第88話 市場


 時を遡ること、ほんの少し前。


「えーっと、後はつづら辛子と、獅子海鼠の乾物と……」


 獣人で賑わう街市場で、クレアは旅に必要な物を買い足していた。

 香辛料の入った瓶と、財布をリュックに詰め込み、彼女はもうちょっとだけこの市場をうろつこうと考えていた。


「獣人街唯一の市場だけあって、結構品揃えはいいわね。暫く買い物しなくてもいいように、安い保存食があればもうちょっと――」


「おう、嬢ちゃん!」


 甲高い声が、背後から耳を劈かなければ。


「きゃあっ!?」


 思わず跳び上がったクレアの背後から回り込んで、正面に立って笑うのは、縞模様の服を纏い、尾を揺らすリヴィオ。そして、派手な服を着こんだ子分達だ。

 あまりに大袈裟に驚いたクレアを見て、リヴィオは肩をすくめる。


「そんなに驚かなくてもいいじゃろうが……ハーミスは一緒じゃないんか?」


「今日は別行動よ。あいつに何か用?」


「用と言えば、一つしかないじゃろ。わしは諦めが悪いんじゃ」


 リヴィオはそう言ってからからと笑うが、クレアにとっては複雑な相談だ。

 それは即ち、また勧誘しに来たということ。ハーミスやルビー、エルを抗争に巻き込むと言われているような気がして、クレアはどうしても、笑う気になれなかった。

 言葉には気を付けろと言われたばかりだが、クレアは思わず、彼女に聞いた。


「あのさ、どうしてそこまでオリンポスを潰すのにこだわるわけ? 手を取り合うとか、そんな選択肢はないの?」


 すると、リヴィオの顔から笑顔が消えた。

 彼女に釣られて笑っていた部下もまた、笑わなくなった。続いてきた抗争の中で、大事な仲間を失ったのか、それとももっと辛いものを失ったのか。


「ない。少なくとも今はな」


 いずれにしても、過去を覚えている者など少ない。あるのは、今に続く憎しみだけだ。


「休戦協定を結ぼうとわしが一度だけ考え立って、子分と話して実行しようとした日はな、わしの叔父をあいつらが殺した時じゃ。それに、潰すのにはこだわっとらん。獣人街の平和の前に、連中が壁として立っとるだけじゃ」


「……あんた達の抗争に巻き込まれる住民は、どうすんのよ」


「ギャングに戦いは昔からつきものじゃった。その戦いが長引けば、犠牲は増える。ギャングに属してないもんの犠牲を最低限にする為に、ハーミスの力が要るんじゃ」


 警告するように口調を強めるリヴィオだったが、こうなればクレアの語気も強まる。理不尽な物事への怒りは、彼女は四人の中でことさら強い。


「そんなの、欺瞞じゃないの――」


 リヴィオや部下に殴られようとも自分を曲げる気のないクレアは、街市場の騒めきに気付きつつあった。ギャングと人間が喧嘩しているのだから当然だと思っていた。

 しかし、そうではなかった。

 クレアは全く気付いていなかったが、街市場の奥から、誰かが走ってくる。リヴィオやティターンの子分達と向かい合う方角から走ってくる。

 マントを羽織り、顔を隠した集団。手には、クロスボウ。

 こちらを狙っていると直感したリヴィオの行動は、早かった。


「しゃがめ、嬢ちゃん!」


 彼女はクレアの頭を掴むと、強引に地面に伏せさせた。

 彼女の判断は、正しかった。クレアとリヴィオが地面にへばりつくのとほぼ同時に、クロスボウから矢が発射されたからだ。


「きゃああああっ!?」


 矢は二人の頭上を通り過ぎ、三人の子分の頭を貫いた。


「うごおっ!」「ぎいッ!?」「ぎゃあッ!」


 市場の騒めきは、あっという間に悲鳴と絶叫に取って代わった。

 住民は逃げ出し、残った子分は露店の影に隠れる。クレアが頭を上げた時には、襲撃を終えたマントの集団は路地裏へと走り去ろうとしていた。

 そんな悪行を、クレアが許すはずがない。


「ちょ、あんた達、待ちなさいッ!」


 リヴィオより先に、クレアは立ち上がって走り出した。敵はクロスボウを持った危険な相手だが、こちらにはハーミスからもらったナイフがある。仮に倒せなくても、襲撃者の手掛かりだけでも手に入れようと、彼女は路地裏に入った。

 だが、そこにあるのは木箱と、壁と、ゴミの山だけ。


「……あれ、いない? 嘘、どこに行ったのよ!?」


 信じられない話だが、襲撃者の姿はどこにもなかった。まるで影霞となって消え去ってしまったかのように、三人もいた敵は、まるでどこにもいないのだ。

 それでもどうにか、せめて足跡でも見つかればと奥に入って行こうとしたクレアだったが、自分の背後に、殺気のような視線を感じ取り、振り返った。


「そんなはずないわよ、確かにここに入って行ったのに……リヴィオ?」


 路地裏の前にいたのは、怒りに毛を逆立てるリヴィオだった。

 クレアよりも先に、彼女は襲撃者の特徴を確かに見つけていた。


「……あのマントを羽織った連中、青いネクタイをッ!」


 青いネクタイ。

 つまり、オリンポスのメンバーの特徴だ。

 憤怒の感情を一つも隠そうとせず、寧ろ爆発させているリヴィオは、クレアが声をかけるより先に歩き出した。怯える住人達も一切合切無視して、斃れた部下に歩み寄ると、その目を静かに閉じる。仇敵と同じ行いをしているとは、知らずに。

 そして、少しだけ強く目を瞑ると、かっと見開き、残った部下に告げた。


「お前ら、付いてこい! 最早我慢ならん、あのクソガキを捻り殺したる!」


 指を鳴らしながら歩き、リヴィオは牙を剥き出しにする。


「おい、あいつは今どこじゃ!」


「昨日の喫茶店にいるらしいです!」


 クレアがどうにかして止めようと説得するが、もう誰にも止められない。


「ちょ、ちょっと落ち着きなさいよ! なんかおかしいわよ、これ――」


 彼女をではない。これから続く、恐ろしい、最悪の事態を。

 街市場からそう遠くない喫茶店の近くまで来て、リヴィオは吼えた。


「――ニコオオオオォォッ!」


 獣ですら逃げ出す、覇者の咆哮が、獣人街中に轟いた。

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