第33話 さざ波
「若菜は大丈夫か?」
「問題ありません」
若菜はあっけらかんと言った。
昼に律たちとした話を、若菜にもしたら、これだ。予想外の反応で、夕食を摂る三澄の箸が止まる。
「それより、日程の方はどうなりました?」
「それはまだだけど」
三澄が何気なくそう答えた瞬間、若菜が僅かに眉間に皺を寄せた。
「このままうだうだと引き延ばすつもり、とかじゃないですよね?」
ギクリとする。
「や、うだうだって、そんな一日、二日で……」
「その一日、二日で手遅れになったらどうするんですか」
「や、でも、今日は律の奴、普通だったし」
「律さんは、思ったことを包み隠さずすぐに言う、素直な人なんですか?」
「……」
比較的素直な方ではあるだろう。だがそれは、三澄や美月など見知った相手に対してのみの話。波風立てず目立たず。小学生からの、律の基本的な学校内での過ごし方だ。
それに、若菜の言いたいことの本質はそういうことではきっとない。
あの昼の会話、更にはあの告白の朝。律は本当に自分の気持ちを少しも殺さなかったのか。若菜を紹介したいと言って、律は頷いてくれたけれど。
「出来る限り早いうちに済ませておくのが、誰にとっても最善だと思いますよ」
若菜はそう言って、話は終わりだとばかりに食事を再開した。
三澄も遅れて箸を動かし始める。
結論は出た。出してもらったと言った方が正しいがそれは置いておいて。
『思ったことを包み隠さずすぐに言う、素直な人なんですか?』
この世に、隠し事をせずに生きている人間がいるのか。
先程の問いには、そういう皮肉が混ざっているようにも聞こえた。
そもそも、思ったことを包み隠さず全部言えてしまう人間の方が稀だろう。誰しも、物事を円滑に進めるために我慢をする。空気を読む。
だが、今、三澄がしている隠し事は、その範疇には収まらない。
勿論、そういう隠し事も悪いことではない。他人に知られたくないことは、生きていれば少しずつ蓄積していくもの。仕方のないことなのだ。
それでも、信用を得たい相手に対してまで隠すのは、許されることなのだろうか。
七月に入った。ニュースでは、西日本の方から順に梅雨明け宣言がされ始めている。
だが、三澄の家の近辺はまだぐずぐず。昼からは雨とのことだった。
「じゃあ若菜、午後は頼むな」
「はい」
今日の午後、学校終わりに、この家に律と美月を連れてくることになっている。一昨日、律たちが三澄のバイト先に乗り込んできてから二日で、早くも対面というわけだ。
何事もなく終わるのか、一波乱あるのか。三澄としては気が気ではないが、若菜は至って静か。緊張から口数が減っているというわけでもなさそうだ。
随分と肝が据わっているらしい。いや、むしろこっちが小心すぎるのか?
「行ってきます」
三澄は妙な対抗心を抱きながら、玄関を出た。
予報を信じた者たちを嘲笑うかのように、雨脚が強くなってきた。
三澄は下駄箱の戸を開けて、湿った靴を仕舞う。と、視界の端に、慌ただしく入口から入ってくる一団を捉えた。どうやら横着をしたらしい。傘を持っているのに、一様に頭から雫を滴らせている。
そんな連中を横から追い抜くようにして、一人の女の子が姿を見せた。傘を畳んで傘立てに挿し込んだ後、こちらに歩いてくる。
「おはよう、律」
「あ、三澄。おはよう」
こちらの存在に気付いた律が、靴を脱ぎながら微笑みかけてくる。三澄は律の準備が整うまで少し待ってから、教室に向かって並んで歩き出した。
「三澄、今日のお昼なんだけど、またあの空き教室ね」
「……また弁当作ってきてくれたのか?」
「そうだけど、そんなに嫌そうにしなくてもいいじゃない。お弁当、美味しくなかった?」
「いや違くて。そもそも味わってる余裕なかったし……」
律があまりにも悲しそうな顔をするので、ヒヤリとする。
「そ、それは…………、ごめん。でも、今日は大丈夫だから。美月も呼んであるし、私もちゃんと正気だから!」
「そうやって強調されると、逆に怖いんだけど」
とは言え、今日の律の雰囲気からはあまり危険を感じない。ここは、ありがたくご相伴に預かるのが良いだろうか。
「どうしたの、三澄。やっぱり嫌?」
「嫌なわけない」
即座に否定した。独りでに首をもたげてくる、暗い感情を気取られぬように。
「見た目も良さそうだったし、詩織さんに手伝ってもらったんだっけ? だったら不味いってこともないだろうし。昼も購買で済ますだけだったから、ありがたいよ」
「ならいいけど」
そうは言ったが、律は納得していなさそう。言い訳を並べ立てるみたくなった三澄の物言いが原因というよりは、単純に感情の問題、だと思いたい。
それから、階段付近で律と別れた三澄は二年八組の教室に到着した。
クラス替えから三か月で、もはや見慣れてしまった面々に囲まれ、ホームルーム、授業と平常通りの時間が過ぎていく。
そんな中、なぜだか、今日は久しぶりに真面目になってみるのもいいかもしれない、なんて気が起こった。
いつもなら適当に聞き流すだけの教師の話に耳を傾け、いつもなら板書を丸々書き写すだけのノートに要点と感じた部分を書き足していく。
勉強とは積み重ね。積み重ねていない三澄に完全理解できるわけもないし、まして要点の抽出なんて不可能に近い。だから、すぐに行き詰まり手を止めてしまう、はずだったのに、気付けば先生が開いていた教科書を閉じるまで、三澄の集中力は持続した。
それでも、疲労は来た。昼休みになる頃には、頭の奥がじんわりと熱を持ったような感覚があった。
「三澄ぃ、お昼、りっちゃんに呼ばれてるんでしょー? 早く行こうよー」
だらだらとそんなことを言いながら、美月が近づいてくる。
「もう私、さっきからお腹鳴っちゃってさー」
「おならじゃなくてか」
「ちょっ、はあ⁉ 何てこと言うの⁉ そんなわけないから! 風評被害! 三澄のバカ!」
「いや、ごめんて。冗談だから、落ち着け落ち着け」
普段のツッコミと違う猛烈な返しに圧倒される。思いついたことを脊髄反射的に口にしたわけだが、彼女にとってはクリティカルだったらしい。
「ほんっと、もう。いくら私だからって、言っていいことと悪いことがあるよ、もう」
矛を収めてくれはしたが、未だ美月はプリプリ(別におならとかけたわけではない)としている。
「いや、ほんと悪かった。デリカシーなかったよ。昼のおかず一つで勘弁してくれ」
彼氏の家でおならを我慢しすぎて体調を崩すタイプか、なんて内心ニヤつきながら、三澄は机の上を片付け始める。
と、仏頂面の美月がおもむろにノートを手に取り、パラパラとめくり出した。程なくして、とあるページで手が止まる。
「……んん? もしかして三澄、真面目に勉強してたの?」
「まぁな。今日はちょっと気が乗った」
「ふーん、珍しいこともあるもんだね」
「まぁ、もう多分続かないだろうけどな」
「なんだ、三日坊主ですらないじゃん。ハゲじゃん」
「ハゲは意味分かんねーよ」
その後、片付けを終えた三澄は、財布とスマホだけ持って美月と教室を出た。
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