第27話 帰還
二人はなおも進み続けた。日中は人間達を避けるように進み、夜は二人で寄り添って寝た。そしてとうとう、見覚えのある場所までやってきた。
「グレイル、ここって……」
「ああ、俺達の狩り場だ。ほら、あそこを見ろ」
グレイルが鼻先を向ける方に目をやると、遥か遠くで小さい、白い煙が幾筋も立っているのが見えた。
狼の村だ。
レティリエの胸が郷愁の念で熱くなる。ここまで来ればあと一息だ。だが、グレイルは険しい顔で周囲を見渡した。
「……今までに無いくらい人間達がうろついているな」
「そうね、さっきもあそこに人間がいるのが見えたわ」
狼の村に近づくにつれ、人間の気配だけではなく、目視でも姿が確認できるようになっていた。グレイル達は背の高い草むらの影に身を潜めながらゆっくりと歩を進めるが、どちらに進んでも人間達の数は減る気配がない。
グレイルはレティリエを草むらの中に隠し、暫くの間辺りの様子を伺いに行っていたが、やがて険しい顔をして戻ってきた。
「狼の村を囲む形で人間達が集まっている。村まで入る勇気は無いようだが、出てきた所を捕まえる気だな」
グレイルの言葉に、レティリエはぶるっと身震いした。どうやら彼らは、本気で自分を捕らえるつもりらしい。
「それじゃあ迂回して村までたどり着くのは無理ってことなのね?」
「ああ、このまま進めば間違いなく見つかるな」
「そうよね……どうしたらいいのかしら」
レティリエの瞳が不安の色に染まる。グレイルは少し逡巡した後、ゆっくりとレティリエの顔を見上げた。
「こうなったら正面から突っ切るしかないな」
「えっ……」
驚いてグレイルの顔を見返すと、彼は強い光を目に灯しながら真っ直ぐにレティリエを見ていた。
「でも、もし捕まったら……」
「ああ。俺は間違いなく殺されるな。だからもし俺に何かあったら、お前はすぐに逃げろ。絶対に立ち止まるな」
「そんな……嫌、嫌よ」
思わず反射的に声が出てしまった。考えたくもない恐ろしい想像が頭の中を駆け巡り、目の前が真っ暗になる。グレイルは黙ったまま静かにかぶりを振った。
「レティ、お前が了承してくれない限り、俺は前に進めない。約束してくれ」
「そんなの絶対嫌! 私も一緒に……」
「ダメだ。運が良ければ一緒に死ねるが、運が悪ければお前はそのまま人間の手に堕ちて……その先は言わせないでくれ。それとも、お前は俺にそんな思いをさせたいのか?」
グレイルは頑なだった。万が一自分に何かあった場合、レティリエが自分を助けようと奮闘することを知っているからだ。だが、今回の場合は対する人間の数が多すぎる。先を進む前になんとしてでも言質をとっておく必要があった。
レティリエは、イヤイヤと子供の様に駄々をこねることしかできない自分を呪った。ここでその提案を受け入れてしまったら、彼は自分の命を二の次にしてしまいそうなのが怖かった。けれども、彼が一番恐れていることは、自分が人間の手によって誇りも尊厳も何もかもを傷付けられることだ。だから、自分は何があってもその想いを無碍にしてはいけない。
レティリエはグレイルの瞳をじっと見つめた。彼の金色の目は確固たる意志の光を灯している。
「……わかったわ」
震える声で答えると、グレイルは安心したように微笑んだ。彼はとうに覚悟を決めているようだった。今ここで、死ぬかもしれない覚悟を。
レティリエは思わずグレイルに抱きつき、黒くふさふさした毛の中に顔を埋めた。背筋が氷のように冷たくなり、震えが止まらない。グレイルはカタカタと震えるレティリエの頬に優しく鼻を擦り寄せた。
「大丈夫だ。俺が人間達に引けをとるわけがないだろう」
レティリエは黙ったままコクリと頷いた。彼も人間に恐怖心を抱いているはずなのに、レティリエを安心させようとしてくれている。
このままグレイルの優しさに甘えていてはいけない。レティリエも覚悟を決め、顔あげた。
「……絶対に一緒に帰りましょう」
グレイルは頷くと、背中に乗るよう鼻先をで合図をする。レティリエが背に乗ったのを確認すると、力強く地面を蹴った。
「なんだ?! 何か近づいてくるぞ!」
「黒い……なんだありゃ、狼か?」
「おい! 背中に乗ってるのは例の銀色の狼じゃないか?!」
「早く! 早く黒い方を矢で射ろ!」
人間達が二人に気づき、口々に声をあげる。グレイルはその中を稲妻の様に走り抜けた。矢で射られないよう、時折進行方向を変えながら跳躍する。レティリエは自身の体が的にならないよう、頭を低くした状態でグレイルの背にしがみついた。
ヒュンと風を切り裂く音が微かに聞こえたと同時に、グレイルが瞬時に斜向かいの方角へ舵を切る。ガガッと鈍い音がして矢が側の木に突き刺さった。恐怖を感じる暇も無く、激しい方向転換に振り落とされそうなる所を全身で踏ん張る。
ヒュンヒュンという音と共に何本もの矢の嵐が追いかけてくるが、グレイルは全て間一髪でかわした。一瞬の判断ミスが命取りになる。今、グレイルは全神経を研ぎ澄ませ、耳に入る微かな音と野生の勘だけで避けていた。
「グレイル! 左の斜め後ろに三人、右に一人いるわ!!」
レティリエも身を低くしながらなんとかグレイルの目になろうと奮闘する。
グレイルが斜めの方向に地面を蹴った。弓に矢をあてがって構えていた人間達は、目標物が思いがけない方向へ跳躍したことで不意をつかれたようだ。当てずっぽうに射った矢が次々と地面に突き刺さった。
尚も進んでいくと、レティリエにも見覚えのある森の中に入った。いつも木の実や果物を採取しに来る見慣れた平和な場所が、今は死地となって二人を飲み込もうとしていた。
突如、正面の草むらから矢をつがえた人間が現れた。瞬時に真正面から眉間に向かって矢を打ち込むが、グレイルは身を翻してそれを交わす。そのまま横を走り抜けようと速度をあげるが、人間はすぐに矢筒に手をかけ、第二の矢を放とうとしていた。
(間に合わない……!!)
レティリエが声にならない悲鳴をあげる。グレイルがそこを通り抜けるより先に矢を打ち込まれる方が速いだろう。だが、グレイルは方向転換をせず、そのまま突っ込む形で人間に飛び掛かった。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!!」
狼の鋭い爪に胸を裂かれて人間が絶叫する。グレイルは後ろ足で人間を蹴りあげるようにして弾みをつけると、さらに疾走した。
咄嗟の判断だったが、グレイルの勘は当たっていた。初めの矢を放たれた時点で人間とグレイルの距離はほんの数メートルしか離れていなかった。人間に突撃せず別の方角へ舵を切っていれば、確実に至近距離から矢を打たれていただろう。グレイルの野生の勘は、今だかつてないほど研ぎ澄まされていた。
「グレイル! 後ろから来てる!」
今度は四方八方から人間達がわらわらと飛び出し、グレイルを目指して走り出す。狼の身体能力は人間の比ではない。追い付かれる心配はないが、どうやら彼らはある方向へ自分達を追い込もうとしているらしかった。
グレイルは人間達の意図を察知し、薄く笑った。日頃、獲物を追い込んでいる狼が、追い込まれる立場になるとは皮肉なものだ。
人間達に追われるように進んでいくと、前方に崖が見えた。彼らの狙いはこれだろう。背中のレティリエが青ざめるのがわかった。
「グレイル……! 前! 行き止まり……!」
「ああ、しっかり捕まってろ!」
グレイルは崖の端まで来ると、臆すること無く飛び込んだ。ふわっと体が宙に浮き、そのまま吸い寄せられるように地面が眼前に迫ってくる。レティリエはギュッと目を瞑った。
しかし、想定していた衝撃は無く、グレイルは前足でストンと着地するとそのまま地面を蹴り、疾走した。
「あっ、私……! このまま墜落するのかと思ったわ……!」
バクバクする心臓を押さえながら途切れ途切れに言うと、グレイルは走り続けながらもニヤリと笑った。
「狼の体ならこれくらいは大丈夫だ。このまま村まで突っ切るぞ」
グレイルが加速する。風が正面から殴り付け、レティリエは思わずグレイルの毛並みに顔を埋めた。力強く躍動する生命の鼓動がレティリエの全身を包み込む。レティリエは両手でグレイルの体を抱き締めた。
(お願いします……! どうか、私達を村まで帰してください……!)
レティリエはぎゅっと目を閉じ、この温もりがここで失われないよう天に祈った。
走っていた距離は村まで数キロ程の短い距離だったが、レティリエにとっては気が遠くなるほど長い時間だった。だが、その逃亡劇も終わりを告げる。グレイルの走る速度が緩やかになり、やがて歩みを止めた。
チチチ…と小鳥のさえずる音が聞こえ、レティリエはグレイルの背中からそっと顔をあげた。木漏れ日が雨の様に降り注いでいる、穏やかで温かいその場所は、懐かしい狼の村だった。
「グレイル……! ここ……戻ってきたのね?」
レティリエの胸が郷愁の念と安堵の喜びで満たされる。グレイルも、久方ぶりに見る郷里の景色を感慨深げに眺めていた。
レティリエはグレイルの背から降りると、目を詰むって天を仰いだ。草木や花の香りが風にのって鼻に届く。懐かしい故郷の匂いだ。
「やっと帰ってこられたな。本当に、長い道のりだったよ」
グレイルは狼の姿から人の姿に戻ると、大きく息を吐きながら地面に腰をおろした。
「えぇ、グレイル……ここまで守ってくれて本当にありがとう。無事に帰れたのは貴方のおかげよ」
レティリエもグレイルの隣に座り、金色の瞳を見上げる。レティリエを見つめ返すその瞳はとても優しかった。
「お互い様だ。レティも、よく頑張ってくれたな」
ふいにグレイルが右手を伸ばし、レティリエの頭を撫でた。労るような優しい手つきと眼差しに、レティリエの胸がドキドキと鼓動を打ち始める。彼とは長い付き合いだが、こんなに愛おしむような目で見られるのは初めてだ。
グレイルの手が頭から頬に滑り、そのままゆっくり離れようとするが、レティリエはその手を掴んで引き留めた。
グレイルが微かに身動ぎしたが、構わずそのまま頬に擦り寄せる。大きくて温かな男の人の手だった。
「……私達、本当に生きてるのね」
頬からじんわりと伝わる熱を感じながら微笑むと、グレイルも笑みを返してくれた。
しばらくの間、そうやって二人で生の喜びをわかちあっていた。
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