第6話 嘘
どでかい四角い箱のような……そんな建物を前にして、まるで古傷が痛むみたいに胸の奥が疼くのを感じていた。
まさか、またここに来るなんて。
高校から電車を使って十五分。うちからは車で十分ほど。
司馬ヴァルキリーが練習に使っていた須加寺アイスアリーナは、大通りから路地に入ってちょっと歩いたところにあった。護が通っていた小学校が目の前にあって、五時ちょっと前のこの時間、ちらほらとランドセルを背負った子供たちが入り口の前を横切っていく。
ケンカなのか、ふざけているのか、わいわいとじゃれあいながら歩いていく子供たちを横目に、俺はなんとも言えない複雑な気持ちで佇んでいた。
懐かしいような、悔しいような……後ろめたいような。
中学に入ってから、友達とスケートに行こう、なんて話になったこともあった。それでも、俺は行かなかった。いや、行けなかった。ここに来たら、きっとこういう気持ちになるのは分かっていたし……それに、ヴァルキリーのメンバーに出くわすのが怖かった。
何かに押しつぶされていくように胸が苦しくなった。
『妖精』はまだか? と、たまらず俺は辺りを見回した。
さっさと言うこと言って、帰ろう。もう俺に関わらないでくれ、てそれだけ言えばいい。その一言だけでいいから、きっぱり言って終わりにしよう。もうこれ以上、『妖精』に振り回されるのはごめんだ。
「センパーイ!」
突然、背後から――建物の入り口のほうから、自動ドアの開く音とともに、元気よく弾む無邪気な声がして、
「外にいたんですね! すみません、私、中で待ってて気付かなくて……。いつから、待ってました!?」
『妖精』だ。そう確信するなり、バシッと言ってやろうと振り返って開いた口は、しかし、息ひとつ漏らすことなく固まった。
現れた『妖精』は制服姿ではなかった。体にぴったりと張り付くような黒いジャケットに、下は黒のレギンスを着て、長い黒髪は一つにまとめて頭の高い位置でくくっている。前髪も全て上げてピンで止め、卵のようなつるんとした額があらわになっていた。
全く同じ、てわけではない。凹凸のある身体のシルエットは、ただ華奢だったあのころとは全然違うし、小柄とはいえ背だってずっと高くなった。
それでも……。
抗えない懐かしさがこみ上げて、容赦無く心を揺さぶってくる。
「どうですか?」と『妖精』は、ポニーテールを見せびらかすように頭を左右に振って、はにかむように微笑んだ。「これでも……私のこと、見覚えありません? 急いで家に帰って着替えてきたんです。全く一緒ってわけにはいきませんけど……あのときの練習着とだいぶ近いと思うんですよね」
「なんなんだ?」と掠れた声が溢れていた。「何……企んでんだよ?」
「はい? 企んでるって……」
しまった。声に出てた……!?
やばい、ととっさに顔を背けた。
『はあ? せっかく着替えてきてやったのに、なに、その言い草? 調子乗んないでよね』とかブチギレられるんじゃ……と肝が冷える思いで、身構えていると、
「このスケート場でこの格好で滑ったら、もしかして、思い出してくれるんじゃないか、て思っただけなんですけど……やり過ぎちゃいましたかね。引いてます?」
肩透かしてしまうくらい、殊勝な声だった。
そろりと目だけで様子を伺うと、『妖精』は今までとは一転して暗い表情でしゅんと俯いていた。
調子が狂う。こっちは決闘に挑むような心持ちで来たってのに。こんな態度取られたら……何も言えねぇ。いっそのこと、罵詈雑言でも浴びせてくれたら、冷たく捨て台詞でも吐いて去れるものを。
「でも、企んでるって言われたら……そうなのかな」ハッとして、なにやら独り言のように『妖精』はつぶやいた。「ダブルデートも……嘘ついて呼び出したと言えば、そうだし……」
「嘘……!?」
やはり、裏があったのか!
ぎくりとして警戒する俺に、
「あ、違いますよ!」と、『妖精』は慌てたようにあたふたと両手を左右に振った。「ミリヤンのことは大好きですし、『ラブリデイ』で先輩と仲良くなりたいのは本当なんです! ただ、今日は……今日、スケートに誘ったのは、先輩と滑りたかったからなんです」
「な……なんで……」
「それは……」と『妖精』はつと視線を逸らした。「先輩、私のこと忘れてるみたいだったし……いきなり、誘って引かれたらどうしよう、とか思っちゃって……先輩も『ラブリデイ』やってるみたいだから、ダブルデートって言えば自然に誘えるかなーとかズルいことを考えてしまって……ミリヤンとモナちゃんを利用してしまいました」
ごめんなさい、とポニーテールを弾ませて頭を下げる『妖精』に、俺はすかさず「いや、そこじゃなくて」とおずおずと
「なんで、そんなに俺と滑りたいんだよ? 俺、フィギュアじゃくてホッケーで……踊れるわけでもないし。誰かと勘違いしてるんじゃ……」
すると、『妖精』は頭を上げて、はたりとした。
日が傾いて、辺りは橙色に染まりつつあった。『妖精』の髪は夕日に焼けたように茶色く染まり、頰はほんのりと色づいて、その瞳は琥珀色に輝いて見えた。向かいの小学校のほうから、吹奏楽部のものだろう、どこか気の抜けるラッパの音が聞こえてきていた。――そんな虚しくも懐かしい、哀愁漂う夕暮れ時に、『妖精』はぽつんと佇み、儚げに微笑んだ。
「勘違いじゃありません。センパイです。私が小五のとき、『絢瀬セナは一番、キレイに跳ぶ』て私のこと褒めてくれてた笠原陸太くん」
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