第25話 昔みたいに
「おせぇ……」
椅子にだらりと腰掛けながら、天井に向かって三澄が呟く。
あれから、既に二時間ほどが経過していた。汗が完全に引き、着替えも済ませた三澄だったが、身体のベタベタ感は拭えず、できるならもう風呂に入ってしまいたい思いだった。
「あの、今日はもう来られないんじゃないですか?」
対面に座る若菜が言う。彼女には、今日、ちょっと面倒な来客があるとだけ、かなりぼかして伝えてある。
「そんなはずは……ないと思うんだけどなあ」
美月に連絡をしてみたが、音沙汰無し。今もまだ時間稼ぎをしてくれているとは思えないが、スマホが繋がらない以上、確認しようがない。
「その……面倒だからって、逃げるのは流石にマズかったんじゃないですか? 更に話がこじれるか、最悪の場合……」
「ぐ……」
実際、それは一理どころか百理も二百理もあるような話である。だが、あの瞬間の選択肢は限られていた。何を選んでも、結局何かしらの不都合に見舞われていただろう。逃亡が最善だったかどうかは疑問だが……。
もし、今日、律が来なかったら。考えたくはないが、見限られたということなのかもしれない。
だけど今は若菜が最優先だ。律には、若菜と違って三澄以外にもたくさんの頼れる人がいるのだから。
「悪い、あと三十分だけ頼む。それだけ待って律が来なかったら、その時は出前でも頼んで美味しいもの食べよう。腹、減ったよな?」
「いいんですか、出前なんて。結構値が張りそうですけど」
「月一くらいなら、まあ大丈夫だよ」
「……そうですか」
出前なんて、いつぶりだろうか。少なくとも一年は記憶にない。若菜の料理も十分美味しいが、久しぶりにジャンクな物を食べるのも悪くないだろう。
三澄はスマホでインターネットに接続し、最近流行りの宅配サービスを検索する。
「若菜は何食べたい? ほら、ラーメンとかできるっぽいぞ」
「え、ラーメンですか? 汁物なのに大丈夫なんですか?」
「分かんないけど、できるんじゃね」
そんな風に今晩の夕食を話し合っていると、インターホンが鳴った。
思わず若菜と顔を見合わせる。
「ひとまず、そのままで」
若菜にそう声をかけ、椅子から立ち上がった。インターホン画面には、私服を着た黒髪の少女の姿が映っている。
「律だ。さっき話した通り、律が帰るまで和室の押し入れに隠れておいてくれ」
今までまともに掃除もしてこなかった押し入れに押し込めるのは申し訳ないが、他に隠れるとしたら床下くらい。我慢してもらうしかない。
若菜が頷き、席を立つ。そのまま和室へと歩いていく背中を軽く見送り、三澄は玄関に向かう。
足が重い。正直、逃げてしまいたいという気持ちはある。
だが、この機を逃せば、もう二度と彼女と顔を合わせることはなくなるかもしれない。そう思えば、自然と足は動いた。
土間に下り、サンダルを突っかけて、取っ手を握る手にゆっくりと力を入れていく。できた隙間から漏れてくる熱気が、腕から顔から、最後には全身にまでまとわりついてくる。
そんな夏特有の不快感も、次の瞬間には吹き飛んでいた。
「三澄」
「……ぇ?」
笑って、る……?
控えめに手を振る仕草も、久しぶりで照れがあるのか多少ぎこちなさはあるものの、昨日や今日の学校での荒涼とした印象はない。白のノースリーブシャツに黄色の膝丈スカートと、どこぞの雑誌モデルが仕事途中で抜けてきたみたいな恰好も相まって、急に辺りが涼しくなったように錯覚したほど。
手に提げているのが、食材の詰まったビニール袋じゃなければ完璧だったろう。
「……三澄?」
「――っ。いや、悪い。とりあえず中入ってくれ」
訝しげに顔を覗き込んでくる律へ、扉を大きく開いてそう促した。
「うん。…………?」
軽く首を傾げながらも、律は扉をくぐるべく目の前を通り過ぎる。その瞬間、どこか清涼感のある香りが鼻腔をくすぐった。
これはシャンプーだろうか。見れば、律の長い髪が微妙に湿り気を帯びている気がする。どうやら買い物した挙句、風呂にまで入って来たらしい。
――なんなの。若菜といい、女心は本当に秋の空なの?
それとも、美月が何かフォローを入れておいてくれたのだろうか。あのキレ具合をここまで鎮められるフォローとは。全く想像できないが……。
三澄は困惑しながら、玄関を上がった律の後に続いた。
キッチンまで来ると、律はビニール袋を足元に置いて、冷蔵庫の扉へと手を伸ばした。
三澄がぎょっとする。冷蔵庫は盲点だった。若菜の痕跡、特に増えた調味料が残ったままだ。
「うわ、ホントに空っぽなんだ」
「……空っぽ?」
律の後ろから中を覗いてみる。当然、空ではない。増えた調味料はちゃんとある。
「美月から聞いたのよ。三澄んちの冷蔵庫、物がなさすぎてヤバかったって」
「……今日、買い物行くつもりだったんだよ」
言われて気付いた。律のこの家での記憶は、喧嘩する前、夏休み初頭で止まっているのだ。だからきっと、律にとっての比較対象は、美月からの伝聞情報のみなのだろう。
それからも律は冷蔵庫やその周りを物色しながら、「うわ、冷凍食品ばっか」とか、「こっちはレトルトとかインスタント麺ばっか。ちゃんと野菜食べてるの」とか好き勝手言ってくれるので、
「男の一人暮らしなんか大体こんなもんなんだよ」
と返したら、「ちゃんと栄養あるもの食べないと駄目よ」と言いながら、どこか嬉しそうにしていた。
「三澄、晩御飯まだよね? 久しぶりに一緒に作らない?」
そんな少し不安げな問いから始まったカレー作りは、難航の一途をたどっていた。
理由は簡単。律が足を引っ張るからである。
じゃがいもの芽を取り忘れる、野菜の皮の剥き忘れる、ボーっとしていて指を切る等々、目を離すとすぐに何かをやらかすので、その度に心臓が止まりそうになる。もう今日は、絶対に律に包丁は持たせない。
「律……、お前、前より下手になってないか?」
そう呆れながらも、三澄はにんじんを適当な形に切る。煮込み時間短縮のため、小さめだ。
「ち、違うのよっ! ちょっと久しぶりだから忘れてるだけっ!」
隣から、エプロンを付けた律が声を上げる。言い訳とかどうでもいいから、フライパンから目を離さないで欲しい。
「ま、百歩譲って忘れていたとして、その指の絆創膏はどうしたよ」
「……ミスは誰にだってあるわ」
「それはそうだな」
律が目を逸らしていなければ、前向きな発言と捉えることもできただろう。
「何よ、はっきり言いなさいよ」
律が口を尖らせる。
「いや、料理するなんて言うから、てっきり上達したもんかと思って、楽しみにしてたんだけどな?」
「ぅぐ……。ち、違う、違うのよ、ホントに。今日は調子が悪いだけなのよ……」
どんどん尻すぼみになっていく。明らかに苦し紛れだと自覚している発言だった。
――嫌味はこれくらいにしておくか。
三澄としても、別に責めているわけではない。反省して、怪我をしないよう気を付けてくれさえすればいいのだ。
三澄は空気を切り替えるように、一度、息を吐く。
「ま、別に料理ができないくらい、いいんじゃないか。多少弱点があった方がとっつきやすいってこともあんだろ。出来過ぎる人間ってのは、出来ない人間にとってはいつまでも目の上のたんこぶだからな」
三澄だって出来ない側。出来る人間の輝きを見ていると、心まで焼かれそうになる。十年近い付き合いがなければ、きっと三澄も同じく敬遠しただろう。
「……別に私は出来過ぎてなんかないわよ」
苦虫を噛み潰したような顔だ。
「ストイックな奴だな、中間テスト学年五位のくせに。もうちょっと調子に乗っとけよ」
その調子でいけば、日本一の大学に入ることも十分可能。日本人口比一パーセントにも満たない、ある種の選ばれた人間たちの仲間になれるのだ。多少気が大きくなっても罰は当たらないだろう。
「調子になんか乗れないし。そもそも何で知ってるのよ」
「小うるさいスパイがいてな」
美月である。
「あの子、何か変な事言ってないでしょうね」
「そっちこそ、あいつからなんか変な事聞いてないだろうな?」
「「……」」
睨み合い。相手が次にどんな発言をするのか、探るべく交わされる目だけの戦いだ。それはほんの数秒の出来事でありながら、幾多の駆け引きが――
「最近またちょっと太った」「子ども向け映画を見て号泣した」
三澄が言い、律が続いた直後、二人の間に共通の認識が生まれる。
「「よし、あいつそろそろシメよう……!」」
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