エピローグ おかえりなさい

「なるほど。それはそれは、大変でしたね……」


 峰子はそう言いながらも、頭を抱えていた。


 全てのごたごたが終わった後、貞彦は峰子に事の顛末を報告した。


 今回の件は峰子の尽力もあったため、お礼も兼ねて会いに来たのだった。


「とはいえ、これだけ大量の人物が関わったにもかかわらず、なんとか厳重注意だけで済んで良かったですよ」


 峰子はぐったりとしていた。


 おそらく、貞彦の知らないところで、教師たちに説明をして回っていたのかもしれない。


 成長のために環境を整えるといった信念を持つ峰子なら、ありえそうな気がしていた。


「峰子先輩、本当にありがとうございました」


 貞彦は頭を下げた。


 絡み合った思いを解きほぐすことに繋がったのは、峰子が関わってくれたからだと思っていた。


「貞彦くん。そんなにかしこまらないでいいですよ。頭を上げてください」


 峰子に促されて、貞彦は頭を上げた。


 峰子は微笑んでいた。


「今回こうして出会えたことも、何かの縁だと思います。用がなかったとしても、いつでも遊びに来てください。歓迎しますよ」


「はい」


 貞彦は元気よく頷いた。


「この後は部室に戻られるんですか?」


「そうですけど、何かありましたか?」


 峰子は、珍しくいたずらめいた笑みを見せた。


「今日は、白須美さんと一緒にいてあげるといいと思いますよ」


「なんでですか?」


 峰子の意図がわからなくて、貞彦は聞き返した。


 峰子は小さく「ふふ」と笑う。


「あそこがきっと、皆さんにとっての居場所だからですよ」


 貞彦は、峰子の言っている意味が最後までわからなかった。






 相談支援部室に戻ると、居たのは澄香一人だった。


 誰もいないことで油断をしているのか、ソファーに座りながらうたた寝をしていた。


 貞彦は、澄香の寝顔を見るのは初めてだった。


「澄香せんぱーい」


 本当に寝ているのか、小声で呼んで確認をした。


 反応はなく、穏やかな寝息が聞こえるだけだった。


 こんな機会は滅多にないので、額に落書きでもしてやろうかと思った。


 どんな反応を見せるのだろうと、子供のようにわくわくした。


 サインペンを手に取り、いたずらを実行しようとした。


 けれど、澄香の寝顔を改めて見つめた時、そんないたずら心など吹き飛んでしまった。


「……澄香先輩、本当にうたた寝が趣味だったんだな」


 澄香が初めて自分のことについて話してくれたことを思い出した。


 そして、澄香が言っていたことに、何か違和感を感じていたことも。


 あの時、澄香が『言わなかったこと』とは、一体なんだったのだろうか?


 貞彦は、ここ数日間のてんやわんやな出来事を思い返していた。


 甲賀のこと、まりあのこと、カルナのこと、奥霧のこと。


 知ることができたのは、ただの事実なんかではなく、それぞれの信念や、思いについてだった。


 思考がそう結論づけた時、自分の感じていた違和感に対し、一つの回答を導き出した。


「澄香先輩のことを知ったような気でいたけど、それはあくまで事実だけだ」


 貞彦は思考をまとめるように、口に出した。


「澄香先輩の思い出については、何も知らないんだな……」


 星座や血液型、好きな食べ物なんかも、確かに澄香自身の情報だ。


 けれど、そこに付随する体験や経験、今までの人生の思い出など、大切なことについては何一つ語っていなかった。


 それは澄香自身が、意図的に言わなかったように思える。


 それは言う必要がないと感じていたのか、それとも、言いたくなかったのか――。


「私のことが、知りたいんですか?」


 声をかけられて、心臓が跳ねた。


 いつの間にか目が覚めていたらしく、澄香は口に手を当ててあくびをしていた。


「まあまあ貞彦さん。そんなところに立ち尽くしていないで、どうぞこちらにお座りください」


 貞彦が呆けていると、澄香は自分の隣をポンポンと叩いて示した。


 隣に座れ、ということらしい。


 貞彦は隣に座ると、ふわっとした甘い芳香が湧きだった。


「実根畑さんのところにお伺いしたのですよね?」


 さきほどの話を蒸し返されるかと思いきや、澄香は別の話題を話し始めた。


「そうだよ」


「実根畑さんはどのような様子でしたか?」


 貞彦は、今にも崩れそうなほどにぐったりとしていた峰子の姿を思い浮かべた。


「すごく疲れているようだった。おそらく今回の件で色んなところのフォローに回ってるんだと思う」


「まあ。それでは、責任の一端は私にもありますね。実根畑さんだけにお任せするのは無責任ですね。また後日、改めてお伺いいたしましょう」


 言っていることはごもっともだが、今すぐに行くわけじゃないんだと、貞彦は思った。


 これ以上の話題は思いつかず、沈黙で満たされる。


 独り言を聞かれてしまったことで、澄香にどう思われているのか、不安だった。


 横目で澄香を見る。笑顔を浮かべているが、どこかに影があるようにも感じる。


「人に心があるとするならば、どのような形をしていると思いますか?」


 澄香は唐突に質問をした。


 意図がわからないながらも、貞彦は考えた。


「普通の答えかもしれないけど、ハートの形をしているんじゃないのか?」


 貞彦が言うと、澄香は口元を綻ばせた。


「普通で、素敵な答えです」


 澄香はいつも通りに貞彦を褒めた。


 しかし、今に限ってはそれだけでは終わらない。


「私が思うのは、きっと歪で、バラバラなトゲトゲでいっぱいな形をしていると思います」


 澄香の言っている形はなんとなく想像ができた。きっとウニとか栗のイガとか、そういった形なのかもしれない。


 けれど、言っている意味はよくわからなかった。


「なんで、そう思うんだ?」


「人と人とが近くなり、心が触れ合うようになることで、幸せや喜びに満たされるのでしょう。それと同時に、近づきすぎることは痛みも生むからです」


 誰かと仲良くなる。絆を結ぶ。


 それはとても素晴らしいことだと、貞彦や澄香も認めている。


 けれど、近すぎる関係にはお互いへの遠慮もなくなるのではないかと、予想はできる。


 相手に対する信頼が、甘えが、思い込みが、近くなればなるほど、生じた痛みは致命傷となりえる。


 そんな姿を見てきたから、貞彦は容易に想像がついた。


「誰かに近づくことは素晴らしいことです。けれど、近づかずに一定の距離を保つこと。それもまた、素晴らしい生き方だと、そうは思いませんか?」


 距離があるから、傷つけ合わずに済む。


 近づきすぎないから、人と人は一緒にいられる。


 お互いの心にトゲがあるとするならば、触れ合わない距離でなら一緒にいられる。


 澄香の言っていることは、間違いではなく、真実であると貞彦にも感じる。


 そもそも、今までの自分自身の生き方は、澄香が言うように人と距離を取りながら生きていたのだから。


 澄香の言っていることは、嫌というほどわかっていた。


「思うよ。澄香先輩の言う通りだ」


 澄香は微笑んだ。


 今だけはその微笑みを、なんだか寂しく思う。


「けれど、近づくことで得られる痛みだって、きっと人生にはつきものなんじゃないかって、そう思えてきたんだ」


 うっとうしい、ウザいと先輩を罵る後輩たち。


 やる気がない、愛を感じていないと、後輩を嘆く先輩たち。


 どちらもきっと、近づいていったからお互いに言えるのだ。


 そう思うことが、できるようになっていた。


「そうですか――わかりました」


 何がわかったというのだろうと、貞彦は不思議に思った。


 澄香はうつむいているため、表情は見えない。いつも笑顔で微笑みをくれるのに、今日はどうして虚ろなのだろう。


 何かに落ち込んでいるのか、それとも葛藤をしているのか、貞彦には判断がつかなかった。


「少し、失礼しますね」


 澄香は貞彦の正面に立ち、かがんだ。


 そして、貞彦の左胸に頬を添えた。


「澄香先輩!?」


 与えられたわずかな重み。添えられた手のひら。憂いを帯びた口元がわずかに見える。


「聞こえます。貞彦さんの心臓の鼓動が」


 ドクンドクンと、自分でもわかるくらいに心臓が早鐘を打っていた。


「な、なにをしてるんだ?」


「貞彦さんは今回、素直さんの柔肌を目撃しましたね」


「今その話題!?」


 澄香に触れられているという緊張もあり、貞彦はもうわけがわからなかった。


「まりあさんに抱きしめられましたね。実根畑さんとカルナさんと、数日間同じ部屋で楽しんでいましたね」


「ちょっと待って、後半の言い方は誤解をまねく!」


 なんでこんなことを言うのだろうと、貞彦は不思議でならなかった。


 ただ、おそらくはさきほどの質問の答えが、何らかの鍵であったことは確かなようだった。


「そう考えると、まるでラブコメの主人公のようですね」


「澄香先輩がラブコメとか言い出した!?」


 いや別に言ってもいいのだけど、と貞彦は思った。


「貞彦さんがいない間、素直さんがいない時もありました。久しぶりに私は、この部室で一人きりの時間を堪能することができましたよ」


 前向きな発言に聞こえるが、言葉の裏はそうではないと直感が告げていた。


 貞彦は、思い当たる可能性を口に出すことにした。


「もしかして、澄香先輩は寂しかったのか?」


 澄香は少しだけ強く、貞彦の胸に顔を押し付けた。


「ふふふ。それはどうでしょう」


 はっきりとした答えはわからなかった。


 鼓動は相変わらず落ち着かない。


 けれど、澄香がいるこの部屋の空気を、改めて懐かしく感じた。


 あの二人が自分の居場所を見つけたように、自分にも居場所があったんだと気づかされる。


 貞彦の心はほぐされていく。


 自分の居場所に帰ってきたんだ。


 そう感じた。


「ただいま。澄香先輩」


 自然と言葉が溢れていた。


 澄香は顔を上げた。


 見つめ合う。


 微笑む。


「おかえりなさい――貞彦さん」

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