第19話 ドロシー=レザーランス(女神暦1567年4月22日/大図書館)
見渡す限り書物の収められた書架が樹林のように広がる知識の樹海。
その中を分け入るように進みながら、俺とドロシーは台車に載せた本を棚の空白部分に戻していた。
「この古代の民族と風俗の本はここで、古代の武将や偉人の伝記はここだな」
「す、すみません、アレンさん。お仕事終わりなのに、手伝って頂いて」
「構わないさ。俺、本は大好きだから、こういう作業も別に苦にならないし」
「そ、そうなんですか? た、例えば、どういった本を読まれていたんですか?」
ドロシーからのそんな何気ない質問に、俺は少し思い悩む。
ラノベが愛読書だと、こういう風に『どんな本読んでるの?』って訊かれた時に答えに窮するんだよなあ。
別段ラノベばかりでなく一般文芸もそれなりに嗜んでいたし、中学の時に事故死した両親は本好きな人だったから、幼稚園の頃から本の読み聞かせなんかもしてもらっていたので、他者と比べると本に触れる時間は多かったと思う。
その分読んできた作品の総数も多岐にわたるので、そこから一冊に絞り込むのは非常に困難と言わざるを得ない。
その中で、特に好きだった本を挙げるとするならば……。
「俺が好きだったのは、ファンタジーかな。魔法使いの少年が悪い魔法使いとの戦いに巻き込まれていったり、山間の小さな山村で暮らしていた少年が旅に出て沢山の町や危険な魔境を旅していく物語が好きだったよ」
具体的なタイトルを紹介しても、異世界で暮らすドロシーには聞き覚えのない作品ばかりだと思ったので、ひとまずジャンルで答えることにした。
恋愛、コメディ、エッセイ、古典文学等々、多種多様なジャンルの本が世界中に溢れていたが、俺の琴線を一番震わせたのは、中世ヨーロッパ風の街並みが広がる魔法や剣の世界だった。
一度本を開ければつまらない現実から抜け出して、ドラゴンに攫われた姫を救う騎士にもなれたし、奇策を弄して敵軍を翻弄する天才軍師にもなれた。
自分ではない自分になれるという非日常感と胸を
その時の感情の
共感してもらえるだろうかと内心で若干身構えるが、ドロシーはパァァァアアと表情を日輪のように輝かせて、胸元の辺りで両拳を握り生き生きとした声を上げる。
「ファンタジーですか! 私も好きなんです! 現実の私って暗い性格でドジばかりだし、学園に通っていた頃にとても辛いことがあって毎日泣いていた時も、本を読んでいる間だけは何にでもなれたんです。大国のお姫様に、魔女の森で暮らす新米魔女、時には暖炉の温もりに微睡む安楽椅子に座ったお婆さんの膝元で欠伸を漏らす猫にだって。本は私をここじゃないどこかに連れて行ってくれる翼みたいで……あっ、ごめんなさい。私ったら、つい長々と話してしまって……」
「いやいや、それだけ
「す、すみません。私、本好きな人とか共通の趣味を持った友人がいたことなくて、つい気分が高揚してしまって……」
「同好の士が見つかった時の喜びとかは俺もよく分かるから、気にしなくていいよ」
「そ、そうですか。なら、良かったです」
そう言った彼女は気恥ずかしそうにお辞儀をして台車の本に再度手を伸ばし、ドロシーに任された仕事を再開しようとするが、本の表紙に伸びた指は軽く題名の文字を撫でて静止してしまう。
少し青ざめた顔は強烈な緊張や怯えのようなものを孕んでいて、軽く冷や汗のようなものも浮かんでいる。
まさか、体調でも悪いのか? それともさっき口走っていた、学園に通っていた頃の何か辛い思い出でも蘇ったのか?
ドロシーがどんな人生を歩み、どうして『
個人の出生や辿って来た年月の軌跡すら暴くことができる【神眼】スキルを以てすれば、ドロシーの過去を盗み見ること自体はいつでもできる。
だけど、俺はそれは絶対にしないと心に決めている。
その人が歩んできた思い出や知られたくない過去に無理矢理メスを入れるような真似はしたくなかったのだ。
だから、何故ドロシーが今身を引き裂かれそうなほど苦渋に満ちた表情で体を硬直させてしまった理由は分からない。
だけど、目の前で泣き出しそうなほど辛そうにしている女の子を放りっぱなしにしたまま黙々と仕事に取り組めるほど、俺の肝は据わっていない。
「ドロシー、何か話したいことがあるなら、俺でよければ話を聞くよ?」
その声にハッとしたドロシーは、恐縮したように身を縮める。
「ア、アレンさん。すみません、少し昔のことを思い出してしまって」
「さっき言っていた学園に通っていた頃のこと?」
「はい。私がまだ、奴隷になる前の話なんです。……あの、アレンさん。少し昔話をしてもいいでしょうか?」
「ああ、勿論。幸いなことに、ルイーゼに頼まれた返却本は残り数冊程度だし、仕事の合間に少し雑談しても問題はないさ」
彼女が余計な気苦労を感じないように殊更茶化した口調で台車に積まれた本の背表紙を軽く撫でると、ドロシーの表情の強張りも幾分解れたように見えた。
「すみません、エルザやシャーロットには奴隷だった頃に話してはあるんですが、私達を暗い闇の底から
そう儚げに笑った少女は、奴隷になる前のひび割れた過去の述懐を始めた。
北大陸の南部・中央部の一部・北部地域一帯を主とした領土を治める世界最高峰の魔法大国、ルスキア法国。
そこが私の生まれた国でした。
雪と氷に覆われた大地が国土の半分を覆う雪国でしたが、女王陛下と麾下の宮廷魔導士団から下賜される炎の魔力を宿した魔鉱石の恩恵や、高名な魔導士を多く抱える魔法学園が定期的に町や街道に降り積もった雪を魔法で溶かしてくれるおかげで、国の北部や地方の小村を除けば雪害に頭を悩ませることもありませんでした。
私はそんな国でも『御三家』と呼ばれる、建国初期の黎明期から国家を支え続け、法国の魔法革新の礎を築き上げた魔導士の名門一族の一つである、レザーランス家に生を受けました。
島や大船団も一撃で消滅させてしまうような強大な破壊力を有する軍略級魔法の研究開発に長け、代々国家防衛の要を担い続けてきた優秀な魔導士の血筋。
そこに生まれ落ちたのが、一族由来の豊富な魔力量を有しておきながら、生まれつき魔力を錬成する体内の回路が断裂していて簡単な魔法も発動できない落ちこぼれの私。
一族最大の汚点と家では蔑まれ、学園では「無能」「劣等生」と馬鹿にされ、毎日耳が腐るような罵詈雑言を吐かれ続けました。
死にたいと毎日誰にも聞かれない場所で呟き続け、「ごめんなさい」と毎日泣きながら抱き締め続けてくれた母を傷付けたくないと学園でのいじめのことは隠し通すことに専念しました。
代々宮廷魔導士団に召し上げられる優秀な魔導士を輩出し続けてきた家に生まれながら、魔法一つ使えない娘を早々に見限った父の冷めた目も、悪意に満ちた同級生達の嫌がらせも、私を想ってくれる母がいてくれれば、私を色々な世界へ連れ出してくれる物語さえあれば、どんな責め苦も耐えられる気がしました。
一族から向けられる誹謗中傷や冷徹な視線に心労が祟り、母が若くしてこの世を去るまでは。
パリンッ、と心の中で何かが砕け散る音が聞こえたのを覚えています。
「お前のせいで死んだ」という父の言葉から逃げるように葬儀の最中の屋敷を飛び出し、一人で涙を流せる場所を探し、町の郊外にある雪原にまで足を運びました。
声が枯れ果てるほど近隣の住民も滅多に立ち寄ることもない針葉樹林の片隅で泣き続けました。
胸にぽっかりと空いた喪失感と母への申し訳なさで満たされた懺悔の涙を流すことに夢中で、私は全く気が付かなかったのです。
優秀な魔導士の子供が多く暮らす法国に、高く売れるだろう商品を仕入れに密入国していた『
「そこで捕まった私は、世界各地を転々としながら奴隷売買に手を染めていた『
「……そうだったのか。随分と苦労したんだな」
「はい。あっ、それでも嫌なことばかりではなかったんですよ。食事は野菜の切りくずのスープとか冷めたお粥とかばかりでしたけど、エルザやシャーロットにも出会えましたし、こうしてアレンさんやルイーゼさんにも会えましたから」
「そうか。そう思ってくれているなら、エルザ達も嬉しいと思うよ。勿論、俺やルイーゼも、ゼルダ達もな」
「あ、ありがとうございます。私みたいな何の取り柄もないし、酷いことをされても何も言い返せないような弱い人間を、皆さん温かく迎えてくれて、本当に感謝しています」
そう言ってぎこちなく笑うドロシーの言葉には、隠し切れないほどの謝意の気持ちが込められていた。
壮絶な境遇を抱えながらも、この少女は最後まで諦めることなく頑張り続けてきたのだろう。
それは生半可な覚悟ではなかった筈だし、俺なんかが軽々しい言葉で下手な慰めをすることはどうしても
だけど、俺は彼女の言った言葉を訂正しなければならない。
そうしないといけないと思った。
気の利いた励ましの言葉や、今までの辛い過去を治癒させてしまうような魔法の言葉なんて
それでも、そんな情けない俺にも絶対に胸を張って言えることはある。
「なあ、ドロシー」
「は、はい。な、何でしょうか?」
「俺に自分の過去を話してくれてありがとう。凄く嬉しかったよ」
「い、いえ。そう思ってくださるだけで十分です」
「だけど、さっきの話を聞いていて訂正したいところがある」
「えっ?」
突然の俺の発言に面食らうドロシーに優しく微笑みかけながら、俺は少し腰を曲げて自分の目線を彼女の目線に合わせる。
「ドロシーは、自分は何の取り柄もない弱い人間だって言ったけれど、それは違うよ」
「で、でも、私は、学園時代のいじめのことも母のような親しかった人にも言えないような臆病者ですし……」
「ドロシーがお母さんにいじめのことを言いだせなかったのは、大好きなお母さんを悲しませたくなかったからじゃないのか?」
「そ、それは、そうですけれど……」
逡巡しながら歯切れの悪い言葉を漏らす少女の肩に手を置き、自信を持って言葉を告げる。
「これは俺の勝手な持論だけど、大切な人を悲しませたくない、泣いて欲しくないと願って、自分の身が引き裂かれそうな痛みに歯を食いしばって必死に耐えられる人間が弱いなんて、少なくとも俺は思わない」
「……っ!」
「大切な人だからこそ言いだせないことだってあるし、自分より他人の痛みを気にしてしまうその優しい心も十分ドロシーの取り柄だし、君は自分で思っているよりも強い人間なんだと俺は思う」
「……」
「今まで辛いことが続いて大変だったろうけど、その分これからはこの村で幸福な時間が沢山続くし、俺が続かせる。国に帰りたいなら全力でサポートするし、この村で暮らし続けるなら、俺が絶対に幸せにするから安心してくれ。……なんか、こっ恥ずかしくなってきたな」
「い、いえ! あ、ありがとうございます。その、そんな風に誰かに言って頂いたことなんてなかったので、上手く言えませんが、私もアレンさん達と一緒に暮らしていきたいです。国に未練が全くないと言えば嘘になりますけれど、ここで皆と過ごす時間はとても楽しんです。これからも、よろしくお願いします」
ドロシーは何故か頬を少し紅潮させながら頭を下げるが、心なしか表情も和らいだように見える。
それは嬉しいけれど、なんか俺勢いに任せて色々と恥ずかしいことも言ったような気がする。
まあ、別に間違ったことは言っていないと思うから、後悔はしないけどさ。
「よ、よし。残りの本も片付けるとしようか!」
「……アレンさん、照れてます?」
「て、照れてないから!」
ほんの少しの遊び心を含んだ笑みを零すドロシーにはもう憂いの感情は見当たらず、ホッと胸をなで下ろす。
とりあえず、これで良かったのかな?)
そう自問自答しながら、ルイーゼが「業務ご苦労様。お茶の時間にしないかね?」と俺達を呼びに来るまでの間、ドロシーの顔には朗らかで柔らかな笑みが咲き続けていた。
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