第8話 思いが恋に変わるまで

 少しだけ距離が近くなったことで、ベンチでおしゃべりをすることになった。


 共通の話題からであれば話しやすかったので、主に素直に関する話題になった。


「素直ちゃんったら面白いんですよ。大樹くんに男らしさが足りないって言って、わたしが男らしさを見せてやるって、強炭酸コーラを一気飲みして吹き出してたんです」


「うわっ。まさにあいつがやりそうなことだな」


 相手の懐に躊躇ちゅうちょなく飛び込んでいく様子は、まるで弾丸のようだと思う。


 どこまでもストレートに思ったことを言い、やりたいことをやる。


 そんな素直さを、羨ましく思うこともある。


「素直ちゃんは、白須美先輩のことを良く話すんです。澄香先輩は頭が良くて美人で、穏やかで、優しい。褒めてくれるし見守ってくれる、まるでお母さんみたいだって」


「お母さんみたいか。確かにわからなくはないかもな」


 澄香先輩がそんなことを聞いたら、どんな反応をするだろうか。


 貞彦には大体想像がついた。きっといつも通り、ふふふって笑うだけだ。


 決して否定したり取り乱したりせず、なんでもかんでも受け入れてしまうのだろう。


「それに、久田先輩のこともよく話しているんですよ」


「……それはあまり聞きたくないな」


 素直に嫌われている、とは思わない。


 むしろ仲良くしている方だと思う。澄香の指示とはいえ、デートをするくらいには関係性が出来ていると思う。


 だからこそ、なのかもしれない。


 他人に対して素直が自分のことをどう言っているのかを知ることは、気恥ずかしかった。


「心配性でちょっと心が狭くて、もうちょっと男らしくなって欲しいって言ってましたよ」


「よし、殴ろう」


 大見はおかしそうに笑った。


「心が狭いって言っている理由が、少しわかっちゃいますね」


「大見までそんなことを言うのか。まあまあへこむぞ」


「あはは。これから言うことは、素直ちゃんには内緒にしてくださいね」


 大見は声のトーンを落とした。ひそひそ話をするような、悪戯っぽい笑み。


「でも、人に対して真剣に向き合える。そんなところは大好きだって、言ってましたよ」


 貞彦は、視線を横にずらした。


 心に温かみが落ちて、恥ずかしさが染みる。大見が嘘を言うようには思えないから、きっと本心なのだろう。


 もやもやっとした、定まらない形がうずまいていた。不確かでぐにょっとしている。


 この気持ちに対する名前は、まだ決まらない。


「久田先輩は、素直ちゃんと白須美先輩のどっちが好きなんですか?」


「いっ?」


 突然の質問に、誤って口の中を噛んでしまった。


 広がる血の味を感じながら、平静を装った。


「好きって気持ちは、俺にはよくわからない」


「嫌いというわけでは、ないんですよね」


「もちろん。でもなんていうのかな、俺はまだ、恋をするなんて大層なことはできないって思ってるっていうか」


 恋をすること自体に、なんら特別性や資格があるわけではない。誰でもするだろうし、いつ恋をしたっていいのだろうと思う。


 けれども、恋をして、誰かと想いが通じ合って、恋人になる。


 恋人になるということは、相手にとって特別な人間になるということだ。


 今までみたいにかっこ悪い姿を見せることだったり、相手にかかりきりになってしまうような、そんな不完全な自分でいることについて、貞彦は抵抗を感じていた。


 誰かの特別になるということに、貞彦はプレッシャーのようなものを感じていた。


「恋をすることって、理屈じゃないなあって思うんですよ」


 大見は天井を見上げていた。昔のことを思い出しているのかもしれない。


「昔……好きな人がいたんです」


「それは、クロにぃって奴か?」


「……はい」


 大見は肯定した。


「私はクロにぃに甘えてばかりで、いつもそばにくっついていました。幼い私にとって、クロにぃ以外の人は怖いっていう不安ばかりでした。あまりにも甘えてばかりだったので、怒られてしまった時もありました」


「ああ」


「それでも、最後には優しく抱きしめてくれる。何かあっても守ってくれる。私はどんどん依存を強めていったと思います。でもクロにぃにはクロにぃの生活があって、離れなければいけない時期もありました」


 穏やかではあるが、口調には感情が込められていた。


「クロにぃのことは大好きだったけど、クロにぃにも彼女が出来た時があって、その時はとても落ち込みました。どうしてクロにぃの隣にいるのが私じゃないんだろうって、とても辛い気持ちになりました」


「自分から告白しようとか、そうは思わなかったのか?」


 大見は、寂し気に首を振った。


「そんな勇気はありませんでした。クロにぃとって、私は妹みたいなもので、恋愛対象じゃないんだろうなって、信じ込んでいました。そんな風に諦めて過ごしてきた中で、大樹くんと仲よくなったんです」


 太田が話に出てきたことで、話が核心に迫った気がした。


「クロにぃ以外の男の人と仲良くなるのも、初めてだったんです。クロにぃが中学を卒業して落ち込んでいた時に、あまりにも見ていられなかったみたいで、大樹くんが励ましてくれたんです」


「そうだったのか」


「初めは、クロにぃみたいに依存をしてしまう相手と見ていたんだと思います。けれど、一緒に文化祭を成功させたり、クロにぃの行った高校を目指して勉強したりしているうちに、大樹くんのことを一人の男の子として、見るようになったんです」


 人と交流することで、それだけ世界が広くなる。


 他人の世界を知りたいと、澄香が言っていたことを思い出した。


 大見の世界に重要な人物は、きっと黒田しかいなかった。


 けれど、経験や交流を重ねて、大見の世界もきっと広がっていったのだ。


「卒業式が終わった後、大樹くんに告白されました。『クロにぃには敵わないかもしれないけど、僕は大見のことが好きだ。付き合って欲しい』って」


「太田くん、がんばったんだな」


「でも、私はすぐに答えを出せなかったんです。恥ずかしながら、クロにぃのことが好きだって気持ちもまだあって、どうすればいいか決めかねてしまったんです」


「……気持ちがわかるなんて嘘はつけない。けれど、悩んでしまう気持ちっていうのは、俺には否定できないな」


 大見は微笑んだ。


「久田先輩は優しいですね。私は悩んだ末に、クロにぃに電話をしました。でも、忙しかったのか電話には出てくれませんでした」


 黒田が言っていたことを思い出した。


 大見から電話がかかってきたけれど、出られなかったことがあった、と。


 貞彦の動揺に気づかなかったようで、大見は話を続けた。


「この時になって、私は思いました。クロにぃにばかり頼っていてはいけないんだ。私にとって大事なことは――私自身で決めなければいけないって」


 タイミングというものの奇妙さを貞彦は感じていた。


 黒田が電話に出られなかったことで、大見は自らの決断をすることができた。


 たった一つの出来事が、きっと何人かの未来を変えたのだ。


「私は大樹くんと付き合いました。そしたら、大樹くんは私と同じストラップを買ってきたんですよ。『これは俺の誓いだ』って言って」


 大見は、スマホについているストラップを愛おしそうになでた。


 太田が持っているものよりも、わずかに鈍い光を放つ、星型のストラップ。


「このストラップ、クロにぃに貰ったものなんですよ。だからなんでしょうね。大樹くんが同じものを着けようとしくれたのは」


「俺はなんとなく、太田くんの気持ちがわかる気がするな」


 自分の好きな人には、他に好きな人がいる。


 自分自身が相手を見つめていても、その相手は他の誰かを見つめている。それはとても辛いことだ。


 そして、今その相手は同じ高校に通っている。


 太田としては、大事な恋人が好きだった人がいるということは、とても気が気じゃないんだろう。


 だからこその、誓い。


 俺は負けないんだという、己を奮い立たせるための、誓い。


「男の人って、よくわからないですね」


「意地っ張りでわがままで傲慢。けれど案外小さくて怖がりで……そしてとびきり負けず嫌い。それが男ってもんだよ」


「久田先輩も、そうなんですか?」


 貞彦はまだ、恋という感情がわからない。きっと素晴らしいものでもあり、くだらないものでもある。


 恋をすると人はバカになるという、こともある。


 それしか見えなくなって、他のことはどうでも良くなる。勉強や友情という、他にも大事なものをないがしろにしてしまうこともあるらしい。


 それは違う、と貞彦は思う。


 恋だけでなく、人生において素晴らしいことはいくらでもあるだろうし、今やるべきことはきっと恋だけじゃない。


 それだけにかまけてしまうなんて、愚かなことだと思う。


 けれど。それでも。


「多分、そうだ」


 きっと恋をしてしまえば、こんな理屈なんて瞬く間に吹っ飛んでしまうんだろう。


 貞彦はそう感じていた。


「久田先輩は冷静そうなのに、意外です」


「多分ってだけだから、実際にはわからないけどな」


「でも、いいと思います。そっか、大樹くんもきっと不安なのかもしれないですね」


 大見は、お茶を一口飲んだ。


「……大樹くんに安心してもらいたいけど、どうすればいいのかな」


 貞彦も悩んでいた。


 黒田の思い、大見の思い、太田の思い。


 絡み合った思いの決着を、どのようにつければいいものかと、必死に考えていた。

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