にゅうめんマンの過去(9)
《大変だ。あんなに大勢の人間がぶらさがったら、にゅうめんが千切れてしまう》
鶴彦はあせったが、この問題に対処するため、できるだけ心を落ち着けて、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の内容を思い出そうとした。
《あの小説では確か、クモの糸を独り占めしようとしたせいで糸が切れて地獄に逆戻りするんだったかな……》
そういうわけで、鶴彦は自分の後から上って来る連中をあえて妨害せず、自分が上へ進むことに集中した。すると、鶴彦以外の人間はやがて糸を上るのに飽きて地上に戻った。というのも、一品餓鬼道では働かずにごろごろしていても暮らしていけるし、1種類だけ料理が食べられないからといってそんなに困るのはごく一部の変人だけであって、みんなこの世界がけっこう気に入っていたのだ。どこまで伸びているのか分からない果てしない長さのクモの糸を上ってまでして、本気で一品餓鬼道を脱出しようとしたのは鶴彦だけだった。そういうわけで幸い糸も切れなかった。
* * *
鶴彦は何週間もにゅうめんを上り続けた。上り始めた日にはまれに鳥の姿も見かけたが、すぐにそれも見なくなった。そこにあるのはもはや鶴彦とただ1本のにゅうめんだけだ。無心に上り続けていると、ついに、はるか上方に別の世界らしきものが見えてきた。あれが極楽浄土だろうか。その後なおも数週間上り続けてついに鶴彦はその新たなる世界に到達した。
その世界の地面には一カ所だけ穴が空いていて、にゅうめんはそこから垂れていた。かなり厚みのあるその穴を通って地上へ出ると、色黒・天然パーマの男前が鶴彦を待ち受けており、穴から出てきた鶴彦を静かに見下ろしていた。鶴彦は面食らったが、ともかく穴をよじ登って地面の上へ体を引きずり上げ、その場に横たわった。そこは実に気持ちのいい所で、地上には草木が茂り、頭上には暖かい日が輝き、目の前にある大きな池に無数のハスが咲いていた。
「よくここまで上って来たな。見上げたものだ」
草の上にへたばる鶴彦に向かって、推定年齢25歳の男前が言った。
「はあ。どうも……どちらさまですか」
「私はゴータマ・シッダールタ。人からは仏陀やシャカムニなどとも呼ばれている」
「つまりお釈迦さま?」
「そう呼ばれることもある。——君の所へにゅうめんを垂らしたのは私だ。なぜかは分からないが君が異常に苦しんでいて気の毒になったので」
この人物こそ仏教の開祖のシャカムニだった。鶴彦はこれを信用した。なぜなら芥川龍之介の『蜘蛛の糸』で糸を垂らした人物もやはりシャカムニだから。それにしてもこれほどの男ぶりとは、さすがに世界宗教を立ち上げた人物は並ではないようだ。宗教とは顔でおこすものなのだろう。間違いない。
「それはどうもありがとうございました。おかげであの地獄を脱出することができたようです」
「うむ。君はもう十分に罪をつぐなった。これからはこの極楽浄土で幸せに暮らすといい」
「はい。それで、にゅうめんはどこにあるんですか」
「極楽浄土ににゅうめんはない」
「え……」
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