第84話 帰還

 全てを聞き終え、天照は判断を下した。

「桃太郎は、わたくしが預かります。……過去はもう取り返しがつきません。死んだ者たちは戻って来はしません。ですから、彼女の罪は減退することはあるかもしれませんが、消えることはあり得ません」

 きっぱりとそう言った。そして、やや柔らかい口調で続けた。

「ですが、彼女が意識を殺されていたこともまた事実。彼女が全てを背負って生きていけるよう、手助けすることと致しましょう」

「ありがとう、姉上」

「感謝します、天照さん」

 須佐男と大蛇に礼を言われ、天照は「いいのよ」と微笑んだ。控える月読は三人の掛け合いを静かに見守った。

「―――また、すぐに戻る」

 そう挨拶して、会話は終了した。

 ただの鏡に戻ったものを伊邪那美に返し、須佐男と大蛇は温羅たちが待つ場へと向かう。その際、伊邪那美は次のことを約束した。

「高天原に戻るのなら、拍手かしわでを打ちなさい。二つの国をつなげてあげるから」

「助かるよ、母上」

 息子の礼に伊邪那美は顔を綻ばせたが、すぐに顔を引き締めた。

「……必ず、あの方を正気に戻してください。私の望みはそれだけですから」

「必ず」

「ええ」

 伊邪那美との約束を胸に、須佐男と大蛇は先を急いだ。


「すまん、今戻っ……」

「何してるんだ、阿曽」

 須佐男と大蛇が息を切らせて仲間たちの元へ戻ると、阿曽に桃太郎が抱きついている場面に遭遇した。呆れかえった二人に、阿曽がおろおろと釈明を試みる。

「べ、別に俺は桃太郎を励まそうとしてただけで!」

「そんなに慌てなくても良いだろ。わかってるって」

「須佐男さんのその顔は、わかってるって言いませんから」

 須佐男のにやけ顔を見て、阿曽が言い返す。大蛇は温羅に目配せし、どうしたんだと尋ねた。

「桃太郎を縛っていたかせが、外れたらしい。全ては人喰い鬼が彼女を操ってさせていたことで、桃太郎自身は『もう誰も殺したくなんてない』と言っていたよ」

「……ったく、そんなの見りゃわかるだろうさ」

「わたしもかわいそうになってきてしまってね。……それはそうと、天照さんたちとは話せたのか?」

 話題を転換した温羅に、大蛇は頷いてみせた。そして、未だにじゃれ合っている須佐男と阿曽も呼ぶ。桃太郎は阿曽にしがみついたままだ。

「天照さんには、桃太郎を預かってもらう了承を得てきたよ。あの人のもとなら、人喰い鬼の手も届かない。色々とやり直すにも都合がいいだろうしね」

「あの人に任せておけば、安心だろ。オレたちは、人喰い鬼を倒すことを考えればいい」

 須佐男の言葉はぞんざいだが、その根には桃太郎への思いやりがわずかに含まれている。それを示すことに照れを覚え、桃太郎の方を見ることすらもしない。

 それを知っているから、阿曽は何も言わなかった。

「……戻るぞ、高天原へ」

 こちらに背を向けた須佐男が言う。阿曽は自分にしがみつく桃太郎を立たせ、彼の背に従った。

「ほら、行こう」

「……はい」

 素直に従った桃太郎は、拍手かしわでを打とうとした須佐男に呼び掛けた。

「あのっ」

「……なんだ?」

「……ありがとう、助けてくれた」

 泣き腫らした顔で、桃太郎は顔を歪ませた。笑い方がわからないのだ。

 須佐男は無言を返すと、すっと桃太郎の頭上に手を挙げた。殴られるかと思った桃太郎が身をすくませると、苦笑が聞こえた。

「そんなに怯えるなよ」

「え……」

 桃太郎の頭の上に、大きな手が置かれる。それがぽんぽんっと軽く撫でる程度で離れて行った時、桃太郎は本当に驚いた。思わず硬直し、先に行っていた阿曽に不思議がられたほどだ。

「どうしたんだ、桃太郎?」

「え? あ、何でもない」

「そう」

 目を細め、先へ行く阿曽。そのまだ小さな背を追いながら、桃太郎は時が経つほどに蘇る自我を失っていた頃の記憶に苦しみ始めていた。

 断片的に降って湧く記憶の中に、何度も血の赤が見えた。こんな自分が今死なずにいる意味とは何なのか、痛みに苦しむ胸の奥で、桃太郎は自問していた。

 ―――パァンッ

 風を切り裂くような清々しい音が鳴り響き、目の前が歪む。閃光が降り注いだ瞬間、阿曽は視線を感じて振り返った。

「あ」

 そこに立っていたのは、伊邪那美と醜女、そして酒天と茨木だった。

 伊邪那美が胸の横で小さく手を振る。そして、微笑んだ。


 阿曽たちが黄泉国から消えた後、伊邪那美は「ふっ」と息を吐き出した。醜女が美しく戻った頬に片手をあて、首を傾げる。

「どうかなさいましたか、伊邪那美さま」

「いいえ。……ただ願っていただけです」

「願っていた?」

 醜女が尋ねると、伊邪那美は「ええ」と頷いてみせた。

「彼らが、無事に人喰い鬼を倒すことを。そして、堕鬼人や成鬼人がいない世にしてくれることを」

「彼らなら、大丈夫です。なんたって、根の堅洲国の脅威から黄泉を守ってくれたのですから」

「そうね。……あなたも、そう思われますか?」

 伊邪那美が尋ねながら振り返ると、そこには一人の女人がいた。生者のような顔色だが、その実、生きてはいない。

 豊かな黒髪を紐でまとめ、質素なころもを身に着けた彼女の瞳は赤い。その柔らかさと意志の強さを併せ持つ瞳によく似た目を、伊邪那美は先程目にしたばかりだ。

 女人はわずかに口端を上げると、小さく微笑んだ。

「大丈夫、ですわ。あの子とあの子を選んでくれた仲間ですもの」

 揺るがない瞳の主は、それだけ呟くと掻き消えた。

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