第168話 錬、惜しかったな
「錬、惜しかったな」
「結果から見れば負けだよ。しかし、いい打者だ」
鈴木部長から声を掛けられたが、もはや称賛の声しか出ない。そんな時、バックから麗さんが声をかけてきた。
「錬君、気楽に!! 全力を出したら悔いはないから!!」
そうだ、俺はまだ全力を出していない。まだできることはある。
「彩さん、そっちに打たせますから!」
「ちょっと、勘弁してえや」
もちろん、打たせる気なんてさらさらない。投げた瞬間、瞬時にコースを判断されるなら、球の出どこを分かりにくくするだけだ。
第七球目、投球動作に入った俺は腰を折り、膝を深く曲げる。そしてそのまま流れるようにアンダースローでボールを送り出す。
狙いは二番、球は地面すれすれのリリースから浮き上がるような錯覚を起こすライジングボールだ。高校野球ではアンダースローのピッチャーはほとんどいない。初見でこの球筋を見切れるか?
十七夜の始動が一拍遅れる。やはり球筋が分かりにくかったんだ。その分ボールは差し込んでいるがバットに当てられバックネットにファールが飛ぶ。
「まさか、アンダースローで投げられるなんて」
十七夜が驚嘆しているが、今のは見せ球だ。本命は次の球だ。
第八球目、俺はインターバルを置かずにすぐさまボールを投げる。今の残像がまだあいつに残っているうちに……。
再び、アンダースローから地面すれすれのリリースで投げられたボールは、途中までは先ほどの球と同じような軌道を進む。しかし、そこからシュートしながら球がひざ元九番に向かって沈んでいくのだ。
球の出どこが分かりにくいアンダースロー、さっきの残像のため、同じコースに来ると体が勝手に判断するはずだ。
さっきより幾分速い始動、かかった! 俺がそう思った瞬間、バットの軌道が変わってシュートしながら落ちていくボールを捕えられたのだ。
バットの芯を外された打球は、ゆるく転がりながら三遊間を抜けて行く。嘘だろ!! ヒットを打たれた。レフトの田山さんがボールを取るころには、もう十七夜は一塁を回っているだろう。俺は慌てて一塁の方を見ると、十七夜は一塁に向かって走っていなかった。
「あの程度の当たりなら、岡島商業の守備なら軽くアウトにしてるからな。まさか抜けるとは思わなかった」
そう笑いながら俺に向かって言ってくるが……。確かに古豪だった岡島商業は守備が徹底的に鍛え上がられていた。その守備が十七夜の基準だったとは助かった。
しかし、これで打つ手はなくなった。高校時代に試したことは全て試した。残りは四球、完全に手詰まりだ。
俺が次の投球を中々始めないので、鈴木部長がタイムを掛けて俺の方に走ってきた。
「沢村、まだ、出来ることはあるだろ? すべてを出し切れ、後悔するのはそれからだ」
そう言って俺の肩を叩いて守備位置に戻っていく。
まだ、出し切っていない? 何を? 俺は手に持ったボールをみつめる。このボールが持つ可能性?
ボールの縫い目に指を掛けて考える。あった! これなら一発逆転が狙える。その一球に掛けるなら、十七夜に感づかれないように、それまでの球は全て伏線にしなければならない。
「錬、腹は決まったか?」
「ああっ、ここまで負け続けたけど、負けたと思わなければ負けたことにはならない。俺は勝つことだけを信じて投げ続けるだけだ」
「よし、やろうぜ!!」
鈴木部長がバックの声を掛け、守備位置に戻っていく。
俺はそれを見届けて大きく振りかぶり、全力で投げる。それこそ、コントロール度外視の全力投球だ。高校時代で云えば、一試合に五、六球、有利なカウントかここぞという場面の時だけだ。
それを相手も感じ取ったんだろう。小細工なしで全力で迎え打つ構えだ。
そして、肩に力が入ったためか、高めにはずれ、低めにはずれ、三球連続でボールになった。
「沢村君、一生懸命なのは分かるけど、これじゃあ勝負にならないよ。それとも、勝負をなげたのかな?」
十七夜がふざけたことを言っている。
「十七夜、まだ、スリーボールだ。そっちこそフォアボールとか考えて気を抜くなよ」
十七夜はきっと、もう俺に持ち球がないと考えている。だからこその捨て身の全力投球だと……。だからこそ奴は全力でぶつかり合うことを純粋に楽しんでいる。
ああっ、俺も楽しい。もし、一球でもストライクゾーンに入っていたら、どんな結果になっていただろうか……。
しかし、それも野球に違いないだろう。でも、勝負となれば、知恵を出し尽くし知略を駆使してこそ勝利を手にすることが出来るんだ。考えてみろよ。力と力のぶつかり合いなら、監督や仲間なんて必要ないんだから!
俺はそう心の中で呟き、最後の一球のモーションに入る。
テイクバックから肘を送り出す時に手の甲は完全に打者に向け、そこから、腕を振り出す時に体温計を振るように肘から先を回転させる。そのまま、指がボールの横に掛かるようにリリースし、フォロスローは手の平が外に向かうように振り下ろす。
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