メルトスルー

位月 傘


 恋人がゾンビになった。映画やゲームみたいに研究所からウイルスが漏れてパンデミックが起こったからとかそういうのじゃなくて、腐肉病という名前の病として。この世にはそういうものが存在する。

 名前の通り、生きながらにして肉体が腐っていくのだ。世間にお伽噺みたいな存在として、腐肉病を患った人はゾンビと呼ばれた。

 早くに薬を飲んで治療すれば治るらしかったが、彼は手遅れだったらしく、担当の先生には難しい顔で安楽死を勧められた。彼は笑顔でその提案を断った。

「僕の体、どんどん駄目になっちゃうらしいんだ。最初は体が動かなくなって、頭も働かなくなって、しかもずっと痛いんだって」

「……なんで笑ってんの」

 そこそこの時間一緒に居たけれど、ちっとも彼の事を理解してなんていなかったのだ。実感がなくて、涙の一つも零れないけど、それでもひどい顔をしている自覚はある。だというのに、彼はいつもの様に癖毛を揺らしながら、聖人と見まごうほどの笑みを浮かべる。優し気なその表情が、薄気味悪くて恐ろしかった。

「だって、もし僕が死ぬまで、もしかしたらほんとにゾンビになってからでさえ君のことが好きでいられたら、それって僕の愛を君に証明できるってことじゃない?」

 彼の瞳が溶ける。愛を煮詰めたようなそれが、私の好きだったそれが、この状況では不自然さの象徴だった。

 気味が悪い、恐ろしい、ぜったいにこんなのは、おかしい。震える声を抑えたいのに、呼吸は早くなる。泣き出す寸前みたいに瞼と喉が言う事を聞かない。

「いらないよ、そんなの、私のためじゃないじゃん、自己満足でそういうの、やめてよ」

「うん、ごめんね。だからこれは僕のためだよ」

 理解ができないし、信じられない。それなのに嫌いになれないし、理解したい私は、とっくのとうに地獄に片足を突っ込んでいたのかもしれない。

「僕が死んでいくさまを見て、できればトラウマになって。ここで綺麗に死んで、きみの次の恋の踏み台になるなんて、許せない。痛みは僕が全部背負うから、その代わりに一生苦しんで」

 まるで誓うみたいに言う、薄気味悪くて恐ろしい男が好きだ。自分と彼を大事に思うなら、今すぐ手を振り払って逃げ出すべきだ。

 一時の恋に流されるなんて、きっとこの世で一番愚かしい。それでも、恋の前では、全てのことは無意味なのだ。私はとうとう、声をあげて泣いて、頷いた。

 

 どれ程苦しくても、出来る限り長く生きていたいと彼が言うので、当日のうちに入院することが決まった。服の下は赤くなったり青くなったりしているらしいが、一目では不調は見抜けない上に、彼はいつだって微笑んでいたので、病室に入った瞬間はいつもこのまま退院するんじゃないかとすら思えた。

 しかし彼は決まって私がお見舞いに行くと、心底嬉しそうに愛の言葉を囁くので、あぁやはり彼は死ぬのだろうと理解させられた。

「何か困ってることとか、欲しいものとかある?」

「うん?君が来てくれるなら他にはなにも。……あぁ、そういえば最近足の感覚があまりないんだ、ちょっと見てくれる?」

 それは病院の先生に言ったほうが良いのではと口に出そうとして、そういえば先生は腐らせるのを遅らせること以外はほぼ何もできないと言っていたなと思い出す。

 彼は自分の体にかかったタオルケットをどかして、私の手をとる。嫌な予感がして咄嗟に腕を引こうとするが、病人とは思えない力で掴まれて振りほどくこともできない。私の指先が入院着越しの彼の足を撫でる。

「昨日まで痛くて痛くて仕方なかったんだ。なのにここ数日感覚が無くて、あぁ、きみが来てくれてよかった」

 膝のあたりで私の掌を自身の足に押し付けて、私の手の甲から恋人つなぎするみたいに掴んで、そのままぐっと上から圧迫する。

 思いのほか柔らかい感触と、彼の病気がなんだったかが繋がって、縋る気持ちで彼の方を見る。

 私の手元に向けていた熱の籠った眼差しが、音もなくこちらに移される。

 嫌な音と感触がした。

 彼は、一層美しく微笑んだ。


 

 

 そのあとの事は、正直あまり覚えていない。彼がナースコールをして、別室に連れて行かれて、看護師さんに散々怒られた後、先生にあまり気にするなと言われた。私がなにもしなくても、彼の足はもうダメだったのだと。

 彼は私に、呪いをかけようとしている。魔法もなにも無いこの世で、唯一残った執着という呪いは、確実に私を蝕んでいく。

 あのとき手を離さなかった私に、逃げ道はない。瞼の裏にはあの笑みが、手には肉を潰した感触が、耳には愛の囁きが、どれもこれもこびりついて離れない。

「今日も来てくれたんだ。最近はほとんど毎日来てくれるから嬉しいな」

「私も、嬉しいよ」 

 何がとは、言わないけれど。もはやここに来ているのが自分の意志によるものなのか、別の何かなのか分からなかったけれど、そんなものはいくら考えても詮無きことだ。そのどちらでもなくたって、私にここに行かなくなるなんて選択肢はないのだから。

 彼は外の話を聞くのを嫌がる。どうせそのうち病で全て忘れてしまうのに、他の事など聞きたくないと言う。だから決まって、ここでは昔の話をする。

 初めて会ったときはいつだったとか、あそこの店のケーキが好きだったとか、旅行に行ってお土産にあれ買ったよね、とか。

 一定の温度で保たれた、私たち以外に誰もいない清潔で白くて、窓から木の葉が揺れているのだけが見えるこの部屋で、過去の話と愛だけを語るのは、なんだか現実味がなくて恐ろしい。この世に存在するのは、この四角い部屋だけなのではと錯覚してしまいそうになる。

 もし、外の世界が全て虚空だったとして、彼がいなくなったら、私はどうなるんだろう。

 痛みは彼が担ってくれるなら、孤独で耐え切れなくなることは無いだろう。だけど、きっと、独りで生きることの息苦しさを埋めるために、誰かを探しにも出かけることもないのだ。

 今日も彼は愛の言葉を告げる。肌は服では隠しきれない部分も黒ずんでいて、今では脳もまともに働いていないようだった。

 それでも彼は、愛を告げる。もはやルーチンになってしまっただけなのかもしれない。それでも間違いなく愛だった。

「ねぇ、きみの顔を見せて」

 一本だけになった手の感覚は無いのだと、楽し気に笑っていたくせに、私の頬に触れる手は力強かった。もう意地なのかもしれない。

 彼の瞳は相変わらず、愛を煮詰めたようだった。瞳を覗く、こんな時ですら微笑む彼から目が離せない。白い肌はすすを被ったようになってしまいって、髪だって水分を失ったようにみすぼらしかった。その中で、この表情だけは変わらない。

 熱の籠った瞳が私を射抜く。いや、射抜くというには軟すぎるかもしれない。

 最後まで私の姿を目に焼き付けるように、じぃっと彼は私を見つめる。

 スローモーションのように、名残惜しそうにそれが瞬きをする。

 再び、戸惑うように瞼が開かれた。

 瞳が、溶けた。

 



 看護師さんがやってくるまで、私はそこから一歩も動けなかった。彼の体から零れ落ちていくものは、いったい何なのだろう。それとも、何かを零れ落とさないために、代わりに彼の体は朽ち果てていっているのだろうか。どちらにせよ、碌なことじゃない。

 次にまた会ったとき、彼は眼帯をしていて、あの夢みたいな出来事は現実だったのだと理解させられる。

 相変わらず残った瞳はもう見えていないらしいのに、私の方を見てにこりと微笑んだ。もう語り合うこともできなくなったというのに、彼は私に愛を囁く。

「もう耳も聞こえないんだ、そもそもどうしてここに居て、ここが何処なのかも分からない。でもそこに居るんだよね、ねぇ、聞こえてる?僕の声は届いてる?」

 もう手を握ってあげることすらできない。先生によると全身に激痛が走っているらしいが、そんな素振りは、少なくとも私の前では、一度だって見せやしなかった。

 肌の色は変色し、何本もの管に繋がれてベッドに横たわっている彼はそれはもう悲惨な姿であるというのに、本人は一切我関せずといったように語り続ける。

「僕は君を愛してるんだ。そのきみってもう誰なのか分からないんだけど、確かにきみが好きなんだ。全部忘れてもそれだけはちゃんと覚えてるから、大丈夫。嘘だって思う?どうして?あぁ、でも、ほら、確か君には足も瞳も、全部あげたじゃない?それなのに信じてくれないなんてこと、きみに限ってはないよね?」

 聞こえてないからと言葉を返さない私を、恐ろしいからと抱きしめることもしない私を、彼はどう思っているのだろうか。そんなはずがないのに、私が彼を殺しているのではないかと錯覚させられる。

 きっと彼の愛は呪いであり毒なのだ。産まれて、溢れ出たそれは、自分自身ですら腐らせた。私がいなければ存在することも無かった毒なら、私が殺したも同然なんじゃないのか。

 ――あぁ、それでも、不味い毒ならどれほど良かったか。

 彼はこちらを見る。瞳は相変わらず、泣き出す寸前みたいに、熱の中で揺れている。あの瞳の向こう側には、きっと私が居るのだ。それなら、目が合っているのと変わらない。

 瞳の奥の私も、きっと笑ってやしないだろう。今日も彼は誓いの言葉みたいに愛を囁く。一方的な言葉だ。ひどいひとだ。もう返事すら聞いてくれやしないのだから。

 でももう、聞こえていなくてもいいかと思った。自己満足なら、お互い様だ。

「好きだよ、一生、きみだけを」

 どちらの口から発された言葉なのだろう。分からなかったから、もう一度言った。だけど、いくらやっても自分の声だという自信がなかった。

 自分の瞳が熱い。目元に触れると濡れていることに気づいて、溶けているのかもしれないと思った。受け取る相手がいなくなってやっと、私の愛も溢れて毒になるのだ。

 彼はもう動かないはずの手で、私の頬を撫でた。一言も発していないから、もう喉も動かないのかもしれない。

 ぼやけた視界の中で、男が今までで一番嬉しそうに笑っている気がした。

 ぼうっとそれを眺めていたら、彼の指が緩慢な動きで涙を拭う。

 毒をなぞった男の腕は、すとんとシーツの上に落とされる。

 心電図が甲高い音を鳴らす。 

 私は、ただじっと、愛の証明を見つめていた。




 瞼の裏にはあの笑みが、手には肉を潰した感触が、耳には愛の囁きが、どれもこれもこびりついて離れない。

 彼が残して、私が受け入れたものだった。

 だからそれは、疑いようもない愛だった。

 

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