第31話「アート商会」

「いらっしゃい、お客さん。なんだか、見慣れない車に乗ってるね」

「ああ、これは……」


 ホンダの……と言いかけて止めた。創業者の本田宗一郎は、戦時中から有名な技術者だったが、昭和二十一年の時点では、本田技研工業はまだ存在していないからだ。


「アート商会のレーシングマシンの試作車だよ。今はロードテスト中なんだ」

「アート商会? あそこは修理屋さんだろ?」

「社長が大のレース好きなんだ。『税金を払うよりはマシ』って言って、余計なお金は全部マシンにつぎ込んじゃうんだよ」

「そうなんだ。こんな時代に珍しいね」


 アート商会とは、若き頃の宗一郎が丁稚奉公をしていた自動車整備工場の名である。創業者は、榊原郁三。彼はレース好きな人物で、宗一郎を助手として様々なレーシングマシンを作った。宗一郎は、この榊原からのれん分けを許された唯一の人物だった。


「じゃあ、有鉛ハイオクでいいかい? 何リットル入れる?」

「いや、今日はガソリンを買いに来た訳じゃないんだ。実は少し、困ったことがあってね」

「どうしたのさ? ピストン棚落ちでもしたのかい?」


 この少女は、単なる手伝いではないなと僕は思った。素人が、ピストンヘッドの損壊を意味する、【棚落ち】なんて言葉を使うはずがないからだ。そのあたりの部品に詳しいなら、宗一郎の事を知っている可能性は十分にある。


 この時代の技術者としては、宗一郎はトップレベルの人物だ。居場所を知っておいて損はない。


「もしかして君は、本田宗一郎さんを知ってるの?」

「知ってるよ。東海精機の社長だった人だろ?」

「だったってことは、今は経営から手を退いているのかい?」

「ああ……。何でも、去年の地震で工場が潰れちゃったらしい。会社は豊田が引き取ったみたいだよ」

「そうか。今、彼がどこで何をしてるのかは分かるかい?」

「いや、分からないな。元々、身内なんだから、君の方が詳しいんじゃないのかい?」

「いや、僕はこの車のテストのために、最近雇われた人間でね……」


 おおむね史実通りだ。宗一郎は戦時中、アート商会・浜松支店の経営から手を引き、自動車用ピストンリングの研究をしていた。そして、その開発・製造のために興した会社が、東海精機である。経営は順調だったが、一九四五年の三河地震で工場が倒壊し、苦境に陥った。


 宗一郎はその後、持ち株のすべてを豊田自動織機に売却し、再び経営から手を引いている。この時期は確か、「人間休業」と称して雌伏の時を過ごしていたはずだ。彼が自転車用補助エンジン・ホンダA型を開発し、本田技研工業の創業者として歴史に名を遺すのは、もう少し先の話である。


「で、困った事ってなんなのさ? 今はボク一人だけど、応急修理くらいなら出来ると思うよ」

「いや、機械関係のトラブルじゃないんだ。実は、財布を落としてしまってね。電報を打つお金もなくて困ってるんだ」

「それは災難だったね。でも、見ず知らずの人にお金は貸せないよ。簡単な修理だったら、後払いでも受けてあげるけどさ」

「わかってる。ここからが相談なんだ」


 ここからが勝負だ。


「僕はお金は持ってないけど、高オクタン価のガソリンを20リッターほど持っている。この車のエンジン用に、特別に精製したものだ。とても貴重なものだが、背に腹は代えられない。換金できるところを、どこか教えてくれないか?」

「ガソリンをかい? モノによっては、うちで引き取ってあげてもいいけど、高オクタンって、一体どれくらいなの?」

「オクタン価は100だよ。鉛は入ってない」

「無鉛で100!? そんな上物、聞いたことがないよ!」


 戦時中、国土防衛のために最優先で燃料が回される戦闘機部隊においても、オクタン価100のガソリンはなかなか揃えられなかったと聞く。世界水準の飛行機を作っていたのに、カタログ通りの性能を発揮することが出来なかったのは、今でいうレギュラーレベルの燃料しか精製できなかったのが主な理由だ。鉛を使わないなら猶更である。


「本当だよ。この車のエンジンは特殊でね。出力は凄いんだけど、有鉛ガソリンを使うと壊れちゃうんだ」

「そっか。だけど、そこまで高品位だと、逆にうちじゃ引き取れないなぁ……。占領軍の航空隊くらいにしか、ニーズはないと思うよ」

「それは残念だ……」

「昔なら陸軍にもコネがあったんだけどね。今じゃ商売も上がったりさ」

「コネ?」

「新潟と小千谷にある飛行場に、お父さんが計量器を納入してたんだよ。うちの会社は、本当はそっちが本業なんだ。ガソリンを売ってるのは、計量器のデモンストレーションみたいなもんさ」


 そう言って、彼女は設置されてる計量器を指さした。郵便ポストのような真っ赤な胴体の上部に、ガソリンの入った巨大なガラス容器が備え付けられている。ぱっと見は計量器というよりも、街灯みたいだった。


「これは、タツノ式ガソリン計量器・型式番号二十五号。小さな販売所でも利用できる安価なタイプだ。くみ上げは手動式のポンプだから、電源は要らない。でも、ちゃんと決まった量を素早く給油できるんだよ」

「それは、すごいね」

「勿論、軍に納入したものは電動でメーター式だけどね。今は、武装解除で仕事も減っちゃったから、この商品を主力にしてるんだ。自動車への給油や、灯油の配給くらいなら、これで十分だよ」


 昔、灯油の巡回販売で似たようなものを見た記憶がある。おそらくは、計量器上部のガソリン容器と、給油先との高低差を使って給油するのだろう。今となっては、機械遺産といってもいい代物だ。


 一度触ってみたい誘惑にとらわれたが、今の僕にはお金がない。僕は車を降り、リアのハッチを開けて、ガソリンの携行缶を取り出した。


「この中に、100オクタンのガソリンが入ってる。うまく換金出来たら、必ずお礼をさせてもらうよ。闇市でもどこでもいいから、どこか引き取ってくれそうな場所を教えてくれ」

「闇市なら知ってるけど、最近は手入れも厳しいし、そこまで高品質なガソリンを必要とする客がいないと思う。量も半端だし、安く買い叩かれるのがオチだ。手放すのは勿体ないよ」

「背に腹は代えられないんだ」

「食べものなら少し分けてあげるよ。ところで、この車の燃費はどれくらいなの?」

「燃費? 速度にもよるけど、リッターあたり十二~十三㎞くらいは余裕で走るんじゃないかな」

「タンクの容量は?」

「満タンで四十五リットル。今残ってるのは半分くらいかな」

「じゃあ、携行缶の分も合わせれば、四十リッター以上はあるってことだね」

「そうだね」

「それだけ残ってるなら、頑張って会社まで帰った方がいいよ。助けを呼んだところで、どうせ車は運ばなくちゃいけないんだしさ」

「それはそうだけど、流石に東京までは厳しいよ。山道だしさ」

「何言ってるんだよ。アート商会の工場なら、上田に疎開して来てるじゃないか?」

「えっ?」

「確かまだ、東京には戻ってないはずだよ。ちょっと待ってて」


 そういって、彼女は事務所に駆けていった。上田なら確かに行けるだろうが、辿り着いたところで助けてもらえる当てなんてない。


 終戦直後とはいえ、まさかこの時期、アート商会が長野県に疎開して来てるだなんて想像もしてなかった。方便とはいえ、アートの名前を出すべきじゃなかったなと、僕は悔やんだ。


(続く)

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