第11話 幸福になる勇気

 澄香は相変わらず笑みを浮かべていた。


 傍目には、何も変わっていないように見える。


 それでも、言葉にはできない何かが、変化しているような感覚。


 運命の歯車というものがあるとするのならば、ぎしぎしと音を立てているはずだ。


「そう言って頂けると、光栄ですね。嬉しいです」


 澄香は言葉を素直に受け取っているように見える。


 それは正しいけれど、違う。


 素直に受け取ることで、核心を遠ざけている。


 天使の羽を織りなして、壁を作っているかの如く。


 薄くも、固く、遠い。


「澄香先輩は、俺のことをどう思っているんだ?」


「以前も申し上げたように、大切な後輩、ですよ」


「関係性の話じゃなくて……俺は澄香先輩のことが」


 言葉を言い終える直前、澄香は貞彦の唇に指を当てた。最後まで言葉を言わせないという意思表示。


 貞彦は、澄香の表情に息を飲む。


 美しく、冷たいくらいに、真剣な表情。


「……貞彦さんの仰りたいことは、理解しているつもりです」


 澄香はそう言って、貞彦の唇から指を離した。


 まるで、枷を外すような仕草だった。


「なら……なんで……」


「貞彦さんの幸福を否定するつもりはありません。けれど、結論を急がないで欲しいと思います」


 澄香はまたもや笑みを浮かべた。


 いつも通りの安心する。そして、どこか寂しそうな笑顔。


「誤解しないで頂きたいのは……私は貞彦さんを、拒絶している、というわけではないのです」


「俺だってずっと考えていたんだ。考えて考えて、それでもわからなかった。わからないとわかっても、やっぱり知りたくなった。だから聞いたんだ」


「世の中には、知らない方がいいことがたくさんあるということは、もうご存じでしょう」


「確かにそうかもしれない。知ったところで、なんの得にもならないことはあるだろう。でも、損得は関係ない。澄香先輩のことだから、知りたいんだ」


「……ふふっ。どうしましょうね」


 澄香は珍しく、迷っているように見える。


 固く閉じられた扉が開くまで、あともう一つ、何かが必要だと感じた。


 拳に力をこめる。


 貞彦はついに、覚悟を決める。


 温存しておいた切り札を、ここで切ることに決めた。


「澄香先輩は以前、なんでもするって、言ってくれたよな」


「はい。確かに申し上げました」


「俺は――澄香先輩の過去が知りたい。今まで澄香先輩に何があって、今の澄香先輩に至るまでのストーリーを、知りたい」


「そう言われてしまうと、お話しないわけにはいけませんね。けれど、一つだけ聞きたいことがあります」


「ああ」


「過去のことを知ろうが知るまいが、今の私と貞彦さんには、正直のところ関係はありません。知った結果で、いいことがあるとも限らない。でも、どうして知りたいのですか?」


 澄香は貞彦を見据える。


 まっすぐと射抜く、矢のような視線。


 貞彦は怯むことなく、まっすぐ見つめ返した。


 もう迷いはない。


「理由なんてない。澄香先輩だから、知りたいんだ」


 沈黙が訪れる。


 言葉を噛みしめて、ゆっくりと咀嚼している。


 気まずいわけではない、温かみを包含する、沈黙。


「『これは絶対まちがいのないことだが、勇気こそ、あらゆる人間の特性中、幸福に至るに最も必要なものである』」


「その言葉は?」


「三大幸福論の一つ、カール・ヒルティの『幸福論』の一説です」


「三大幸福論、か」


「ヒルティは、スイス生まれの哲学者であり、法学者でもあり、敬虔なクリスチャンです。富や他者からの評価などの、自分の外から来るもの。すなわち外的なものよりも、徳、愛、正義、勇気などの内的な面を磨くことこそが、幸福に至る一つだと説きます」


「ラッセルとか、ショーペンハウアーとかと、似ているところはあるんだな。自分にとって外にある物はどうでもよくて、自分自身の考えや特性を重視しろって感じだ」


「まあ。ショーペンハウアーまで知っているとは、貞彦さんは博識ですね」


「いや……紫兎の受け売りなんだけど……」


 澄香に褒められて、照れくさく思った。けれど、紫兎には少しだけ感謝した。


「ラッセルは実例を挙げて論理的に不幸と幸福を語りました。ショーペンハウアーはペシミスト的な世界観で、幸福の否定と不幸から避けるための術を語りました。ヒルティはどこか、孔子や親鸞に似ている部分があります」


「孔子は『論語』で、親鸞は『歎異抄』だったっけ」


「ええ。『論語』も『歎異抄』も、本人が記した書物でないことは共通しています。それはともかくとして、そういった思想が似通っていることは、彼が敬虔なクリスチャンであるということが、関係しているのかもしれませんね」


「神とか天国とかを、信じている世界観ってことだよな」


「神の力は人間ではわからないと言った立場ですね。救われるかわからない。こうしなければいけない、ああしなければいけないと、キリスト教は教える。けれど、それを信じたところで幸福になれるか確信はもてない。だから、絶望する」


「信じて、正しくあることで報われるかわからなければ、それは確かに不安だと思うよ」


「その結果『飲んだり食ったりしようじゃないか。どうせ明日は死ぬのだから』とやけくそのようになる。そういった心情や行動に対し、それは違うと喝を入れます」


 澄香は顔を上げる。


 雲が立ち込めているが、わずかな隙間からは陽光が漏れている。


 天からもたらされた、天国へ続く階段のように見える。


「『人生において一番堪えがたいことは、悪い天気の日が続くことではなくて、雲一つない日が続くことなのだ』」


 澄香は、瞳を閉じて、再び開いた。


「良いことばかりでなく、困難があるからこそ、人生は楽しい。毎日が良い日であれば、それはもう日常になる。たまに雨の日があるからこそ、晴れの日は嬉しい」


「人生には良いことも辛いこともつきものだって、そう言っている気がするな」


「ええ。誰しもが幸福を求めている。でも、見つからなくてやけになって、一時的な享楽にふける。幸福とは『行く手に横たわる獅子』であると。獅子が怖くて、幸福になるための勇気を放棄してしまう」


「幸福になるためには、勇気が必要って言っているのは、そういうことなのか」


「幸福になるためには、享楽に流されず、富に溺れず、正しい心を持ち、毎日仕事をする。愛や正義を持って、正しく生きること。クリスチャンらしい考え方だと思います。さて、私が一番お話したかったことは、この先ですね」


 貞彦は体が強張る感覚を覚えた。


 前置きは終わり、ついには知りたかったことが、明かされようとしているのだ。


「貞彦さんの勇気を、しかと受け止めました。貞彦さんのご期待に沿えるかはわかりませんが、お話致しましょう――白須美澄香の物語を」

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