涙と泪


『会いたい』


そう願った相手は意外にもすぐに私の部屋を勢いよく開けて入ってきた。


「楓ぇ…」


この幼なじみには何回も涙を見せちゃってるなぁ。しかし今はそんな羞恥ですら気にする余裕も残っていない。


昔から私は楓に引っ付いて回っていた。隊長気取りで、泣いている私の手を引く楓の後ろ姿が今でも脳裏に焼き付いている。子供の頃には何度も高い場所に連れていかれたっけ。そこから見える景色はいつもの平凡な日常とは違って、まるで違う世界に行けたような気がしていた。今でも一人じゃ怖くて木すら登れないのに。



「叶が本気で好きになった人なんやろ?叶が信じてやらんかったら、本当に欲しいものも離れていっちゃうよ」


いつもうずくまって泣いている私を引き上げてくれる楓に私は憧れていた。


「私、頑張ってみる」


親友の手を取って強く頷く。明日、一番に望に会いに行こう。私をここまで引っ掻き回した望に文句の一つや二つ言ってやるんだ。ちゃんと、向き合うから。


「楓、ありがとうね」


「…恋は何人をも容赦しない暴君である」


「え?」


「ううん、なんでもない。それじゃあ、ね」


最後の言葉も部屋から出ていく時のその悲しそうな顔も私には理由が分からなかった。追いかけようかとも思ったが、どうしても楓に触れてはいけないような気がして。今、正しい言葉を掛けたってなにも覆らないような。もしかして、そんな顔をさせてるのは私のせい…?楓のいなくなった部屋でただ一人、悩むための時間は手に余るほどあった。

しかし悩んだからと言って確実に答えが手に入る訳で無いのは承知の上。いつまでたっても相手の深層に踏み入るのは苦手な私に嫌気がさす。


「それでも明日は、無理せんとね」


スマホのトーク、一番上に固定されている猫のアイコンをそっと指でなぞっては目から溢れる雫を拭った。



誰がなんと言っても冬に季節は移ろっている。肌を掠める風の冷たさも、雲の色も全部真冬を感じさせる。それもそのはずだ、今日から十一月。冬眠したがっている私の脳と身体を無理矢理叩き起した。


「がんばろー…」


おーと心の中でガッツポーズをする。恥ずかしくなってすぐにやめた。

私の心の準備を待ってくれでもしたのだろうか。決心を決めた日はラッキーなことに五限だけの楽な授業。

そしていつもより長く感じられたその授業が終わって、気を引き締める。隣に望はいない。今頃は別の教室でフランス語を受けているだろう。教室から出ていく人達の背中をぼんやりと眺める。同時に、開けっぴろげにされているドアから廊下の冷気が足元まで漂ってきた。勇み足が弱腰に変わってしまいそうになる。

冬の寒さごときに敗北を味わっていたら望と対した時にはけっちょんけっちょんされてしまうだな。両頬をパシッと叩いて気合いを注入した。


「行くしかない、か」


人の流れが減るのを見計らって廊下に出る。吐き出す吐息は真っ白で今の私の頭の中みたいだ。吐息なのかため息なのか。

フランス語の教室まで頭の隅に紡がれた構内の地図を頼りに歩き出す。望がいなければ覚えることもなかった地図だ。

その教室から見知った、会いたかった人物の背中を捉える。大きく踏み込む。言いたい言葉を今はまだ抑えて、転びそうになっても。


「望…っ!」


一歩、前へ。つま先がつんのめるように、望に近づく。


「あれ、叶じゃん」


しかし上げた足は後ろから私の名前を呼ぶ者によって遮られてしまう。振り向かなくても分かってしまう。この声は…望じゃない。だけど懐かしい、聞き覚えのある響き。忘れてしまいたい声でもあった。


「智…」


数人の派手な女の子に囲まれた中心にいる人物。紛れもない、私の元カノだ。別れて以来、会ってもないし連絡すら取り合っていない。同じ大学に通っているにも関わらず、ここまですれ違えるのも奇跡みたいなもんだった。人付き合いというものは始めるのは割と簡単。でも終わらせることには思った以上に難しい。それを飄々とできる当たり、元カノの精神面にも拍手を送りたくなる。そんなのものを送られた所で智からしたら、は?と返されるのがオチだが。


「随分と久しぶりじゃん。あ、ごめん先行っとってー!」


友達に笑顔で手を振り、智と二人っきりになる。今更何を話すことがあるのだろうか。友達と別れたあとの顔が一瞬で真顔に戻るのが怖い。


「わ、私急いどるんやけど…」


「ねえ、もしかして私の事避けとん?」


「えっ…?」


そんな気はさらさらない。いや無意識にそういった態度を取ることはあるかもしれないが。じゃあどうすればいいのだ。振られた側なのに尻尾を振って連絡の一つや二つよこせば良かったのか?そんな強靭なメンタル、私が持ってないことは智だって知っているくせに。何を考えてるか分からない相手を見続けるのが辛くなって視線を逸らす。そもそもなぜ声をかけてきたのかが曖昧だ。気安く声を掛け合えるような仲ではもう、ないだろう。終わった関係だ。終わらせたのは智だ。


「前、叶がすっごい美人の隣を歩いとるの見た。もう切り替えたん?」


「き、切り替えたとかそんなんじゃ…!」


ああ、そういうことか。きっと智は私が気に食わないんだ。別れた相手が自分よりスペックの高い人物と一緒にいたから。それが智の気を逆撫でした。切り替えたとか、そういうのは関係ない。智より幸せそうな私がムカついて、腹が立った。こうやって向き合ってからやっと理解する。どうして私はこんなちっぽけな人に、囚われていたのだろう。


「どうしたの?」


「望…!?」


横から伸びた声に驚かされる。その声の主はいかにも不機嫌そうに智のことを睨みつけては私を庇うように抱き寄せた。


「あー、あんただわ。なに、結局顔なわけ?叶は誰でもよかったんだ?」


「ちがっ…!」


「あんたも…名前とか知らないけど、この子はやめといたら?重いし、根暗だし。この先一緒にいたって、女同士とか絶対なんていう確信のないものに縋り付くなんておかしいじゃん」


居ても立ってもいられなかった私はその場から逃げ出す。走って、全力で、嫌なこと全てを込めるように踵を地面に強く押し付けて。後ろから私を呼ぶ望の声が聞こえたが、その場の空気に蝕まれるのか嫌だった。何も、言い返せない。喉が詰まって求める酸素も薄かった。泣いても、何も変われないのは事実なのに。




「叶…」


「なにあれ。あ、図星ってことか」


「ねえ、貴方は叶のこと好きだったんじゃないの?そんな相手を傷つけてなにがしたいの」


「私が叶の事を…?なにそれ。ほら、あれだよ。絶対に振られることの無い相手に恋をするのって、楽じゃん」


「…最低。さっき絶対なんか無いって言ってたけどそんな人に確実な幸せなんて訪れるわけないと思うよ。最初から信じずに諦める方がおかしいし、それはただの臆病」


「なに、いきなり説教?あぁ、そういうこと。あんたら付き合ってるわけね。叶のこと好きなんだ」



「好き?笑わせないでよ」



「貴方の言う好きとは違う。そんな最初から諦めてる好意なんて私には必要ない。

私は叶を、愛してるから」






目眩が凄い。吐き気と涙が胸の奥から込み上げてきてはその場に立っていられなくなる。大学から少し出た先の電柱に掴まり、ひたすら嗚咽をこぼす。何度逃げ出せば気が済むのだろうか。

智の言っている事は合っている。そう思うから、否定できないから背を向けた。望だって変わらない。不揃いな糸はきっと、交わらない。


「誰でもよかったんだ…」


それは私の事…?それとも


「叶!」


もうほっといて欲しい。心臓が押しつぶされるような音が聞こえた気がした。今は望の顔も声も聞きたくなんかないのに。

望は力任せに私の手を引いては歩き出す。私はその手を振り解けなかった。あぁ、このままアダムとイブになれたら、なんてね。

そのままいつもそうしていたように改札を通り、電車に乗り込んでは隣同士で座る。会話は生まれない。二人、何も言わずに一駅分の電車から見える景色を眺めるだけ。

望は何を考えているんだろう。あの場で何も否定できなかった私を哀れんでるかもしれない。もしかしたら別れの言葉を考えてるのかもしれない。


電車から降りた私達はやはり無言で歩き出す。手も繋がれたままだ。また私が逃げ出さないように縛り付けてるのかもしれない。

アパートについて望はドアノブに鍵をさした。ただそれだけの行為なのに今、望が怒っていることが何も言わなくても分かってしまう。


「望…ごめ、ひっ…」


繋がれていた手はいとも簡単に離れベッドに押し倒される。何度、望の家に来ても絶対に触れることのなかったそれはとても固かった。覆い被さる望の瞳も冷たくて何も言えなくなってしまう。

未完成な感情がぐるぐると私の頭を眩ませては望の顔を霞ませた。

一つずつ私の服のボタンを外していく望の細い腕。私の腰の上に乗るもんだから嫌がることも叶わなかった。


ワイシャツの下から覗く私の下着が電気の光もない部屋で強く主張する。望から一瞬それをじっと見られたあと、私の首筋を締めるように手をかけられた。白くて細い腕が私の首を圧迫する。不思議と苦しくはない。このまま、望に殺されてもいいかなとも思う。溢れる唾液を一度、飲み飲んだ。

どうかこんな馬鹿な私を甘い言葉で誘惑して、望のモノだと思わせてよ。無防備な私の喉元に噛み付いたっていいから。


私の想いが望の腕から伝わってしまったのだろうか。望の顔が一気に近くなる。キスされるのかと思ったが違った。私の顔を通り過ぎて首元に舌が這う。

「ほんとに、ばか」そのまま優しく吸われたかと思うと、右肩に歯を突き立てられた。


「いたっ…!」


望の肩を押し返す。私の拒否であっさりと望は尻もちをついた。右肩の噛み跡は望の唾液のせいで艶やかに私を浸蝕しては痛みをヒリヒリと感じさせた。


「なにし…」


「叶があんな酷いこと言われてるの我慢できない。だから八つ当たりした。叶に」


一瞬何を言ってるんだこいつは、と望を罵倒しかけたがその目を見て言葉も出てこなくなる。

八つ当たりなら、そんな悲しそうな顔しないでって。ずるい、ずるいよ。


「…望は、さ。私の事その…好きなの?ほ、本気で」


一瞬、望が呆気を取られたような顔をする。


「最初から言ってるよ本気だって」


「言ってな…!え、言ってた!?」


「た、多分…?」


なんでお互い自信なさげなのだ。それに加えて望の不安そうな顔。私は頬を緩めることしか出来なかった。

もうなんか、全部どうでも良くなった。

きっと嘘は言っていない。他人の本音なんてまだ私には分からないけれど、この人を信じてみようとは思えた。私のために怒って、追いかけてくれる望のことを。


「じゃあ改めまして」


咳払いを一つこぼして望は私を引き起こす。その目は先程とは違い、優しいものだった。



「私は末原叶のことが大好きです。これからも傍にいてくれますか?」


触れるのを躊躇ってしまうくらい透明な笑顔の望が目の前にいる。手を伸ばして。腕を掴んで。ねぇ。離れないで…


「もう、後悔しても遅いからね」


二回目のキスの味はよく覚えていないけれど、甘いだけじゃなかったことはこの先も忘れないだろう。忘れては、いけないのだった。

縋り付くようにして辛い思いを口移しで望と分け与える。この苦い気持ちを望の甘い唾液で混ぜてしまえばいいとさえ思った。


息が詰まるほど、あなたが大好きだよ。





「えっ、お姉さんなの?」


「うん、誰と勘違いしてたの?」


「い、いや…望があんなに笑ってるの珍しかったからその、別の彼女というか…」


あの日、望の後についてって見かけた女性はどうやら望のお姉さんらしかった。もう一度記憶の中で笑っている望の笑顔を思い出す。家族に見せる一面だったのか。勝手な思い込みで一人で焦って…少し反省だなこれは。

隣に座る望は「馬鹿だなー」といって私の頭を撫でる。子供扱いされてることは分かったが、今は素直に甘えさせてもらう。


「あと今は風俗も働いてない」


「そ、そうなん?」


「うん、ちなみに処女」


「しょっ…!?ってまあレズ風俗なんだからそれも有り得るでしょ…」


お願いだからそういった聞きなれない単語を簡単に口に出しちゃうのやめて欲しい。表情一つ変えずに言うもんだからいつもこっちが慌ててしまうのだ。


「だから身体の関係とかそういうの、誰とも持ったことないよ。姉が働いてる風俗に私の顔を貸してただけ。私の顔は広告材料になるって言ってた」


「でもあの日は、私と」


その先は恥ずかしくなって言い淀む。でも確かにあの場にいたのは望だ。一度だけではあるが私の裸も見られているわけで。


「それは…話したら長くなる、から」


「私、望のことは全部知りたい。わがままやけど、許して」


「うん、分かった。じゃあ、あの日の続き、やってくれたら教える」


望がそう言うとすぐさま私をベッドに押し倒し、首もとにキスを落とす。


「えっ、ちがっ、そういう問題じゃない…!」


いやいやと子供のように手を伸ばし暴れる私の腕をどこから持ってきたのだろうか、ピンク色のリボンで結ばれてしまう。いやほんとにそれどこから持ってきた!?

まるで以前から準備していたような気がするのは気の所為だろうか。


「私これでも我慢した方だよ。叶がこういうのは好きになってからだって言うから」


「確かに言ったけど…」


「叶は私の事、どう思ってる?」


「…っ、…好き、だよ」


「叶…可愛い」


待ってましたと言わんばかりの速さで鎖骨あたりに望の吐息がぶつかる。望の少し張ったようで優しい声。

もう不思議と嫌ではなかった。恋人とする今からの行為に、全く理解出来なかった一か月前の自分に見せてやりたいほどだ。好きな人に触れてもらえるこの距離がこんなにも愛おしいなんて。きっと望以外の人とだと嫌悪感を露わにしてしまうのだろう。ああ、本当に好きになってしまったんだな。望の全てが欲しい。

智に何もかもをあげてしまったと、そう思っていた。私には何もないって。空っぽなんだって。なのに、そんな何も無い私を好きでいてくれる人が目の前にいる。


でも…


「腕のリボンは外して…!」

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