第39話「角栄からの手紙」

 僕は再びタツノ製作所に車を走らせた。ギリギリ間に合うかと思ったが、残念ながらソラさんは既にいなかった。


 ガレージのシャッターは降りていたが、カギはかかっていなかったので、僕は簡単に中に入れた。ガレージ内には、僕にはよく分からない工作機械が沢山あった。片隅に置いてあるソファーの上では、全力さんが、「みずー、みずー」とうなりながら、横になっている。


 奥にある机の上には、おにぎりと漬物がおいてあり、急須と書置きが、その近くに添えられていた。僕は早速、その書き置きに目を通す。

 

「アケミさんへ


 今日は色々お疲れ様でした。どこかで食べてくるかもしれないけど、簡単な夜食を置いておきます。カセットコンロは自宅に持ち帰りますが、事務所のコンロは好きに使ってください。


 合い鍵を作っておきましたので、ここに居る間はずっと持っていて大丈夫です。一番上の引き出しの中に入っています。


 全力さんは、マタタビのやりすぎで寝込んでしまったので、今日はエサを上げてません。まあ、少し太り気味だから、一晩位は抜いても大丈夫だと思います。


 給油所の営業時間は十時からですが、明日はなるべく早く来ます。あれからどうなったか、ぜひ聞かせてください。きくゑさんと会えてたらいいなって思ってます。もし上手くいってなかったら、これから先の事は一緒に考えましょう。じゃあ、また明日ね! ソラより」


「本当にいい子だなあ……」と僕は思った。僕があのアサリのショックから立ち直れたのも、きくゑさんと会うことが出来たのも、間違いなく彼女が力を貸してくれたからだ。この恩はいつか必ず返さなくちゃいけない。


 僕は一旦ガレージを出て、事務所の鍵を開けた。そして、薬缶でお湯を沸かし始めた。この時代に給湯器はないから、勿論、水からだ。ボーっとしてても仕方ないので、僕は車から持ってきた深めの皿になみなみと水を汲んだ後、またガレージに戻った。

 

「全力さん、大丈夫かい?」


 僕はそう声をかけ、全力さんの前に、水の入った皿を差しだす。


「みっ、みずー!」


 全力さんが、ひげの辺りまで水の中に顔を突っ込みガブガブと水を飲み始める。全力さんは、しらふの時でも水のみが凄く下手で、大抵は顔の辺りが水浸しだ。


「全力さん。マタタビも、ほどほどにしときなよ。耐性はないみたいだけど、脳みそがトロトロになっちゃうよ」

「そうじゃのぉ……。キュートでウィットにとんだ喋り方が、わしの売りじゃけぇのぅ」


 仁義弁が少し混じってる。やっぱり、まだマタタビが抜けきってないのかもしれない。全力さんがしゃべりだしてから、丸一日たってないのだが、何だかこれが当然な気がしてきた。元々表情の豊かな猫だったとはいえ、慣れというのは、恐ろしいものである。


 そろそろお湯も沸く頃だろう。僕は事務所から薬缶を持ってきて、急須でお茶を淹れた。そして、夜食のおにぎりをほおばりながら、きくゑさんに渡す手紙をしたため始める。


「拝啓 田中きくゑさま


 貴女がこの手紙を読んでいるという事は、私はまだ日本に帰国してないという事だと思います。自分に万一のことがあった時のために、アケミ君にこの手紙を託します。彼は、僕がこちらで雇った男です。非常に優秀で信頼に足る人物ですから、何か困ったことがあれば、会社の事でも何でも相談しなさい。


 本日(八月九日)未明、ソ連軍が満州に侵攻を開始しました。戦局は非常に思わしくないようです。今すぐ日本に帰るべきなのでしょうが、臨時列車は軍人とその家族が優先で、民間人は乗れません。


 どうせ帰れないのであれば、私はここに残って、自分の仕事を最後までやり遂げようと思います。私は軍人ではありませんから、捕まっても、殺されることはありません。安心してください。

 

 日本はおそらく、この戦争に負けます。多くの血を流して手に入れた海外領土も、すべて失うことになります。ですが、すぐに失ったものを取り戻して、これまで以上に素晴らしい国になるはずです。僕はそれを信じています。


 核兵器が出来たことで、これまでのような、取って取られての戦争は無意味になりました。ですから、戦争に負けて軍隊が力を持たなくなるのは、この国にとってはとても良いことです。浮いたお金で、これまでぶん捕ってきたものを、真っ当な値段で買えばよい。そうすれば日本は、今まで嫌われていた国々から、逆に感謝されることになります。決して、将来を悲観しないでください。

 

 この戦争が終われば、復興特需が必ず沸き起こります。何しろ日本中が荒野なのですから、うちの会社にとっては追い風です。稼げるだけ稼いで、どんどん社員に還元してあげてください。そして、私たちの取り分は、ため込まずに全部投資に回してください。


 投資先は、株でも土地でも何でも構いません。これから日本はどんどん良くなるのですから、多少高値を掴んだところで、必ず元は取れます。アケミ君はその方面には明るい男ですから、いろいろ相談して決めると良いでしょう。少し抜けたところもありますが、口は立ちますし、数字には強い男です。


 景気が良くなると、いろんな人間が傍に寄ってきます。中には悪い奴もいるでしょう。ですが、金を借りたいという人がいれば、なるべく貸してあげてください。但し、必ず会社を通して貸すことです。そうすれば、戻ってこなくても貸し倒れに出来ますし、いつか必ずその恩に報いてくれる人も出てくるでしょう。


「貸した金は、忘れろ」くらいの気持ちで結構です。


 これから世界は、武器の代わりにお金で殴り合う時代に突入します。それにも色々な問題はありますが、少なくとも人は死にません。僕はその時代を勝ち抜くため大切な仕事を、この満州でやり遂げてから帰るつもりです。


 満洲は、石炭くらいしか自給できるもののない荒れ果てた荒野だと思われていますが、実はその地下には膨大な石油が眠っているのです。北朝鮮にも、貴重な鉱物資源が沢山あります。これは、理化学研究所の地質調査から明らかなことなのです。


 この石油があれば、戦争なんかせずに済んだのにとも思いますが、今からでも決して遅くはありません。僕たちがそれを見つけ、採掘権を確保する事が出来れば、日本は石油に困らなくなります。収益を分け合う中国とも、きっと仲良くできます。立派に胸を張れる仕事です。僕はそれをやり遂げるために、敢えてここに残るのです。


 今は日本に数えるほどしかない自動車も、あと二十年もすれば、街中に車が溢れかえるようになります。道路は舗装され、日本中に高速道路が張り巡らされ、世界中で日本の車が走り回るようになります。日本は武器の戦争では負けましたが、お金の戦争では勝つのです。

 

 僕の言っていることは、決して荒唐無稽な夢物語ではありません。いまの仕事を成し遂げることが出来れば、確実に実現する未来です。僕の考えは、すべてアケミ君に伝えてありますから、興味があれば尋ねてみてください。

 

 僕の仕事は、日本の将来のために必ず役に立ちます。ですが、この国が有する最大の資源は、石油でも石炭でもありません。美しい自然と、労働を美徳とする国民性と、愛する者のためなら命を投げ出すことも厭わない向こう見ずな精神こころです。


 そしてそれは、たとえ戦争に敗れようと、占領軍には絶対に奪えないものなのです。


 結婚したばかりだというのに、家を空けっぱなしの駄目な亭主を許してください。ですがきっと、僕の妻であることを誇りに思う時が来ると思います。僕が戻るまで、どうか田中の家と、田中土建工業を守っていてください。よろしくお願いいたします。


       昭和二十年八月九日 満洲国 新京にて   田中角栄 


追伸


 君に託された京漆器の箱を、この手紙と共に一旦お返しします。僕の身に万一の事があれば、躊躇ためらうことなく自身の幸せを掴んでさい。それが僕の心からの願いです」



 時刻は既に午前零時を回ろうとしていた。僕は、たった五分間のきくゑさんとの会話を、何度も何度も思い返しながら、心を込めてこの手紙を書いた。勿論、内容は捏造だけど、今の僕に出来る最大限の誠意は込めたつもりだ。


『手紙と一緒にあの箱を渡して、きくゑさんの信頼を得る』


 それが、今の僕に選ぶことのできる、一番良い選択肢だと僕は思った。ソラさんが、あの車の技術を理解するのには時間がかかるし、選挙の方は待ってはくれないからだ。


 あの箱は、今の僕の所持品の中で、彼女に喜んでもらえる可能性のある唯一の品だ。あの箱が角栄の遺品になるのだとしたら、妻であり、元々の所有者でもある、きくゑさんの返すのが筋だろう。結果的には、最初の会談で嘘をついた形になるが、箱を返して文句を言われる事は、まず無いはずだ。この手紙を読んだ後なら、猶更である。


 僕は、角栄がこの選挙に落ちた理由を知っている。彼女の信頼を得、史実では落ちた選挙で、きくゑさんを勝たせることが出来れば、僕の若き日の闇歴史は実現に向けて一歩進むだろう。


 人生には、絶対に勝たなきゃいけない勝負がある。僕にとって、明後日がその日だ。そこで彼女の懐に飛び込むことが出来なければ、おそらく二度とチャンスはない。


 問題は、どうやってユキさんから、箱を譲渡する許可を得るかという事だった……。

  

(続く)

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