過去からの足枷


哲学の授業って結局何言ってるか分からないんだよね。レポート書くだけで単位くれるって言うから受けてみたけれど内容がさっぱりでちゃんと文章にまとめられるか不安になる。フィロソフィーってどういうこと。


「望はこの授業ちゃんと理解しとるん?」


「当たり前でしょ」


「じゃあ、今の時間で教授なんの説明しとった?」


ふふふ…流石の望でも今聞いたばっかの授業をこの私に教えることが出来るかな!?

…いや私が馬鹿とかそういう事じゃなくてね?

素直に教えて欲しいって言えないわけじゃなくてね?


「デカルトはすごい人」


「それ、分かってないって言うんだけど!?」


まあ私はデカルトが人間だと今知ったのだが。

哲学なんて将来なんの役に立つんだろう。というか哲学ってなんだ…頭の中で情報の引き出しがあちらこちらで散らかっていて直せやしない。


「てかもう望も授業全部終わったよね?どうする?帰る?」


私は帰りたい!帰って惰眠を謳歌したい!

…望が帰してくれた試しがないんだけど。いつも望の家まで連れて行かれてしまう。特に何かする訳でもなくご飯を食べたり、ただ駄弁ったりテレビを見たりするだけ…

当の本人は軽く首を傾げている。

なにその貴方の行動権は私にありますけど?みたいな顔!


「叶は帰りたいの?」


「うん…いつも言ってる気がする…」


元々私は人付き合いが良い訳では無い。むしろ悪い方だと自負している。放課後に友達と遊んだ記憶なんかほぼないのだ。楓に連れ回された事ならあるが。その場合は大抵傷だらけで帰ってくるのがお約束。


「じゃ、今日は帰ろ。またね」


あっさりと手を振って教室から出てしまう望。

え、いいの?特に明日は休日だから泊まらされる事も多々あるのに。


…ま、いっか。

久しぶりに自分の時間が持てることを喜ぶのが普通ではないのか。そんなことを考えてしまう時点で私は少しずつ望に染められてしまっているのかもしれない。良い意味でも、悪い意味でも。


「…そりゃこんだけ一緒にいたら当たり前よね」


一人ぼそっと呟く。そんな独り言は誰にも聞かれることなく教室の喧騒にかき消されてしまった。



音楽を聞くのは好きだ。大抵暇な時には寝るかそうやって音楽を聞いている。望はどんな音楽が好きなんだろ。私は特にこれといって固執したジャンルはない。最近の流行りや広告で流れて気になったものをピックアップしてスマホに入れて聞いてるだけだった。

今はベッドで寝ながらイヤホン越しに好きでもないアイドルの曲を流している。


「…暇」


先程の望との淡白なやり取りを思い出してしまう。モヤモヤと心が霧がかってしょうがない。

私がここまで気にしているという事実にもむしゃくしゃするのだ。気にすることなんてないはずなのに。

先程まで流れていたはずのアイドルの曲は洋楽に変わっていた。


そのまま五分ほどボーッと過ごす。あれ、普段何してたっけ。そんなことを考えていると途端に警報音のようなものが頭の中にけたましく響き渡る。驚いてベッドから落ちてしまいそうになってしまった。


「えっ!?なに、地震!?」


びっくりしてスマホを覗くとそこにはでかでかと『天野望』の文字。

地震の警報音だと思っていた音はどうやら通話の着信だったようだ。普段誰からもかかってくることがないので聞いたことも無かった。


「…末原です」


「知ってる。今大丈夫?」


イヤホンをしているので望の声はとても近い。まるで望みの口が私の耳に密着しているようだ。


「別に大丈夫やけど、一人やし」


「あ、そっか…友、ううん」


「今何いいかけようとした!?」


友達いるし!幼なじみだけど!


「それでどしたん?」


「叶の声が聞きたくて」


………


結局ベッドから落ちてしまった。

いつまでたっても望の突拍子のない行動には慣れることは無い。今日すぐに帰してくれたのはきっとこれが目的だろう。

分かってはいるのだが不覚にも胸の高まりは収まることを知らない。


「あ、あっそ…」


「このままお話しよっか」


そんなふうに甘えた声を出されてしまっては拒みたくても出来ないでしょ…

友達との通話なんて初めてで少しだけ緊張する。


「ねぇ、叶って元カノのことどう思ってるの?」


「…え?」


「だから、ずっと悩んでたんでしょ。知りたいの。叶が一度、本気で好きになった人のこと」


どうしてそんなこと知りたがるのだろうか。昔のことを掘り返したって辛いことだけなのに。主に私が。

わざわざ鎖という名の重りをつけて海底沈めていたものが望の手によって簡単に持ち上げられてしまう。


「別に…別れた時は泣くほど悲しくて悔しかったんやけど、今はもうなんにも気にならんよ。友達にも戻れんのはちょっとだけ寂しいかもしれんけどね」


ああ、そういえば別れた時は通話越しだったっけ。あの時以来元カノとは連絡も取っていない。そんな勇気、私には持ち合わせていなかった。


前向きに考えられるようになったのは悔しいが望のおかげなのだろう。常に隣には望が居た。辛いことを考える時間なんて与えてはくれなかった。

いつまでも元カノの隣で笑っていたい、はずだったのに。


「まだ…好き?」


「ううん、もうそういう感情はないかな」


私の口ぶりは自分が思ったよりも悲壮なものは感じ取れない。それはただ淡々と事実を列挙しているだけのように思えた。はっきりと口に出すことが出来る。

元カノと別れたからって直ぐに割り切れるものでもないだろうが、そのまま友達付き合いが再開するのもおかしい。それは奇妙だろう。どうしてもぎこちなさが残ってしまう。それが…失恋なのだから。



「そっか。もし私が叶の立場なら戻りたいとすら思わないもの。溶けて形が変わってしまったものをもう一度作り直す事なんて出来ないでしょ?」



今の望は何を考えているのだろう。最近そんなふうに考えてしまうことが増えたように思う。気付けば望のことばかり気にかけている自分がいるのだ。もっと知りたい…?私が他人を?



「恋人とか…そういう関係って一から関係を積み上げてから、そこには色んな感情を装飾するわけで。最終的に出来上がったものはどうしても偶然から産まれてしまうじゃない」



望の話を遮ることもせずに聞いていた。望の顔を見たい。今はどんな顔をしているのだろう。会えないことに少しだけもどかしさを感じてしまう。



「そんな一度きりの形、もう二度と作ることなんて不可能だと思う。自分で崩したものは己で修復することなんて絶対に出来ないから」



『人は何かをやり直すことなんて出来ない』



「だから私は恋愛なんて無駄だと思ってるし必要ないと思ってる」



そう強く言い切ってしまう望の本心は本当にそこにあるのだろうか。さっきまで近くにいたはずの望を見失ってしまいそうになる。間違えたくない。望とのこれからを私は…もう失敗したくないのだ。


手をしっかり握っていないとこのまま私は夢から覚めてしまいそうで。


夢を、見ていただけなのかもしれない。


夢から覚めてしまっては、何も残らないのに。




「ねぇ、叶」


「なに?」


もう何を言われたって動じない、そう固く誓ったはずなのにその誓いは望の一言で簡単に崩れてしまう。


「好き」


通話だというのにわざとらしく囁かれる。声が近い。一気に鳥肌に包まれた私はそのまま思考が停止してしまったかのように動けないままでいた。イヤホンをつけているはずの耳が真っ赤に熱くなっているのを鏡を見なくてもわかる。たった一言。望の口から放たれた一言だけでここまで私は動揺してしまうのか。


「ふふっ、どう?ドキッとした?」


先程まで話していた口調より少し高い声で茶々が入る。わざとだ。そんなこと分かっている、私はそんな冗談でこんなに体温が上がって焦れったいのに。


「べ、別に」


「ふーん、私は少しだけ緊張したのにな」


嘘だ。絶対嘘だ。…分からなくなる。本当の望は一体どれなんだろう。終わりの無い迷路に迷い込んでしまったかのようだ。その中で私は足がすくんでしまい、どうにも動かなくなってしまう。

だけどどうしてもゴールの先が見たい、なんて。

ゴールを…望をずっと追いかけて目指し続けてしまう。


「あ、そうだ」


ガタッと物音が通話越しに聞こえてくる。椅子から立ち上がりでもしたのか?


「明日、デート行こ」


「でぇ…っ!?」


「デート。朝の九時に駅前集合ね」


「え、ちょ、そんな急に…!?」


「なに?友達と約束でもあった?」


さっきまであんなに見たいと思っていた望の顔が通話してても分かる。二人の時だけに見せるあの小悪魔のような顔になってるはずだ…

他の誰かがいる前では常にポーカーフェイスを纏っているのに。私の前ではよく笑っている印象が残る。信頼されてるって、思ってもいいんかな?

夜中にふと遊びに出かけてしまいそうな、そんな行動力で私をいつも惑わしてくる。

それに付き合わされてしまう苦労を誰かに語ってしまいたい。


「ない、ですけど…」


「じゃあ決定ね。遅刻は厳禁だから」


「せめてどこ行くか教えて!?」


「だーめ。そしたら楽しみが減っちゃうでしょ?あ、そうだ。水着持ってきてね。それじゃまた明日」


「あ、ねぇ!?」


私の声は決して届くこともなくイヤホンからはプープーと虚しい音が反響しているだけだった。

画面には一時間ほど通話していたことを知らせる数字が羅列している。

…私、かけ放題のプランじゃないんですけど。


「てか水着とか持ってないし…!?」


一昨年に買ってはみたが一度も身に通したことの無いビキニがタンスの奥で眠ってはいるけれど…入るかな?自分の横腹をぷにっとつまんで確認してみたが実際に着てみない限りは分からない。最近は望にお腹を撫でられるので少しずつ筋トレをやってはみているのだが。

…今から一人ファッションショーが始まりそうだ。

水着ということは行先は海かな。こんな時期に?

十月の海なんかに入ってしまったら凍え死んでしまう。


「だぁー!望のばかぁあぁ!!」


近所迷惑だと母親に怒られるまで叫び続けた。


望と初めて通話をした。その事実は結構今の私に強く影響しているようで。

元カノのことは望の言葉でスッキリとした。頭の中で上手く組合わなかった歯車がピッタリと重なったように。思い出なんてただのゴミだ、なんてことはまだ考えられないけれど。

しかし望の恋愛観には少しだけ不安を覚えてしまう。


納得はいかないが本当に最近は楽しいと思える日が増えた。

いつまでこんな風に望と笑っていられるだろう。

こんなことを考えた瞬間から、終わりは始まりかけちゃってるのかな。


望と私。足枷がついてまわっているのは一体どちらなのだろう。

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