饒速日

第16話 武海の地

 幾つかの山や川、谷、平地を抜け、阿曽たちはようやく目的地にやって来た。

「ここが、武海たけみ……」

「そう。饒速日にぎはやひさんが拠点を置く場所だ」

 武海とは、いくさ人が海のごとく多く住まう地、という意味があるのだとか。それ以外にも海の近く、猛る波に襲われる地だとも。

 確かに、向こうを見晴るかせば広々とした海が臨める。かすかに潮の香りがする。そう言ったのは、須佐男だ。

「塩の香り?」

「あ、食べる方じゃないぞ? 何だ、阿曽は海に行ったことがないのか?」

「ない、と思います。こんなにおいに記憶はないです」

「阿曽は、森で生きてたからね」

 大蛇に言われ、阿曽は頷く。

 森や山では嗅ぐことのない独特の香り。知らない世界に、阿曽は少しわくわくした。

 境界を示す石の柱を通り過ぎ、武海へと入る。

 そこは、今までに通り過ぎた村々とはまた違う趣があった。

 昼間ということもあってか、人通りが多い。入り口からしばらくは市が軒を連ね、多くの商人が声を張り上げていた。その声に誘われて足を止める女人を何度か見た。

 またその奥にある人々の住居の数もけた違いで、十歩も歩かずとも隣へ着いてしまう。空き地では子どもたちの笑い声が響いていた。

「……賑やかですね」

「だね。流石、饒速日さんの拠点だ」

「阿曽、温羅。向こうに見えるのが、饒速日さんのいる館だ」

 かやかれた屋根が見える。その周りを堀と柵が巡り、防御機能を持たせている。その広さは外から見てもわかるほどで、阿曽は開いた口が塞がらない。

「おや、須佐男さまではありませんか」

王珥わにさん」

 饒速日の館を見上げていた四人に声をかけたのは、屈強な偉丈夫。背丈も須佐男と大差ない。王珥と呼ばれ、男は相好を崩した。

「お久し振りですね。……お連れの方々ですか?」

「はい。大蛇と温羅、そして阿曽。三人共、こちら王珥さん。饒速日さんの部下で、素兔の友だ」

「王珥、と申します。お三方、よろしく頼みます」

 深々と頭を下げられ、阿曽たちは慌ててそれに習う。見た目とは違い、王珥は目端が効くらしい。

「初めまして、阿曽と言います」

「八岐大蛇です。大蛇とお呼びください」

「温羅です。王珥さん、こちらこそお願いします」

「ご丁寧に。……皆さんは、我が主に御用ですか?」

 王珥は小首を傾げた。その手には何処かで狩って来たのか立派な鹿の角があった。それに続いて、頭と体がくっついている。

「そうです。ちょっと、ご挨拶に」

「主も喜びましょう。私も丁度鹿を狩って来たところでしたから。これを焼いてお出ししますよ」

「楽しみにしていますよ」

 にこやかに話をする須佐男と王珥。突っ込む前に答えは明かされたわけだが、阿曽はきちんと笑みを浮かべることは出来なかった。


「こちらで、少しお待ちください」

 板張りの床の上に胡坐をかき、四人は王珥の言葉に従った。

 四人が通されたのは、館の敷地の中央にある建物だ。阿曽が見たところ他にも幾つか建物はあったが、今いるのはその中でも特に大きなものだ。

「よく、来たな」

 一段高い場所に、男がやって来た。その巨躯は須佐男の頭一つ分高い。眉は太く、眼光は鋭い。赤褐色の瞳が四人を睥睨した。

「お久しぶりです、饒速日さん」

「おおっ、久しいな。息災であったか、須佐男」

「はい。……月読兄上も、心配しておりました。一度顔を見せてやってください」

「……善慮しよう」

 困ったような笑みを浮かべ、饒速日は呟いた。それから須佐男の後ろに並ぶ阿曽たちに目を向け、破顔一笑した。

「王珥から聞いている。大蛇、温羅、阿曽。よくこの武海の地に来てくれた。歓迎するぞ」

「ありがとうございます、饒速日さん」

 温羅の如才ない挨拶に続き、大蛇と阿曽は頭を下げた。

 そこへ、王珥がさばいて焼いた鹿の肉を持って現れた。それを饒速日と須佐男たちの間に置き、饒速日の後ろに控える。

「さて、ここへ来た目的を聞こうか」

 鹿肉を飲み込み、饒速日はそう尋ねた。顔を見合わせ、須佐男が口を開く。

「はい。姉上より、中つ国で動くのであればあなたに挨拶をしておけと言われまして、参じたのです」

「天照が」

 目を見張った饒速日は、次いで苦笑を滲ませた。

「それで、何故この中つ国で動きたい?」

「堕鬼人を、この世から消すためです。そのために堕鬼人を生み出す元凶を倒したい。そして……」

 須佐男はちらりと阿曽を顧みた。

「この阿曽の過去を知り、彼の思いを叶えてやりたいのです」

「堕鬼人については昔から知っているが……、阿曽には何かあるのか?」

「それは」

「……俺は、見た通り目が赤いのですが、鬼ではありません」

 須佐男を遮り、阿曽は自分で告げた。己のことだ。己で言わなければなるまい。

 その言葉に、饒速日は目を瞬かせた。

「始祖につながる鬼かと思っていたが、違うのか。では、温羅は?」

「わたしはその始祖の末裔で間違いありませんよ。ですが、阿曽は違う。それでも桃太郎に襲われました」

「桃太郎、か」

 饒速日は控える王珥と目配せし、実はな、と続ける。

「月読に連絡を取れなかったのは、その桃太郎も理由の一つだ」

「桃太郎が?」

「……誰かが、桃太郎に襲われたのですか?」

 須佐男と大蛇に尋ねられ、饒速日は頷いた。

「襲われた。……我が地にも始祖につながる鬼はいる。そいつが首をかかれた。一瞬の逡巡もなく、瞬く間に」

 悔しげに歯噛みし、饒速日は言った。殺された鬼というのは、もしかしたら彼に近しい者だったのかもしれない。

「桃太郎は、この中つ国を縦横無尽に走り回る。いずれ相まみえた時には、友を殺した報いを受けさせねばなるまい」

「……友」

「そうだ、阿曽。友だ。温羅と阿曽も、大蛇も、須佐男の友だろう。それと同じことだ」

 その後、何度か堕鬼人の襲撃に会い、高天原に昇る暇がなかったのだと饒速日は言う。それは本当なのだろう。館の端々から、荒々しく物々しい気配が流れている。戦人いくさびとの気配だ。

 だから、と饒速日は言う。

「お前たちがこの中つ国で動くことを許そう。何かあれば、我が名を使ってもらって構わない。それくらいの信頼は、この地の者たちから受けているつもりだ」

 そう言うと、饒速日は須佐男に勾玉を差し出した。翡翠で作られたそれには、日を模した文様が彫られている。

「これは?」

「これは、我が許しを受けたという証。持って行け」

 今宵は泊っていけ、もてなそう。饒速日はにやりと笑うと、王珥に四人を部屋へ案内するよう命じて退出した。

 いつの間にやら、外は夕闇に染まっていた。

 四人は王珥に案内された部屋で体を休め、再び饒速日と食事を共にした。眠りについたのは、月が昇り切る前だった。

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