18.崩れ落ちる塔 ―Upright―

 チチチ、と小鳥のさえずる声が聞こえて、私はゆっくりと顔を上げた。本当はそんな動作も億劫おっくうなのだけれども、目の端に眩しい光が入ってきてちくちくと目をいじめるので仕方なかったのだ。

 見れば、カーテンの隙間から僅かに太陽の光が差し込んでいる。

 朝……、朝だ。

 私はふらふらとする頭をなんとかぎょして今まで座っていたベッドから立ち上がると、一歩ずつ窓に近付き恐る恐るカーテンを開けた。

「………………」

 そこにはいつもの景色が広がっている。狭いベランダの向こうに広がるごちゃついた住宅街。そして遠くには朝靄あさもやのかかった都心の摩天楼。何も特別なことも変わったこともない。

 だけれども、私はぶるりと身震いをしてから勢いよくカーテンを引く。隙間が出来ないように厳重に端を重ねてからベッドの上に舞い戻った私は、毛布を頭から被って座り込んだ。安物で使い古した煎餅布団せんべいぶとんにずっと座っていると少しお尻が痛かったけど、それは今の私にとっては大した問題ではなかった。

 あの夜から、私は二十四時間どこで何をしていても付きまとう謎の視線と気配に悩まされ続けていた。以来、私はほとんど眠れていない。

 最初こそ、こんなのは気のせいだと言い聞かせて寝ようとしたこともあった。しかし、うとうととするたびに鼻先に「何か」がいるような強烈な気配と共にその呼気こきの生臭ささえ感じたような気がして恐怖に飛び起きてしまう。目を開けてもそこには何も居やしないのに、そこには確かにのこのような気配の残滓ざんしが感じられて、その度に私は恐怖を深めていったのだった。

(何が起こっているんだろう。一体、何が……)

 重度の不眠に重くて回らない頭でそんなことをぼんやりと何度も何度も考えるものの、答えが出るわけもない。何も出来ず、いつかこの視線がどこかへ消えて無くなることを期待するだけの日々が過ぎていった。

 しかし、もう既に時間の流れも覚束おぼつかない。

(……今日は何日なんだろう? あれから何日が過ぎたのかな? ええと……こういう時は……)

 過去の記憶を掘り返すように、私は緩慢かんまんに部屋の中に目を走らせる。そして机の上にぽつんと置かれた携帯電話に目を付けた。あれならば、今が何日なのか確かめることができそうだ。

 私はゆっくりと這うようにベッドの上からいつも小説を書くときの定位置だった場所まで移動すると、震える手を伸ばしてテーブルの上の携帯を引き寄せる。折りたたまれたそれをそっと開けば、小さな画面がぼんやりと光った。まだ充電は残っているようだ。

 私は朦朧もうろうとする意識の中で携帯を操作する。本当は操作しなくてもトップ画面にはいつも日時が大きく表示されているのだけれど、そんなことももう理解出来ていなかったのだ。

 ただただ、ぼーっとしながら出鱈目でたらめに携帯を操作していると、どうやらいつの間にか画面は通話履歴の項目を表示しているらしかった。

 そこにはただ一人、黒野さんの名前だけがずらりと並んでいる。

「くろ……のさん……」

 しばらくその画面をぼんやりと見つめていた私は、しかしすぐにはっとして携帯を両手で捧げ持つようにして見入る。

「でん……わ……黒野さんに電話……!」

 私は今まで誰にもこの現状を相談していなかった。だって、私には頼れる友人や知り合いなど誰もいなかったのだ。それにこんなオカルトじみた話を誰に話せるというのか。きっと、幻想に浸りすぎた孤独な作家がついに心を病んだのだと思われるのがオチだ。

(だけど、黒野さんなら真剣に聞いてくれるかもしれない。黒野さんなら……)

 私は縋るように「黒野さんなら……」と心の中で何度も繰り返す。

 確かに黒野さんなら私の話を一笑に付すようなことはしないかも知れない。しかし、それも確かな根拠などはない話だった。

 大体、現状を聞いてもらったからといって事態が解決するわけでもない。

 でも私は誰かにこのことを話して理解してもらいたかった。そんな私に黒野さんは最後の希望だったのだ。

 震える指で小さな通話ボタンを押して携帯を耳に押し当てると、私は祈るような気持ちで軽快なコール音を幾度かやり過ごす。そして、ブツッという無粋な接続音がしたと同時に、相手に繋がったことを理解するより早く、私は喉奥から泣きそうな震えた声を出した。

「くろのさっ……!」

 だけど、現実は無情だった。



『おかけになった電話番号は現在使われておりません……』



 その無機質なアナウンスに、私は脳髄を殴られたような衝撃を受けた。

 すうと血が頭から急速に引いていくのが解る。

 未だにべったりと塗り付けるように重く絡みつく気配と視線の主が、そんな私を嘲笑ったように感じられた。

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