第14話 貞彦と素直
澄香自身が抱える、一つの呪い。
幸福にならなければならない。
本来は、祝福と捉えられる言葉であるはずだ。
幸福は毒だから、接種しすぎることは良くない結果を引き起こす。
澄香が得てきた体験からの学びが、そう言った考えを固着させているのだろうか。
なぜ澄香は、幸福を呪いだと言うのだろう。
一つ目があるということは、少なくとももう一つは、澄香を蝕む呪いがあるはずだ。
二つ目の呪いについては、まだ貞彦は知らない。
澄香は話し終えた後「今日のお話は、ここで一旦お終いに致しましょう」と切られてしまった。
これ以上は話さないというわけではなく「この続きは、後日にお話し致します。この約束は違えません。信じてください」と微笑みを添えて言われてしまった。
貞彦は、ただ頷くしかできなかった。
少しだけ触れることができた、白須美澄香という人間の、一部分。
病弱ながらも、明朗な母親。
わがままが起因して失われた、一つの命。
もしも自分だったらと思えば、きっと後悔に苛まれ続けることは想像に難くない。
あの時にああしていれば、こうしていれば。たらればを繰り返し、自責の念は、自分の首をじわじわと絞め続けるのだろう。
けれど、澄香はそうすることはできない。
母親からの最後の願い。幸せでいること。
自分自身の罪を償う方法が、母親の願いを叶えることであれば、それは確かに、呪いとなるのかもしれない。
しかし、その呪いは、苦しみを生むのだろうか。
白須美澄香は本当のところ、どのように受け止めているのだろうか。
「貞彦先輩はまた浮かない顔してる。ていっ」
「って」
貞彦は鼻頭に衝撃を感じて、意識は現実に戻される。
視線を下に向けると、口元を不快気に曲げた素直がいた。
どうやら素直に、鼻頭を指ではじかれたらしい。
「素直は、いつも元気でいいな」
「わたしはいつも大体元気だよ。それがとりえだからね」
素直は元気よく言った後、「ん?」と疑問を口にしていた。
「その言い方だといつも元気な能天気キャラだとでも言いたいのかー!」
「そこまでは言ってないけどさ」
「わたしが元気なのは元気でいることを選んでいるからだよ」
素直の言葉を聞いて、貞彦は感心して頷いた。
元気でいることを選ぶ。一見簡単なことを言っているようだが、実践できるかどうかは、別問題であるように思える。
気分は勝手に巻き起こるもので、どうしようもない。
そんな気分に左右されていて当然だと考えていた。だから、自分で元気でいることを選んでいるという発想は、目からウロコだった。
「それは、とてもいい考えな気がするな」
「そうでしょー。まいったかー」
素直は胸を張ってどや顔をしていた。
張る物もないくせにと貞彦は思ったが、口には出さなかった。後が怖いので。
いつの間にか止まっていたことに気づいて、歩き出す。
素直もひょこひょこと、隣を歩いた。
吐く息は白く、二人分のもやが重なる。なぜだか少しだけ、寒くなくなったように思う。
貞彦は、何気なく聞いてみた。
「そういえば、素直にとって幸せってなんなんだ?」
色んな人に聞いたり、自分なりに考えたりはしていた。
けれど、素直に聞いたことはなかった。
澄香と同じくらい近くにいて、ある意味誰よりも特別な後輩。
「うーん」
素直は腕を組んで考え出した。
「わかんない」
素直は悩んだ挙句、あっけらかんと言い放った。
貞彦は思わず、ズッコケそうになった。
「お前……澄香先輩の話を聞いた意味はなんだったんだ……」
貞彦が呆れ顔を見せると、素直はむっとした。
「話を聞いた上でわたしにはわかんないなーってなったんだよ。それが答えだっていいはずだよ」
「そうかもしれないけど、身も蓋もないって言うか」
「大体さーこれが幸せであれが幸せじゃないって決めつけちゃった時点でそれはもう幸せじゃないんじゃないかな」
「ほう。なるほど」
貞彦は再び感心した。
素直の発言には、時々ハッとさせられる鋭さがある。
「これが幸せであれが幸せじゃないなんて決められないよ。美味しい物を食べている時は幸せかもしんない。けどさお腹いっぱいの時に美味しい物はいらないよ」
「全てのことに幸せだってあてはまるものは、確かにないのかもしれないな」
「そうでしょ。幸せはきっと決まっていないものなんだよ」
素直は得意げに笑みを見せた。
憎たらしさも見えるが、可愛さの方が溢れていて、なお悔しい。
「それにしてもさー」
「ん?」
「今まで人の幸せについてばっかり考えてきたけど大事なことを忘れてないかな?」
「人のことを考えることは、大事なことだと思うけど」
「ん」
素直は、まっすぐと指差した。
その方向には、貞彦の顔があった。
「俺?」
「そ。人の幸せのことばっか考えてないで自分の幸せはどうなのかを考えてみたら?」
「俺にとっての、幸せか……」
自身の無力さを意識した上で、救われると信じ続けること。
嫉妬せず、悲観的にならず、活動を通して積極的に行動すること。
何もかも自分自身で楽しむこと。
不幸を退けるために慎ましく生活すること。
正義や徳を重視して、勇気をもって正しく生きること。
幸福に至るための、様々な教えについて、思い出した。
けれども、どの言葉も、自分自身にぴったりとハマるものはなかったように思える。
漠然とした幸せの形。ふわふわしていて、とても心地よい。もしかしたら、とても良い香りがして、何物にも乱されない、永遠にも似た安寧の日々が想起される。
これから起こり得るかもしれない、様々な場面が思い浮かぶ。
そして、いつでも幸せな想像の中にいたのは、澄香だった。
「貞彦先輩……赤くなった」
「! そ、そんなことない」
「あはは。わかりやすすぎるね――澄香先輩のことを考えてたんでしょ?」
素直に指摘されて、貞彦はますます顔を赤くした。
完全に図星だった。
「…………はい、その通りです」
「やっと認めたんだね。貞彦先輩は……澄香先輩のことが好きなの?」
素直は、いつになく真剣な表情をしていた。
冗談やからかいではなく、本気の気持ちが伺えた。
だから、貞彦もまっすぐに素直を見据えた。
「……好きだよ」
「そっか」
素直は、貞彦よりも一歩前に出た。
後ろでに手を組んで、夕日を眺めているようだった。
素直は、くるっと首だけで振り向く。
無邪気でまっすぐな、いつも通りの笑み。
「がんばれっ貞彦先輩!」
なんで聞かれたのか、貞彦には真意がわからない。
文句を言われるわけでも、きゃーきゃーと騒がれるわけでもない。
ただ、なんとなく。
夕日の下で照らされる素直は、ちょっとだけ大人びて見えた。
貞彦は、口元を緩めて、答えた。
「ありがとな。素直」
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