第10話「強制捜査」

「捜査にはご協力いたします。ご不明な点があれば、何でも尋ねてください」


 そういって僕は、パソコンとスマホを調査官に手渡した。どうせ、出せと言われるに決まっているからだ。沢山の調査官にびっくりした全力さんは、家から飛び出してしまって、今じゃどこにいるかもわからない。


 同じ家宅捜索でも、金融庁と警察で違うところが一つある。それは、金融庁には捜査権限はあっても、逮捕権限はないことだ。つまり、証拠品の押収に協力しようとしまいと、現段階で僕が逮捕されることはない。だけど僕は、あえて彼らに対し恭順の意思を示した。


 逮捕状を取る検察官に相場の知識はほとんどなく、証拠固めの済んだ金融庁からの告発があって初めて動く。その体制は、今も変わってはいないはずだ。つまり、ここに居る連中は調査のプロではあっても、被疑者を拘束することには慣れていない。油断させれば、あの箱を持ったまま、この場から逃げおおせるチャンスは絶対にある。


 よし、まずは落ち着こう。ガサなんて、税務署の分も合わせれば、今まで何度も経験している。いずれまたこういう事もあるかもしれないと思い、心構えもしていたはずだ。監督のニュースのせいで、まだ心は揺れていたが、僕は努めて冷静になって、捜査官にこう尋ねた。


「弁護士に連絡を取っても構わないですよね?」

「どうぞ。ですが、押収を拒否しようとしても無駄ですよ」

「わかってますよ」

 

 それくらいの知識は僕にだってある。万一の時のために、全力さんの事をお願いしようとしただけだ。僕が懇意にしている弁護士の稲見先生は非常な愛猫家で、全力さんの事もよく知っている。僕はともかく、猫の力にはなってくれるだろう。


 僕は固定電話で事務所に連絡を入れた。中の人たちも慣れたもので、「伊集院ですが」と名乗るだけで、直ぐに先生につないでくれた。


 簡単に事情を説明すると、先生は、「またですか?」と言って笑った。僕は苦笑しながら、「いや、ちょっと質の悪い買い物をしちゃいましてね」と答えた。


 猫の事を頼み、快諾される。それで切っても良かったのだが、やっぱり今の苦しみを、誰かに理解して貰いたかったのだろう。僕は、『片隅に生きる人々』の話を先生に振ってみた。


「そうそう。先生、知ってます? K監督の映画、天皇陛下がご家族で見に来たらしいですよ。お褒めの言葉もいただいたって」

「昨日、ニュースで見ましたよ。伊集院さんも、ホトホト運のない人ですね。もし逮捕されたら、保釈金でも立て替えて貰ったらどうですか。それくらいの貸しはあるでしょう?」

「あっ、マジで頼みます。証券口座はおそらく凍結でしょうし」

「いま向こうは、懐もあったかいでしょうしね。あー、どっかに美味しい仕事が落ちてないかなー」

「すみませんね。しょっぱい仕事ばかりで…」

「早く復活して、顧問料を月三十万位は払ってくださいね。まあ全力さんのエサ代くらいは、こちらで立て替えときますよ」


 こんな会話をしばし続けた。何の解決にもなっていないが、気心の知れている相手とのくだらないやり取りは、心の安定にはとても大切なものだ。


 全力さん問題を無事に解決した僕は、この苦境からどうやって逃れるべきかを考え始めていた。


「すみません。ちょっとトイレへ」


 僕は調査官から許可を得てトイレに向かった。ユキさんからの手紙を、もう一度しっかり読むためだ。下っ端が一人ついてきたが、流石に中までは入ってこない。


「拝啓 伊集院アケミ様


 この手紙を読んでいるという事は、無事に箱を受け取ったという事だと思います。突然で申し訳ありませんが、今すぐこの箱を持って、その場所から離れてください。行く先はどこでも構いません。遠ければ遠いほど良いです。


 現在、貴方の身には危機が迫っていますが、今ならまだ回避できますし、箱の力が貴方を守ってくれることでしょう。箱は既にその力を発揮していますので、開封する必要はありません。それは、最後の手段です。


 何らかの事情で貴方自身が束縛を受けそうになったり、第三者に箱を奪われそうな事態に陥った時のみ、この箱を開封してください。幾ばくかの後悔と引き換えに、貴方の願いは叶えられることでしょう。我々にも少し手違いがあり、栄光より先に挫折が迫る事態になったことをお許しください。貴方ならきっと、切り抜けられると信じています。


 繰り返しになりますが、箱の開封は最後の手段です。

 そうなることを、我々は望んではいません。


 貴方の安全が確保されたと判断した時点で、必ずまたご連絡差し上げます。またお話しできる日を楽しみにしています。ユキより」



 僕は手紙を三回読み返し、今からでも逃げようと決めた。理由は二つ。


 一つ目は、箱の所有権は既に僕に移っているという事。

 

 ユキさんは、「手違いで、挫折が先に迫る事態になった」と言っているだけで、僕がここで挫折するとは言っていない。箱の力が僕を守るとも書いてある。彼女は表になっていない、僕の過去の仕事のことまでよく知っていた。ならば、僕の全力さんに対する気持ちだって、ちゃんと知っているだろう。つまり、僕が一度ヤサに帰ることは想定の範囲内の出来事のはずである。


 勿論、手紙を読み次第、直ぐに出発することを彼女は望んでいただろうが、ガサの回避に失敗しても何とかなるように、何らかの手段を講じているはずだ。おそらくはそれが、箱の開封なのだろう。つまり、今の状況は危機的ではあるけれども、致命的とまでは言えない。


 二つ目は、箱がまだお上の手に落ちていない事だ。


 僕は箱をそのまま車に置いてきた。ガレージはヤサから若干離れたところにあって、差押えの許可された場所には指定されていない。つまり、僕が任意で提出しない限り、あの箱が押収されることは原則的には無いはずだ。もしかしたら、あのガレージは認識すらされていないかもしれない。


 だとすれば、無事にガレージに辿り着くことさえ出来れば、箱を持ったまま逃げ切れる可能性は十分にある。それに、もしそれが叶わなくとも、僕にはまだ「箱の開封」という最後の手段が残されている。現時点で、僕の身体を拘束する権利は彼らにはないのだから、一瞬、箱を開けるくらいのチャンスは間違いなくあるだろう。


 手紙には、「幾ばくかの後悔とともに、貴方の願いは叶えられる」と書いてある。後悔の部分が少し気になるが、まだ残された手段があるのに諦めることは、僕の主義に反している。あの事件の時だって、僕は相方の心がぶっ壊れるまで、必死に足掻いたのだ。


 今すぐやろう。僕はそう決めた。このまま時間がたって、奴らに箱を発見されたりしたら、それこそ面倒なことになりかねない。見つかれば中身を問われるだろうし、「知らない」と答えれば、蓋を開けざるを得ないだろう。箱の中身が分からない以上、現時点での開封は出来る限り避けたい。もし中に違法なものが入っていれば、それこそ現行犯逮捕されかねないからだ。


 僕はトイレの窓を少し開けた。周囲は二十台近い車に取り囲まれているが、捜査官の大半は室内の押収作業で忙しく、外部に人はほとんどいない。ガレージの存在がまだ認識されていないのだとすれば、今、ドアの向こうにいる捜査官さえまけば、車まで難なくたどり着けそうな気がする。


 僕はトイレの水を流し、扉を開けると、見張りの男にこういった。


「サブのスマホを車に忘れていたことを思い出しました。任意提出しますので、取りに行っても構いませんか?」

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