第23話 嵐の前の静けさ

 その日のバイトが終わり、帰宅すると、昨日まではあった出迎えがない。

 別に出迎えの必要性は皆無なのだが、今まであったものがなくなるとどうしても寂しく感じてしまう。

 加えて、昨晩のこともある。今朝は拍子抜けしたが、それはたまたま、三澄の知らぬ諸要素が組み合わさった結果の奇跡だったと言われた方が、しっくりくるのだ。

 故に、いつもと違うというのは、それだけで不安を掻き立てられる。

 そして、そういう直感的なものは、得てして当たってしまうものなのだ。


「ただいまー…………?」


 リビングに足を踏み入れる。違和感はすぐにあった。

 誰もいない。

 明かりは付いている。台所周辺も綺麗に片付いていて、若菜がせっせと働く姿が目に浮かんだ。

 だけど、どこにもいない。

 洗面所にも、二階の彼女の部屋にも、サンルームにも、トイレにも。

 ……まさか。

 ぞわりと寒気が競り上がってくる。

 若菜単身での外出の禁止。

 これを守れなかった場合、若菜には処罰が下る。


「若菜! どこだ!」


 意識せず、駆け足になる。鞄はとうに投げ捨てた。

 あと探していないのは、リビング奥の和室だけ。布団が収納された押し入れ以外には何もない簡素な客間だ。三澄はもとより、若菜にだって用のない場所である。つまり、そこにいる可能性は限りなく低い。

 ソファを素通りし、閉め切られた襖を開けようと手を伸ばしかけた、その時。


「……ん?」


 数瞬前、視界の端に何かを捉えた気がした。

 振り返ったその先、ソファの上には、すーすーと寝息を立てて横になっている少女の姿が……。


「なんだよ……」


 全身を襲う脱力感に、三澄はその場にへたり込んだ。大きく息を吐き、うなだれる。

 たっぷり三十秒ほど時間を使ってようやく、立ち上がる気力が溜まった。今も眠る若菜のもとへ。

 捲れたスウェットの裾から、小さなヘソが覗いている。それをさっと直してやり、一旦、長考。

 わざわざ起こす必要はないだろう。だが、寝るならベッドだ。ソファでは些か寝心地が悪い。

 と言うことで、彼女の部屋まで運ぶことにした。腕を挿し込み、横抱きにして身体を持ち上げる。だらりとなる頭を左肩で支えるようにして、歩き出した。

 リビングを出て、階段を、振動が伝わらないようゆっくり上がる。


「…………ん…………あれ……?」


 だが、そんな努力虚しく、若菜の瞼が開いた。


「……わり、起こしちゃったか」


 三澄が謝るが、若菜からはっきりとした反応は返ってこない。未だ夢うつつなのか、若菜が目をぱちくりしたり擦ったり。

 なんとも愛らしい姿だ。妹か、流石に適齢ではないが娘がいれば、こういうのが日常になるのだろうかと三澄は思った。


「…………うぇ?」


 目が合った。


「眠かったら寝てていいぞ。このまま部屋まで運んでやるから」

「い、いやっ、ちょっと待って! 一回っ、一回下ろしてください!」

「お、おう……」


 あまりの剣幕に、階段を上っている途中ではあったものの、三澄は言われた通り若菜を腕から下ろす。

 もしかしたら、物理的な急接近にびっくりさせてしまったのかもしれない。三澄が立つ段の一つ上に着地した若菜は、精神を落ち着けるためなのか、しきりに服を弄っている。

 三十秒ほどそうしていただろうか、それなりに状況を飲み込めたのか一つ息を吐いた後、若菜がいつもの調子で口を開く。


「あの、今、何時ですか?」

「ん? んー、十一時前ってところだと思うけど」


 三澄が帰宅したのが十時半ごろだったろうから、先程までの大捜索の体感的所要時間を足せば、大体このくらい。


「夕ご飯は食べられました?」

「食べてない、けど……、いいぞ? 自分で用意できるし」

「それは……やっぱり駄目です。今すぐ用意するので待っててください」


 若菜が階段を下りていこうとする。


「いやいや待った待った。何作るつもり?」


 これからちゃんとしたものを作ろうとしたら、日を跨ぐことになりかねない。


「…………冷蔵庫を見てから考えます」


 当てがないのは明らかであった。


「そういえば、そもそも、もうあんま食材残ってないんじゃないか?」


 買い物は、土曜日に行ったきりである。日々の消費ペースから考えて、火曜である今日ともなれば、尽きていてもおかしくはない。


「……そうかもしれません」


――この反応は多分、本当にカツカツなんだろうな。


 食事を作ってくれている若菜が気付いていないはずはない。

 やっぱり、どうしようもない距離があるのだろう。食糧事情なんて必要最低限の話題すら向こうから振ってきてくれないのは、もはや遠慮などというレベルではない。

 ひとまず、明日は買い物に行こう。若菜が来る以前から、水曜日は空けるようにしているのだ。バイトの調整をするのは、明日以降考えていけばいい。


「ま、なんかパスタでも茹でて食うよ。出来合いのソース掛けてさ。ああ、若菜も夕飯まだだよな? どうする。もう寝る?」

「……」


 返事がない。どうやら迷っているようだ。食欲VS睡眠欲と言ったところだろうか。激しい戦いになりそうだ。

 しかしながらその戦いは、不意打ちのきゅるぅという可愛らしい音によって終わりを迎えた。すかさず手で押さえる若菜だが、手遅れ。


「はは、いい返事だったな」

「う……」


 若菜が恥ずかしそうに顔を伏せた。ちょっと意地の悪い物言いだったかなとは思いつつも、三澄は笑みを隠し切れない。

 それから、二人でリビングに戻り、冷蔵庫を覗いてみる。案の定、買い込んだ食材たちは粗方姿を消していた。残っていたのは、冷凍食品たちを除けばベーコンやウインナー等の加工肉と、キャベツが少々だ。明日の朝のためにも、今夜は残してのがベストだろうか。


「じゃ、若菜はソースをレンジで温めてくれるか。ソースはそこに入ってるから」


 キッチン右端の足元の収納を指差して、三澄は底の深い鍋の用意を始める。


「分かりました」

「あー、分かってると思うけど、表示ちゃんと確認しとけよ。特にニンニク、ハーフでもやっぱ避けられるなら避けるのが無難だろうし」

「はい」


 彼女の体の事情は彼女が一番よく分かっているのだろうが、つい口出ししてしまう。鬱陶しく思ってないといいんだけど……。


「どの味にしますか?」


 収納を覗きながら若菜が尋ねてくる。


「味は任せる。二袋分用意してくれ」

「二袋? 一つで二人分ってなってますけど……」

「具が少ないから、足んなくてな」


 そう返しながら鍋に水を張り、火に掛ける。塩は入れない。こんな料理とも言えないようなものに使うのは勿体ないし、何より塩の有無の差が分かるほど舌が肥えていない。

 そして、暇になった。

 背後では若菜が、ボウル皿に入れたソースを電子レンジにセットし、加熱を開始。


「私、付け合わせ作りますね」


 若菜はそう言うと、勝手知ったると言った風に食材や器具を用意して、作業を始めた。


――ま、いいか。


 一瞬、明日の朝が心配になったが、フルグラが残っていたのを思い出した。昼は冷凍食品だろうし、問題はないだろう。


「にしても、ソファで居眠りだなんて。朝、眠れなかったって言ってたけど、それが原因か?」


 暇すぎて、つい口をついた。朝よりは若菜の雰囲気も柔らかいし、聞いても大丈夫……だよね?

 しかし、尋ねた直後、若菜の包丁を操る手が止まった。


「……はい、そうです」


 若菜は小さくそれだけ言って、作業を再開した。

 今の間は、明らかに聞いてはいけないことを聞いた時のそれだ。

 さて、分からない。律との件が再燃しそうな今、若菜との確執の解消は急務だが、何を言っても藪蛇になる気がする。

 もはや、美月を恨むしかない。三澄はポケットに入ったままだったスマホを手にし、パスタが出来上がるまで延々と、呪詛染みた文言の羅列を入力することに注力した。こういう時のため、と言うわけではないが、誰にも教えたことのないフリーのアドレスがある。

 美月の怯える姿が楽しみだった。


 翌朝、登校直後、半泣きの美月にぶん殴られたのは言うまでもない。

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