第17話 表裏一体の大喧嘩の行方 これからもずっと一緒に
貞彦は直感に従い、屋上を目指した。
再び完璧な施錠を行うと方針が決まっていたため、まだ開いていることは幸運だった。
予想通り、貞彦が思い出した少女は、そこにいた。
「サヤ!」
貞彦が強く呼ぶと、サヤは振り向く。
はっきりと見えているはずなのに、儚げな霧のように見えた。
「貞彦くん。まさか君が来てくれるなんてね」
「ずっと不思議に思っていたんだ。いきなり現れたりいなくなったり。瑛理を誰よりも嫌っているようにも見えるし、そうじゃないようにも見える」
「うんうん。君の見解は正しいよ」
「しかも、俺はさっきまでサヤのことを忘れていた。今だって、気を緩めちまえばサヤのことが見えなくなってしまいそうなんだ。はっきりと目の前にいるのに、おかしな話だよな」
「そうだね。手すりに触れられる。吹きすさぶ風が髪を揺らす。僕の声が君に届く。僕は確かに、ここにいるんだね」
サヤは自分の胸元に手を置いた。
確かな感触を忘れないように、その身に刻むかの如く。
「なあサヤ。率直に聞く。お前は一体、何者なんだ?」
貞彦はサヤに近づいた。
なんだか急に寂しくなって、サヤの肩に触れた。
確かなぬくもりを感じる。血液の循環、はっきりとした呼吸。瑛理と似ている整っていて愛らしい容姿。
確かにここにいるはずなのに、どうしてこんなに不安を感じるのか、貞彦にはわからない。
「まあ、もったいぶったところで結果は変わらないから、言ってしまおうか。僕は瑛理の妹じゃないんだ。瑛理よりも後に生まれたという意味では、妹というのも間違いじゃないけど」
「なんとなく、それはわかってたよ」
「貞彦くんには、現実ではいないお友達っているのかい?」
質問の意味を、貞彦は読み取れなかった。
「ネットでの友達とか、そういうことか?」
「そういうわけじゃない。幼い子供は、よく突拍子もない発言や体験をする。まだまだ意識や成長がなされていないからだけど、大人から見ると異常に映るかもしれない」
「それって、どういうことだ?」
「妖精や魔法使いを見るように、心の中にお友達を感じることがある。それはイマジナリーコンパニオンと呼ばれる。イマジナリーフレンドとも言うね」
「イマジナリーフレンド?」
貞彦は聞いたことがなかった。
日本語に訳すと、『空想の友人』という意味になる。
「イマジナリーフレンドは時に助言をしてくれたり、一緒に遊んだりと、本人の心の支えになってくれる。でもね、成長するにつれて、自然といなくなるケースが多いんだ」
「サヤはその、イマジナリーフレンドっていう奴なのか?」
サヤの言っていることと、微妙にサヤの存在が噛み合っていないように感じた。
けれど、体験も概念もない貞彦にとっては、そうなのだとありのまま理解することしかできなかった。
しかし、サヤは首を横に振って否定した。
「僕は、刃渡サヤはね――刃渡瑛理そのものなんだ」
サヤの言っていることを、貞彦は飲み込めなかった。
サヤは確かにここにいる。
瑛理は確かにそこにいた。
二人は別々に活動していて、おもしろく言い合いをしながらも、確かに別の個体として存在していた。
それでも、二人は二人とも、刃渡瑛理なんだとサヤは言った。
「多重人格って、聞いたことはあるんじゃないかな?」
「ああ。小説とかドラマとかで出てくるな。自分の中に別の人格がいて、時と場合によって交代していくってやつか?」
「ああ。解離性同一性障害。もし障害の概念で説明をするのであれば、僕はそういった存在にあたるんだろうね」
多重人格。解離性同一性障害。
瑛理の中に、少なくとも二人の人格が存在する。そういったことなんだと、貞彦は理解した。
「でもさ、普通は刃渡瑛理の体の中で入れ替わったりするもんじゃないのか。なんで、サヤはサヤとして存在しているんだ?」
「はっきりとしたことは僕にもわからないよ。辛いことだったり寂しい気持ちだったり、自分を守るために、程度の違いはあれ解離は起こりうる。授業中の白昼夢から、人格の交代まで、様々な形をもって意識は離れる」
解離という現象は、何も人格の交代を表わすだけの言葉ではない。
夢中になり時間を忘れて、その間の記憶が想起できないことだって、解離である。
例えば香田は、トラウマと言えるくらいまでボコボコにされたことで、その際の記憶を失っていた。
物理的な衝撃による記憶の消失も、解離である。
しかし、解離というものは、その個人の中でしか起こり得ない。
だからこそ、サヤという存在は特殊なのだと、サヤ自身が語った。
「僕が初めて意識として芽生えた時、僕はまだ瑛理の中にいた。瑛理はよく怒っていたし、よく泣いてもいた。感情の起状が激しくて、よくトラブルを起こしていた」
「それは、前にも言っていたことだな」
「ある日、集団でリンチにあったことがあった。今まで諍いをしていた相手が、最終手段に出たんだ。当然瑛理はボコボコにされて、悔しくて辛くて泣いていた。その時、瑛理はついに自分を傷つけようとしたんだ」
貞彦は背筋に冷たさを感じる。
それほどまでに追い詰められていたとは思わなかった。
幼い心が傷つけられ、踏みにじられることで、一体どれだけのダメージを負ったのだろうか。想像すらも追いつかなかった。
「その時、僕はなんとかしなくちゃって思った。そして、気が付いたら瑛理の手を握っていたんだ。そんなことをしたって、なんの慰めにもならないと、僕は初めて口に出した」
「それで、どうなったんだ?」
「その場は収まったんだけど、不思議なことが起きた。瑛理は時々、起きた出来事を忘れるようになった。起状の激しさはあったけど、それでも前ほどにではなくなった」
「すべてが不思議すぎるな」
「僕は他人には見えないことを良いことに、瑛理の隣でずっとツッコミ続けた。人の心がわからない瑛理を、ひたすら批判したり慰めたりし続けた。僕が存在するようになって、瑛理は心というものがよくわからなくなったみたいだからね」
他人の心がわからない刃渡瑛理。
サヤが生まれてから、その傾向がさらに著しくなった。
そんなのは、まるで。
「正確に言うならば、僕は解離性人格障害による、人格の分裂とは違う」
サヤは感情のこもらない声で言う。
「僕は瑛里の理性、自己批判、思い出なんかの一部なんだろう。瑛里の中に新しくできたと言うよりは、瑛里から分離したんだ。陰と陽の勾玉みたいな、表裏一体の存在」
サヤはそう言って、目を閉じた。
生まれた思い出、瑛里と過ごした日々。色々なことを思い返しているのかもしれない。
「僕たちが分かれたことについて、理由をつけてしまおうか。一人では耐えられないことでも、二人で分け合えば耐えられるかもしれないから。なんてね」
サヤは恥ずかしそうに言った。
まるで御伽噺のようなご都合主義。
それでも、そんな優しいお話を信じてみたくなった。
ただ、貞彦にはまだわからないことがあった。
「そうだとするなら、不思議に思うことがある。瑛理以外には誰にも見えなかったんだとしたら、どうして今は実体になっているんだ?」
貞彦の問いに、サヤは肩をすくめる。
どうして今ここにいるのかという理由について、サヤにもわからないらしい。
「僕がこうして実体になったのは、つい最近なんだ。貞彦くんに謝りに行ったあの日のことだよ」
「マジか。でも、実体となったことで、なんで俺に会いに来てくれたんだ?」
「今まで我慢してきたけれど、最近の瑛理は人に迷惑をかけすぎていた。水無川先生を困らせるわ、貞彦くんたちのラブシーンを邪魔するわ、僕はついに堪忍袋の緒が切れたんだ」
サヤは怒りを表すように指を鳴らした。
「瑛理をひたすらに罵倒して、少し頭を冷やそうと、初めて瑛理の側から離れた。そうしたら、何故かこうなったんだ」
神様のいたずらか、一時的な奇跡か。
それとも、世界に組み込まれたルールなのか。
どんな理由か定かではないが、とにかくサヤはここにいる。
それだけは事実だった。
「だけど、それももう終わりだ」
サヤは、感情のこもらない声で言い放った。
世界と自分とを断ち切るようだった。
「サヤはまた……見えなくなるのか?」
「見えなくなるというよりも、僕は瑛理の中に帰ろうと思う」
貞彦の心は揺れた。
たった数日間とはいえ、一緒に瑛理やカナミについて悩み、寄り添ってきた絆を感じていた。
友達になれそうだと、思っていた。
その人物が目の前から消えてしまうということを感じ、喪失感に胸が痛む。
「そんな。どうして」
「僕が瑛理と離れたことで、瑛理は辛いことを忘れた。人の心を感じることも、失った。それはきっと、ズルをしているみたいで、自然な生き方じゃないんだと思うんだ」
「ズルだってなんだって、構わないじゃないか。そういった生き方が、刃渡瑛理の生き方なんだろ」
「なんだい。僕のことをそんなに気にかけるなんて。貞彦くんは僕のことが好きなのかい?」
「好きだよ。ラブじゃなくて、ライクだけどな」
澄香や素直と会わなかった間、一番長い時間を共に過ごした相手は、刃渡サヤだった。
彼女がいなかったら、きっともっとふさぎ込んでしまい、相談支援部に戻ることができなかったのかもしれない。
恩義や感謝、そしてそれ以上に友情を感じていた。感じてしまっていた。
貞彦は、サヤが消えてしまうことを、とても悲しいことだと感じていた。
サヤは、とても満足そうに笑っていた。
「そっか。少しだけ、消えてしまうことが惜しくなってきたよ」
「だったら」
「でも、それはできない。なぜならね、僕は少し安心したんだよ」
サヤは貞彦を見つめる。
母親のような姉のような、慈しみと親しみの込められた瞳。
「結局瑛理の奴は、僕の忠告や批判なんかものともせず、今回の件を解決させた。もちろん色々な人の力があったからだ。瑛理単独ではどうしようもなかった」
サヤは、思い出を探っているのか、目を閉じた。
「けれど、瑛理は自分のやり方で今回を乗り切った。その結果、瑛理にも仲間ができたように思うんだ。きっとこれからも間違い続けるだろうけど、今の瑛理なら大丈夫だって感じるんだ」
「サヤ」
貞彦はもう、何も言えなかった。
間違い続けて、アホらしいことを続けて、それでも瑛理はやりきった。
人に迷惑をかけて、人の力を借りながら、それでも前に進めたのだ。
「ありがとう貞彦くん。瑛理と――僕と関わり続けてくれて」
サヤは貞彦を抱きしめた。
感触がある。ぬくもりがある。鼓動を感じる。
確かにここにサヤはいるのに、ここにサヤはいないんだと、矛盾を感じた。
サヤは体を離し、目一杯の笑顔を見せた。
サヤの体から、金色の光が浮き上がっていく。
シャボン玉のようにふわふわと、サヤは世界に溶けていく。
「貞彦くん。これはお別れじゃない。瑛理の中に、ちゃんと僕はいるはずだから。さよならなんて言わない」
貞彦は唇を噛み、溢れそうになる涙を堪えた。
サヤが言うように、これはきっとお別れなんかじゃないんだ。
刃渡瑛理が、刃渡瑛理として戻ってくる。ただそれだけの出来事なんだ。
自然な形に、ただ戻ってくるだけなんだ。だから、これは悲しい出来事なんかじゃないと、貞彦は自分に言い聞かせた。
「たった数日間だったけど、君といた日々は楽しかったよ! これからもよろしくね親友」
「ああ。これからもよろしくな!」
消えゆくサヤに対して、貞彦は手を振ったりしなかった。
代わりに、貞彦とサヤは握手を交わした。
やがて、繋いでいた手も光に包まれて感触を失った。
貞彦は、心の中だけでサヤに話しかけた。
ありがとうサヤ。
バイバイ。
「そんなことさせるかー!」
弾丸のような声が飛んで、貞彦の横を駆け抜けた。
包んでいた光は消えて、サヤは実体を取り戻す。
貞彦が気が付いた時には、サヤは瑛理に押し倒されていた。
「瑛理!? 君は何をやって……というかどこを触ってるんだ!」
「消えるなんて言うなよ! 俺にはお前がいないとダメなんだよ~」
瑛理は女房に捨てられそうなダメ亭主みたいなことを言った。
瑛理はサヤを抱きしめた。
引くほど涙目だった。
「いや、別にいなくなるわけじゃないから! 瑛理の中に戻って、一つの形になるんだよ」
「でもそうすると、今のサヤは消えてしまうんだろ?」
「そうだよ。そもそも、僕がこうして存在することが、歪な状態なんだよ」
「歪で何が悪い!」
瑛理は叫ぶ。
子供のわがままと変わらない力強さで、身勝手な思いをぶつけた。
「世間の評価だとか、正しい形なんかどうでもいい。サヤと一緒に過ごして、サヤと一緒にこれからを生きる。それだけでいいんだ」
「君は本当にいそれでいいのかい? 例えば就職の面接の時にも、僕は保護者みたいな感じで隣にいる。そんな恥ずかしい状態でいいのかい?」
「いいに決まってる」
「いや、不採用の未来しか見えねえよ!」
我慢できずに、貞彦はツッコんだ。
友情の別れのシーンなど、一気に吹き飛んでしまった。
本当に、刃渡瑛理という奴はとんでもない。
「僕がここにいることで、きっと君は一生完全にはなれない。思い出は欠けたままで、人の気持ちはわからずに生きていく。それでもいいのか?」
「いいに決まってるだろ!」
サヤの説得を、瑛理は頑なに拒んだ。
道理も理屈も何もない。感情だけで突っ走る様は、恥ずかしくも思える。
けれど、その真っすぐでどうしようもない純真さを、貞彦は否定する気になれなかった。
「俺とずっと一緒にいてくれよ」
瑛理はサヤの胸に顔をうずめながら泣きだした。
子供すら通り抜けて、もはや赤ちゃんみたいだった。
情けなくていたたまれない。
ただ、純粋で嘘もない。ありのままの刃渡瑛理だった。
「はぁっ」
サヤは深く、大きな溜息を吐いた。
瑛理はおいおいと泣いている。
「なあ貞彦くん。君が見たかったハッピーエンドって、こんなにアホらしいものなのかい?」
サヤは押し倒されたままの姿で言った。
貞彦はおかしくなって、少し噴き出す。
「俺にもよくわかんないな。けどさ、サヤはどう思うんだ?」
貞彦は、サヤの気持ちを聞いた。
今までの傾向から、他人のラブコメを見せられてばかりだったが、今回のはラブコメなんだろうか?
考えても答えはでない。
ただ、くだらなくてアホらしい。子供みたいなわがままをぶつけられた、サヤの気持ちに興味が湧いた。
「最悪の気分だよ。僕の思惑や意図なんて、なんにも考えてくれない。本当に瑛理はクズだ。僕は心底呆れかえっているよ」
サヤは嫌な顔で瑛理を罵倒した。
そして、そっと瑛理の頭を抱きしめる。
「本当にしょうがない奴だよ。これからも、僕が面倒を見てあげなきゃいけないようだね。このクズめ」
厳しいことを言いながらも、サヤは楽し気に笑っていた。
サヤがなんだか嬉しそうだから、きっとこれは良かった出来事なんだと思う。
歪な関係。歪な形。
意味のない人生を精一杯生きる、とても不思議な出来事だった。
こうして、わがままな自分同士の喧嘩騒ぎは、無事に仲直りへと至ったのである。
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