第3話 語る、澄香先輩
「やってきたよー古本市!」
「来たのはいいんだけどさ、素直って本に興味あったっけ?」
「全然ないよ! 漫画くらいだね!」
「さわやか!」
「ふふふ。それでは、少しでも楽しくなるように、色々見て回りましょうか」
貞彦、素直、澄香の三人は、近所の古本市に来ていた。
町のイベントとして、三カ月に一度の割合で行われる。
個人本屋が出張として参加したり、収集家たちがコレクションを交換し合うために参加したりと、目的は様々であるようだ。
読書に対して並々ならぬ興味。そして情熱を捧げている澄香のことを、少しでも楽しませようといった二人の作戦だった。
当然ながら、本が好きな人たちが集まっている。イメージから、静かに荘厳な雰囲気が辺りを占めているのではないかと、貞彦は予想していた。
意外にも、がやがやと騒がしい。
人が集まるところは、目的はどうあれ姦しい様子であった。
まばらな人波を泳ぐように抜ける。
時々立ち止まり、味のある色彩に目を向ける。
風化しつつある紙の、どこか懐かしい匂い。
「古本市と言えば、とある小説を思い出しますね」
「とある小説? それはなにかな?」
「『夜は短し歩けよ乙女』という小説があります。好奇心旺盛でお酒に目がない、ふわふわした女子大生の黒髪の乙女。そして、外堀を埋めるばかりで理屈っぽい、黒髪の乙女に思いを寄せる大学生の先輩による、ラブコメファンタジーです」
「外堀を埋めるばかりで理屈っぽい……」
素直は、そう呟いた。
視線は、貞彦の方に向いていた。
「俺はそんなに理屈っぽくないだろ!」
「外堀を埋める方は否定しないんだね」
「ふふっ。先輩は古本市が嫌いです。偏頭痛に襲われ、悲観的になり、自虐的になるくらいに。家に帰った後も、手術台に縛り付けられて、百科事典を喰わされる夢を見るくらい嫌いなのに、彼は古本市に乗り込みます」
「なんで?」
「もちろん、黒髪の乙女が行くからですよ。直接声をかけて仲良くなることに自信がない先輩は、なるべく彼女の目に留まるように、彼女の行く先々に現れて『奇遇だね』と声をかけることで外堀を埋めるのです」
「それって……ストーカー……」
「これも、愛ゆえに、ですね」
澄香は笑顔で言ったが、貞彦は身震いした。
そして、なんか今は幸せなことになっている、元ストーカーに思いを馳せた。
光樹の場合は、好きでストーカーをしていたわけではなかったけど。
とはいえ結果的には愛し合う関係となったのだから、世の中わからないものである。
澄香はその小説の内容を語り続けていた。
まるで教鞭をとるような博識な姿は、なぜかおもちゃで遊ぶ子供のようにも見える。
何かのテーマについて、生き生きと語ること。
その行為が澄香にとって、楽しみであるのだろうと、貞彦は感じていた。
「黒髪の乙女に対して、読者は一様にこう漏らします。とても可愛らしゅうございます、と」
「ただ単に可愛いって感想じゃないんだな」
「はい。そこが重要です。お酒を好むというと、どこかニヒルなイメージや、退廃的なイメージが伴うと思います。けれど、彼女がお酒を飲む理由はシンプルです。ただ、本当にお酒が好きだから飲むのです」
「好きだから飲むって当たり前じゃないの?」
「そうでもないようです。それに、黒髪の乙女は好奇心が旺盛です。いきなり劇の主役にゲリラ抜擢されても、楽しく引き受けます。借金を苦にやけくそになっているおじさんを助けるために、手ごわい金貸しと勝負に挑みます」
「なんだか豪快だな」
「彼女は理想的なくらいに、清廉潔白です。そして、誰よりも幸せそうだと感じます」
貞彦の頬がぴくりと動いた。
澄香の口から、幸せという言葉が出たからだった。
「澄香先輩は、どうしてそう思うんだ?」
「黒髪の乙女の行動原理は、とてもわかりやすいのです。何事も、楽しいからやるのです」
澄香は考えるそぶりもなく言った。
始めから答えが、決まっているようだった。
「お酒を飲むことも、古本市に行くのも、学園祭で演劇をするのも。正確に言うと、何事も楽しめてしまうような、才気に溢れているのです」
「何事も楽しむ才能かー。それはとてもいいね」
「世界の彩は、きっとただ一つの形はとしては、あるのかもしれません」
「それってもしかして、言葉の限界とかの話か?」
「近いかもしれません。真実は一つでも、それを認識する人々は違った観点を持っています」
「俺が見ているものと、澄香先輩、素直の見ているものは違うってことだろ」
「そうですね。物事を楽しむ才気に溢れているということは、視界では彼女の楽しいフィルターを通された物が見えてくるはずです。世界のありのままの姿など問題ではなく、彼女の目には、なんでも楽しく写るのだと思いますよ」
澄香は人差し指と綾指で、輪っかを作った。輪っかの間から両目が覗く。澄香なりの、楽しいフィルターとやらを表現しているようだ。
「本当に、単純なことなのです。もしも人生を不幸なものにしたいのであれば、徹底的に不幸だと信じられるように、物事を見ればいいのです」
「不幸のフィルターを通してっていうことか」
「春のそよ風すら、うっとうしいと唾棄してしまう。カラッとした陽光も、日焼けするからとわずらわしく思えばいい。秋の木枯らしは凍えると避けて、雪景色を憎んで部屋に閉じこもる。不幸になることは、簡単なことです」
「そんなのはなんだか嫌だなー」
「楽しむためには、ちょっとしたコツがいります。そよ風を身に受けて、心地よさを肌で感じる。夏の日差しで汗を流し、夏の醍醐味だと笑い飛ばす。木枯らしに舞う枯れ葉に風情の欠片を捕まえて、雪景色にロマンスを想う。めんどくさいかもしれない一工夫で、世界の見え方は一変するでしょう」
世界の在り方は一つだけだとしても、それを見るのは個人個人に任される。
どんなフィルターを通して、どんな解釈をしたって、それは自由であるはずだ。
自身を不幸にするようなフィルターを通すことも、それは自由かもしれない。
でも逆に、楽しむためのフィルターを通すという選択をしてもいい。
澄香は、そう言っているのだと貞彦は思った。
澄香は、微笑む。
まるで、世界すらも一緒に微笑んだように、貞彦は感じていた。
「おや。ちょうどいい本がありましたね」
澄香はかがんで、一冊の本を手に取った。
よく読み込まれたのか、わずかにくすんだカバーの文庫本。
タイトルは『幸福論』とあった。
「バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセルによる著作『幸福論』です。数学者であり哲学者でもある。二十世紀の知の巨匠と謳われた彼による書籍は『三大幸福論』に数えられます」
澄香は雄弁に語りだした。
相変わらず、何かを語る姿は魅力的だった。
「第一部では、不幸な人々の特徴について語り、道筋をたどった上で幸福について考察しています」
貞彦は、頷きつつ考えていた。
あっ、これは長くなる、と。
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