第6話(9/9)

「あー……」

 気持ちよかった。


 日中の授業と肝試しの疲れはすっかり癒されていた。温かいお湯でリラックスしたのもあるし、浴場にいたのは皆肝試しを終えた者だったので、口々にあれはやり過ぎだろと愚痴をこぼし合えたからだ。


 しかしおかげで制限時間ギリギリの長風呂になったので、少しのぼせ気味だった。


 ロビーにある自販機でスポーツドリンクを買うと、ベランダへ繋がるドアが開いているのが見えた。立ち入っていい場所か迷うところだけど、既に扉が開いているおかげで抵抗も軽かった。俺はそのまま誘われるように外に向かった。


 ベランダは長く、食堂の裏に伸びるように繋がっていた。照明はなく、月明かりだけが照らしている。後ろにはガラス越しで食堂の中が見えるけど、今日の営業は終了したらしく、電気は全て落とされて眠っていた。


 火照った身体を夜風がそっと撫でる。


 トントントントンと、等間隔に並べられたベランダの支柱を指先に当てながらゆっくりと歩くと、目の前に人影が現れた。どうやら先客がいたらしい。向こうも俺に気付いたようでびくりと身体を震わせたのが分かった。


「……なんだ、春樹さんか」

 正体を知って身体を弛緩させる。ついさっきまで肝試しをしていたし、過敏になっているんだろう。


「なんだ悠里か」

「なんだとは何ですか失礼ですね」

「数秒前の自分の発言を忘れるんじゃない」

 俺の突っ込みは無視して、悠里は話を変える。


「こんなところで奇遇ですね。もしかして私の後をつけてきたんですか?」

「はいはい。……ちょっとのぼせちゃってな。夜風当たりにきた」

 いたずらそうに笑う悠里をあしらって、スポドリを振って見せる。


「悠里は?」

「私はなんというかアリバイ作りというやつですね」

「アリバイ?」

「ほら、すぐに戻っちゃうと髪乾いてるのが不自然じゃないですか。なので夜風に当たってその間に乾いていたというシナリオです」

「なるほど」

 なかなか賢い考えだった。


 俺は悠里から三人分くらいの隙間を空けて立つと、手すりに肘を付いて外を見渡す。遠くに街の明かりが見えた。


 ペットボトルを開け、スポドリに口を付ける。胃にしか届いていないはずなのに、全身まで水分が行き渡る気がした。育てているきゅうり達を思い出した。


 悠里も同じように外に身体を向ける。


 しばらく無言で、揃って夜を眺めた。小さく風に揺れる木々の音と、同級達の喧騒がかすかに聞こえた。


 俺は人工の光に飽きたので、視線を上に向ける。街明かりに比べて大分弱々しいけれど、天然の光の粒がそこにはあった。今にも粉雪のように降ってきそうだ。


「ねぇ、春樹さん」

 環境に合わせたように小さな声で悠里が呟く。


「んぁ?」

 空を見上げているせいで口を閉じれないので、何とも間の抜けた返事になった。


「春樹さんが私を助けてくれるのは、私が脅しているからですよね?」

「え?」

 いきなり何を言い出したのかと、俺は悠里の方を見ると、彼女ははにかんで俺の答えを待っていた。その笑みはいつか、自分に友達は作れないと言った時の顔に似ていた。


「ま、まぁ、そうだな」

 質問の意図が分からず、客観的に確実なそれだけを答える。


「さっき私をおぶってくれたのも、体力テストの時みたいに、他の方に傷を見られないようにしてくれたんですよね?」

「え?」

 そんなこと考えてなかったけど、思い返せばもしあの時香椎さんが助けに行っていたら、もっとしっかりと傷口を見られて誤魔化しが効かなくなっていたかもしれない。結構危ない状況だった。

 答えあぐねている俺を見て、悠里は首を傾げる。手すりを持つ右手に力が入るのが見て取れた。


「あー、まぁ、うん……」

 そう思われてる以上、単に心配だったからなんて言えずに曖昧に頷いた。

 悠里は、ですよね、とだけ言って、再び外に身体を向ける。


「い、いきなりどうしたんだよ」

「別に。大したことじゃないです」

 そんなことより、と悠里は今日の授業の何が難しかっただの、ようやく明日で終わりだだの、当たり障りのない話を始めた。

 俺はそれに応じつつ、再び空を見上げる。

 いつの間にか空は曇っていた。そこに星は見えない。


 その曇り空は、それから合宿中ずっと続いた。

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