第4話 私たちの幸福論

「ラッセルはまず、不幸の原因となることについて説明します。『バイロン風な不幸』、『競争』、『退屈と興奮』、『疲労』、『嫉妬』、『罪悪感』、『被害妄想』、『世論に対する恐怖』。この八つを不幸の原因として挙げます」


「何個かはなんとなくわかるけど、一部良くわからないものがあるな」


「『バイロン』という人物は、イギリスの詩人、ジョージ・ゴードン・バイロンのことです。偽善と偏見を嘲罵する作風です。暗く救いのない詩を詠うことから、ラッセルに言わせると、彼はペシミストです」


 ペシミストと言われて、真っ先に紫兎を思い出した。


 正確に言えば、紫兎はペシミストではないのだけれど、わかりやすかった。


 人生に生きる意味などないと掲げる、虚無主義の立場だったということを、貞彦は思い出していた。


「まるで人生の真理を見つけたとでも言うように、ペシミストを自称する方々は、何の希望も抱きません。そして、孤独に身を置きます。だって、人生をかけてまで成し遂げるべきことなど、この世には何もないと考えているのですから」


「なんだかそれってつまんないね」


 素直は肉まんをかじっていた。いつの間にか、買ってきたらしい。


 素直は貞彦と澄香にも肉まんを配った。


「ありがとうございます素直さん。『バイロン風な不幸』は、人生の虚無について認め、何に対しても一切の希望や楽しみなどないのだと断じます。期待をすることで、しっぺ返しを食らいたくないという心境が伺えますね」


「なんていうか、わからなくもないんだよな。何かに依存しすぎると、それが失くなった時に痛手を受けるって感じでさ」


 貞彦が言うと、澄香は満足気に頷いた。


「間違っているわけではないのです。心理学で言うと『すっぱいぶとうの理論』が働いているものと言えそうですね」


「『すっぱいぶどうの理論』? 甘いぶどうの中にすっぱいぶどうが混じってたらすごくすっぱく感じるみたいな?」


「多分だけど、絶対違うわ!」


 貞彦がツッコむと、澄香はくすくす笑った。


「お腹を空かせたキツネが、木の上になっているぶどうを見つけました。しかし、高いところにあるので、どうやっても食べることができなかったのです。悔しさ交じりに、キツネはあるセリフを吐きました」


「うんうん」


「『あのぶどうはきっとすっぱくて食べられなかったんだ』と。どう思いますか?」


「負け惜しみっぽいというか、なんというか」


「そうですね。本当は欲しいものについて理由をつけて、あれを手に入れなくても良かったんだと正当化させることを言います。期待して裏切られるよりも、はじめから求めない方が精神的には安定する、という気持ちはわからなくもないというお話です」


 人生に意味などない。澄香はかつて、そう言っていた。


 今でもきっと、その気持ちは変わってはいないのだろう。


 けれど、澄香の言う人生の意味のなさと、ペシミスト達が信じている人生の意味のなさについては、何か違うような感覚を、貞彦は覚えていた。


「さて、人生に意味はないと断ずることで、自ら進んで不幸の道を進んでいるとラッセルは言います。そうではなくて、人間の理性とは虚無を見つめるためではなく、幸福になろうとするものだと、ラッセルは信じているから、彼らのことは不幸の原因であると断じます」


「聞いている限りだと不幸かはわかんないけど幸せにはなれそうもないよね」


 素直は肉まんを食べつくして、指をぺろぺろ舐めていた。


 可愛らしいけれど、はしたないような気もして、貞彦は注意をするべきか迷っていた。


「『競争』、『疲労』、『嫉妬』については、改めて論じるまでもないかもしれません。あえて言うなら、競争を幸福の原因とみなした場合、幸福になれるのは最後まで勝ち上がった人だけです」


「まあ、そうなるな。一位意外が幸福じゃない理論なんてどうかしてると思うよ」


「『嫉妬』も同様ですね。顔がいい、頭がいい、友達が多い、お金持ちだ。妬む理由は様々ありますが、この妬みが解消されるとしたら、どうすればいいのかを考えてみると、よくわかりますね」


「相手が不幸になるか自分が相手よりも良くならなきゃ終わらないかもね。そんなのは競争と一緒で幸福になんかなれないよ」


「『罪悪感』、『被害妄想』、『世論に対する恐怖』は、一般的には抱きたくない感情ばかりなので、わかりやすいのかもしれません」


「『退屈と興奮』ってのが、よくわからないな。退屈も興奮も、必要なことなんじゃないのか?」


「それは貞彦さんの言う通りです。退屈も興奮も必要なものです。ただし、そこには程度を弁えたという文言が必要になります。退屈というものへの恐怖から、過度な興奮を得るための行為に走ることは、果たして幸せなのでしょうか?」


 覚醒剤、アルコール、性的逸脱行為など。


 ヘドロのようにへばりついてくる退屈を紛らわすために、過剰な行為に走ってしまう者が、幸福とは言えないように思えた。


 ネコなんかも、現実世界の退屈を感じていたから、夢の世界へ行っていたんだったと思い出した。


 結局のところ、夢の世界で生きていたとしても、彼女は幸せだったと思える。


 じゃあ、ネコのケースで考えてみると、寝ていても起きていても、彼女の幸福度は変わらなかったのだろうか。


 一瞬、思考が揺らぐ。ネコを起こした行為には、なんの意味もなかったんだろうかと、不安を感じた。


 顔色の変化を感じ取ったのか、澄香は口を開いた。


「もしかして貞彦さんは、猫之音さんを夢の世界から連れ出したことに、無意味さを感じたりしていますか?」


 思考を言い当てられて、貞彦は動揺を隠しきれなかった。


 けれど、隠す必要はないのだと思いなおす。相手はなんたって、白須美澄香なのだから、動揺する必要なんてなかった。


「澄香先輩はお見通しなんだな……」


「この内容だと、当てはまりそうに思えただけですよ。せっかくなので、改めて考えてみましょうか。退屈から夢の世界へと繰り出した猫之音さんは、そのままでも幸せでした。しかし、猫之音さんを現実に戻した行為は、果たして無意味だったでしょうか?」


 澄香は口元は緩めて、優し気な笑顔を作った。


 貞彦の想いとしては、あの件が無意味だったなどとは思いたくはない。


 あの件が無意味だったなどと言ってしまえば、スカートめくりまでしてボコボコにされた、光樹が報われないじゃないか。


 そう考えた時、貞彦の中では答えが浮かんでいた。


「ネコだけだったら、意味がなかったかもしれない。けど、結果的にだけど、光樹はなんだか幸せになった気がする。一人よりも二人が幸せなんだったら、きっとその方が良いと思う」


 澄香は微笑んだ。


 貞彦はほっとした。なんとか正解を絞り出せたようだった。


「不幸の原因について論じた後、ラッセルは議論をさらに進めます。幸福になるための条件についてです。『熱意』『愛情』『家庭』『仕事』『非個人的な興味』『努力とあきらめ』の六つです」


「前向きに感じる言葉が多いな」


「わかりづらいと思われるものだけ、説明致します。『非個人的な興味』というものは、簡単に言えば、人生を豊かにするための趣味などです。大きなことをしなくてもいいのです」


「友達とおしゃべりするとかスポーツをするとかでもいいの?」


「ええ、もちろんです。もし愛する人の死などの悲しい状況であっても、もしその事柄から一時でも離れられる趣味などがあれば、自然と悲しみは小さくなるものです。そのために、色々な物への興味を持っていた方が、人生を豊かにすることができます」


「『努力』ってのはわかるけど、『あきらめ』っていうのはどういうことなんだ?」


「一般的なあきらめるということとは、少しニュアンスが違います。掃除してもでてくるホコリ、ネズミにかじられた野菜など、どうしようもないことに対して、腹を立てても仕方がないものです」


「いちいち怒ってたら疲れちゃうね」


「そういったどうしようもないことを、感情抜きで処理ができる心もち。あきらめとは、一種の寛容さのことを言っているのだと考えられます」


「なんでも肯定してくれる澄香先輩は、寛容で……好きだな」


 貞彦はぽつりと言った。言わずにはいられなかった。


「まあ」


 澄香は驚いたように口元に手を当てる。


 次の瞬間には微笑んでいた。


「貞彦さんに告白をされたことで、まとめに入りましょうか。幸福とは、自分自身の考え方という個人的な側面と、周囲の環境との相互作用という二面的な側面があります。そう考えた中で、ラッセルは言い放ちます」


 澄香は、雰囲気を出すかの如く、手を広げた。


「『私たちは私たちの愛する人々の幸せをねがわなければならない。しかし、それは私たち自身の幸せと引き替えにねがわれるのであってはならない』」


 全体的な幸せを願う。それはそれは素敵なことだろうと思える。


 しかし、幸せになる順序、対象を間違えてはならない。


 全体が幸せになるためには、まずは自分たちが幸せにならなければいけない。


「積極的に世界と関わり、役割を見出して楽しみを探していく。自分たちが幸せになると同時に、他の愛する人たちの幸せも目指していく。ラッセルの幸福論は、個人の幸福を求めると同時に、全体に対する壮大な幸福について想いを馳せているのです」


 個人個人の幸福の中に、全体との調和も条件に加えていく。


 自分が幸福であると同時に、それが全体の幸福へと繋がる。


 壮大であり、夢物語とも思えるほどだ。


 けれど、とても力強い理想は、なんとなく勇気を運んでくるような気がした。


 澄香は、貞彦と素直の手を握った。


「お二人とお話できて、今日も楽しかったですよ。さて次は、どういたしましょうか?」

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