第26話 雨が降る
なんとなく、肌に触る空気が暗い。
窓の外を見る。
珍しく、雨が降っていた。
雨を嫌ってのことなのか、生徒会室に訪れる者は誰もいなかった。
どうしているのか、峰子は見当たらない。
特にやることがないのか、澄香は一人で本を読んでいた。
やることがないのであれば、別にここにいる必要はないように思うのだが、藪蛇とならないように口をつぐんだ。
「雨か……」
代わりと言ってはなんだが、当たり障りのないことを貞彦は呟いた。
「見たらわかることですね。まあ、帰ることが少し面倒になるくらいでしょう」
あまりにも退屈だったのか、あるいはとてもうっとうしかったのか、澄香は言った。
澄香が物事の否定的な部分ばかりを見ているようで、貞彦は少し悲しくなった。
「雨が降るってことも、悪いことばかりじゃないと思う。例えば新しい傘を買ったりなんかしたら、雨が降ることを望んだりすると思うよ」
貞彦の言葉が意外だったのか、澄香は文庫本から顔を上げる。
真っすぐの視線は、矛のように鋭い。
しかし、しっかりと貞彦に向けられている。逸らすことなく、強く。
「へえ。意外とポジティブな捉え方をするんですね」
「偉大で憧れる先輩に、教えてもらったからかな」
「その先輩とやらに、機会があれば会ってみてもいいのかもしれませんね」
それはあなただよ、とは言えなかった。
澄香は、思考を広げるかのように、遠くを見ていた。
「『人生においていちばん耐え難いことは、悪い天気の日が続くことではなくて、雲一つない日が続くことなのだ』。カール・ヒルティの『幸福論』で言っていたことを思い出しました」
その内容については、澄香が過去に語っていたことを、貞彦は思い出した。
「雨が降ることも、いいことだってことか?」
「そうではありません。適度な心配事と、その心配事からの解放が幸せなのだと論じられています」
前に澄香が言っていなかった内容を、今の澄香は言った。
考え方や捉え方についても、以前の澄香とは違ってきているようだった。
「ふうん。晴れの日が続くってことは、よくも悪くも何も変化がないことだよな」
「その捉え方は正しく思います。良い日が続いたとしても、その良い日が続きすぎると、日常へと飲まれます。日常という平坦さに溶けてしまえば、幸福を感じ辛い」
「今日も一日を無事に過ごせた。それだけでいいものじゃないのか?」
「受動的に生きるということであれば、それでもいいんじゃないですか? 環境の変化に適応できなければ、人はここまで繁栄しなかったでしょう。平坦な日常ではなく、変化を望むことは当然の欲求のように思えます」
「変化を望むことか。そういうことも、あるのかもしれない」
「ともかく、ちょっとした変化があるから、人生に彩が生まれるのだと、言っているように思えたのです」
澄香は、自分では気づいていないのかもしれない。
けれど、貞彦は見ていた。
固く結ばれていた口元が、わずかに綻んでいたところを。
沈黙が訪れて、雨音が大きくなった気がした。
心地の悪い音ではなく、少しだけ穏やかな響きをもっている。
澄香は意を決したように、口を開く。
「久田さんは、人生に意味があると思いますか?」
言葉の意味を認識して、貞彦は強張る。
澄香との交流の中で、再三と聞かされた思想。
澄香の答えは、嫌というほど理解していた。
人生に、意味なんてない。
彼女の思想の根幹。
希望であり、絶望に至る言葉。
貞彦は悩んでいた。
一体なんと答えることが、正解なんだろうかと。
「どうしたんだ、いきなり?」
答えに窮し、貞彦は聞き返した。
「いえ、なんとなく。私としたことが、おかしなことを言いました」
その反応は、澄香にとっては予想通りだったのだろう。
澄香はこの話をなかったことにしようと、話題を転換しようとしていた。
「おかしくなんてない! 大事なことだ!」
貞彦は焦りつつ言った。
この話題を逃すことで、澄香の心に辿り着くことができなくなることを恐れての行動だった。
「……久田さんが何を焦っているのかは知りませんが、そこまで言うのでしたら、再び問いましょう。久田さんは、人生に意味があると思いますか?」
貞彦は息を飲む。今度こそ、逃げることは許されない。
貞彦は、どう答えるべきかを考えた。
こんな時、澄香先輩であれば、どう答えるのだろうか。
なんでも肯定して、受け止めてくれる澄香先輩なら――。
「人性に、意味なんてない、と思う」
貞彦の答えを聞いて、澄香は一瞬動揺を見せた。
「……非常に珍しく、意見が一致しましたね。そうです。人生に意味なんてありません。よくわかっているじゃありませんか」
澄香は控えめに拍手をしていた。
澄香先輩ならきっと、どんなことであれ、相手の意見を尊重したり、共感を示すはずだ。
そう考えた上での答えは、好感触だったようだ。
貞彦は、ホッと胸を撫でおろした。
「さて、特にやることもないですし、本日はもうお開きに致しましょう。それでは、さようなら――久田さん」
澄香は早々に荷物をまとめて、部屋を出て行ってしまった。
ぽつんと取り残される。
気が付けば、窓の外では雷雨が吹き荒れている。
正しい答えを出した。そんな気がしていた。
けれどなぜだろう。貞彦の胸騒ぎは、収まらなかった。
澄香は一人、雷雨の中を傘もささずに進んでいた。
びしょぬれになることもいとわずに、ただ嵐を身に受けていた。
どうしてこんな気持ちになっているのか、自分でもわからなかった。
彼は自分と同じ考えだった。
考えを分かち合える、気持ちを分かり合える可能性があると、そう思った。
なのに、澄香は納得がいかなかった。
自分で問いかけておいて、その答えに納得がいかないだなんて、まるで子供のワガママだ。
そうは思いつつも、湧き出る感情を、人は選べない。
自動的に駆け巡る観念に、簡単に支配されてしまう。
感情や観念の正体を暴いた時、澄香は愕然とした。
その正体は、悲しみだったからだ。
澄香はショックだった。
人生に意味がないということに、貞彦は同調した。
本来なら、嬉しいはずだ。
なのに、おかしい。
なぜかとても、傷ついていた。
「私も案外、バカだったんですね」
澄香は自嘲した。
鉄仮面を脱ぎ捨てて、本来の自分を嘲った。
そして、理解してしまった。
「人生に意味がないなんてことを――久田さんに否定して欲しかっただなんて、本当にバカ」
澄香の一人事は、雨音にかき消される。
その言葉を聞く者は、誰もいなかった。
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