から切り出したことだが、ここで槇に交代するらしい。今度は槇が口を開いた。
「田口くんの前でこんな込み入った話はしたくなかったのだがね。連れてきちゃった保住くんの判断は誤りだったかな? 我々は、君のプライドを傷つけないようにと、敢えて人払いをしたこの場を設定させてもらったのに」
「プライド、ですか」
「そう。プライド高く能力も秀でている君が。事もあろうに妻子持ちの上司と不貞な関係性を持つなんて!」
——はっきりと言ってくれる。
保住は顔色も変えずに訂正する。
「過去形です」
「過ぎ去ったことは消えないよね? 事実は事実。こんなスキャンダラスなことが庁内に、いや世間様に知れ渡ることを市長の私設秘書として、おれは良しとしないのだよ」
「そうでしょうか? 市長にはあまり関係のないことでしょう? たかが、職員一人のプライベートですよ」
「そうも言ってられないだろう? 来年度から始まる大掛かりな例の件もある。その発起人と現場の責任者がそんな関係だったなんて……! 議会で
槇は大袈裟に言葉を飾り立てる。田口はなんの話か皆目検討もつかない様子でいるが、保住には心当たりがあった。槇は『市制100周年記念事業』のことを言っているのだ。
「匿名化されるとはいえ、雑誌の格好のネタにもなるわけだ。梅沢市役所を揺るがす大惨事になるだろう」
——じゃあ、さっさとやればいいだろう?
保住はそう思う。澤井を失脚させたいなら、迷うことなく二人の関係を面白おかしくマスコミにでもリークすればいいのだ。
官庁関係や大手企業のスキャンダルをネタに揺すってくる出版社がある。職員のプライベート情報のほんの少しの事象から、事を大きくして記事を書いてくるのだ。やれ、市長の愛人疑惑だ、不正使い込み疑惑だと、あることないこと書き立てる。
昔は口止めをしたくて金を払っていたと聞いているが、今時そんなことをする自治体はない。いや、いくらかは残っているのだろうか。だから成り立つ仕組みなのかもしれないが。
しかし今回の場合は事実でしかない。書かれても仕方のないことなのだ。だから逃げも隠れもするような内容ではないと思った。それに——。
——そんなことが明るみに出れば、市長も無事では済まないのだぞ?
槇は澤井と保住の秘密を握ったことで、優位に立っているかの如く振る舞いだが、裏を返せば、この事実を明るみにされたら、現市長である安田だって無傷ではいられないということに気が付いてないのだろうか。
——槇という男は、そう賢くないのかも知れないな。
保住はそう踏んで「やればいいじゃないですか」と槇を見据えたまま言った。
「保住さん!」
田口は引き止めに入ってくるが、保住はあっけらかんと言い放った。
「あなた方がどこまで調べ上げたのかはわかりませんが、おれに許可を取る必要はありませんよ。どうぞ、お好きに」
槇はおもろくないという顔をした。少なからず保住にダメージを与えられると思ったのだろうが、全く効いていないようだということに腹を立てているようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます