第5話 猫之音ネコと仲良くなろう大作戦

「それでは『猫之音さんと仲良くなろう大作戦』を始めましょうか」


 ニコニコと澄香が言い放つと、香田は子犬のように震えだした。


「あの……本当にやるんですか?」


「やるというのはあくまで香田さんの意思によります。無理強いはいたしません」


 澄香がそう言うと、香田は頭を抱えだした。


 もしも作戦が成功した場合、少しでも猫之音のことが怖くなくなり、香田の目的は達成されるかもしれない。


 作戦が失敗したとしても、特に変化なし。


 それだけを考えると、特に香田にデメリットはないはずだ。


 しかし、ずっと怖がっていた相手に対峙しなければならない。


 将来的にはメリットになるとしても、現状のストレスには向き合わなければならない。


 一応はやることに同意したものの、香田は尚も葛藤していた。


「香田先輩! やるって決めたのなら根性を見せなよ。男の子でしょ!」


 素直に叱咤激励され、香田の震えはわずかに弱まる。


 年下の女の子に情けない姿を見せたくないという思いは、香田にも存在するようだった。


「そんなに難しいことをするわけではないのですよ。第一ステップとしては、まずは遠くから挨拶をすること。それだけでいいのですから」


 猫之音と仲良くなろう大作戦。


 実際に何をするのかと言えば、猫之音と距離を縮めることで、猫之音がいても気にならなくなるような心情に持っていこうという趣旨だった。


 澄香曰く、認知行動療法の基本モデルを使用した方法だとのことだった。


 貞彦は、澄香から受けた説明を思い出していた。






『まず、ストレスに対する反応を軽減するためには、ストレスの元となるストレッサーについてと、ストレス反応について知らなければいけません』


 ストレスを作り出しているものが環境。


 ストレス反応は、大まかに言うと四つに分類される。


 一つ目がストレスに対する自動的に浮かんでくる思考の認知。


 香田の場合だと『猫之音に過去ボコボコにされた怖い。近づいてはダメだ』という自動的に湧いてくる思考、出来事に関する捉え方を認知という。


 二つ目が気分・感情。香田を例にとると、猫之音が近づいてくることで感じる嫌な気持ち、恐怖などの自動で湧き上がるものだ。


 三つ目が身体反応。ドキドキと鼓動が早くなる、発汗、不眠などなど、体に現れる反応だ。


 四つ目が行動。猫之音から離れる、距離を取る、対策を練るために観察するなど、ストレッサーに対して行っている行動。


 この環境に対する四つの反応。その中で気分・感情、身体反応は意思の力で制御ができない。


 けれど、認知と行動については自らの意思で改善することが可能である。


 ストレスに対する反応を、変えられるところから変えていくことで、ストレスのコントロールや軽減を図るというのが、認知行動療法というものらしい。


 そう澄香に説明を受けた際に、貞彦は質問した。


『香田が認知行動療法とやらで猫之音のことが平気になることで、猫之音に対してもメリットがあるのか?』


 今までの澄香の考え方は、依頼者だけでなく、関わっている者、全員が良い結果になるように考えていた。


 今回は香田本人に加え、渡会も関係者となった。


 しかし、一番の当事者というのは、猫之音本人なのだ。


 澄香のことだから、まだ会ったこともない猫之音のことについても、考えているように思えてならないのだ。


『ふふふ。貞彦さんの視野も、広がっているようですね。もちろん、香田さんの対応が普通になることで、猫之音さんにもメリットがあると考えています』


『猫之音先輩にとってのメリットってなんなのかな?』


 素直が聞いた。


『香田さんだけでなく、猫之音さんもなんらかのトラウマを感じているのだとしたら、香田さんとの関係が改善することで、トラウマから解放されて目覚めるかもしれません』


 猫之音もなんらかのトラウマを背負っているとしたら、二人同時に改善することができる。


 まさに一石二鳥だと貞彦は思った。


 しかし、この時の澄香は、意外なことに遠くを見るように目を細めていた。


『しかし、猫之音さんが目を覚ますということが、彼女の幸せに繋がるかどうかなんて――誰にもわからないんですけどね』


 彼女にとって幸せかどうか。


 珍しいことに、こう言った時の澄香の瞳は、とても憂いを帯びていたように貞彦には見えた。





 そのために、クリアする目標を四つに設定した。


 一つ、遠くから挨拶ができる。


 二つ、3m以内で挨拶ができる。


 三つ、1.5m以内で挨拶ができる。


 四つ、50㎝まで近づいても平気になる。


 どれだけ挨拶をするんだよと貞彦は思ったが、重要なのは挨拶をすることで、相手に対して敵意はないとアピールすることであるらしい。


 猫之音は男子に触れられると攻撃する。


 攻撃をするということは、なんらかの脅威を感じている、かもしれない。


 こちらが怖いということは、相手も怖がっている可能性があるのだ。


 お互いに抱いているかもしれない恐怖心を和らげること。


 それが澄香の目的のようだ。


「あっ。猫之音先輩が来たよ」


 物陰から見張っていた素直が言った。


 気持ち悪いほどの香田による情報のおかげで、猫之音が登校する時間、ルートがわかっていたため、先回りしていたのだった。


「香田さん。がんばってください」


「ほら、香田。がんばって行ってこい」


「ひぃいいいいい」


 澄香と貞彦が激励すると、香田は悲鳴を上げながらも前に出た。


 電柱に体を隠しながらではあるが、うつらうつらと歩いてくる猫之音を、しっかりと捉えていた。


「ね、猫之音」


 香田は呼ぶが、猫之音の歩みは変わらなかった。


 何事もないように、ゆらゆらと進んでいた。


「お、お、おひゃよう!」


 噛んだ。


 猫之音はまるで反応を示さず、相変わらず揺れながら通り過ぎて行った。


 絹のように流れる黒髪。今日のバレッタリボンは緑色だった。


「やりましたね香田さん。上出来ですよ」


 香田が噛んだことには目をつぶった、いや耳をふさいだ澄香は、香田を褒めた。


「よくやったじゃないか香田。偉いぞ」


「香田先輩がんばったよね。えらいえらい」


 貞彦と素直も香田を褒めた。


 起こした行動に対し、肯定的な気持ちを抱いてもらう。


 そのために、出来たことを褒めて強化していくというのが認知行動療法のやり方だと澄香から教わっていた。


「白須美先輩。久田くんに矢砂さんもありがとう。俺、ちゃんとできていましたか?」


「ええ。完璧でしたよ」


 全然完璧じゃないけどな。


 貞彦はそう思っていたが、褒めた効果が無くなるので、口には出さなかった。


 おまいっきり噛んだしへっぴり腰だったが、最初の一歩をなんとか踏み出すことはできたのだった。


「はあ。今日の挨拶はなんとかなったな」


 香田はへなへなとへたり込んだ。


 澄香は、おかしく感じるくらいにニコニコしていた。


「ええ。朝の挨拶は終わりですね」


「ん? 朝の挨拶?」


 貞彦は反応した。


 朝の挨拶があるということは、当然。


「も、もしかして……」


 香田は絶望に震えていた。


 今にも失禁しそうな勢いだった。


「もちろん、お昼にもご挨拶をして、帰る前にも挨拶はしますよね。万が一夜に出会ったとしたら、挨拶は交わすものだと思います。実践を多くこなせば、香田さんの恐怖も早く解消される可能性が高くなりますね」


 いつも穏やかで優しい澄香の笑顔が、この時ばかりは鬼に見えた。


「香田さん。ファイトです」

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