第19話 下手くそ、甲斐性なし、役立たず

 夕食を終える頃には、三澄は右頬やこめかみの痛みを完全に思い出していた。

 これが若菜の身に降りかからなくて本当に良かった。

 三澄は、いつも怒りきれない自分の性格に感謝をして、空の皿を台所へ持っていく。

 遅れて、若菜もキッチンに。流れるような所作で皿洗いを始めようとする彼女を、三澄が制止する。


「ちょっと話がある」


 それから、三澄は一旦自室にスマホを取りに行ってから、若菜とソファに一人分の間隔を空けて座った。

 少しの間、唇を引き結ぶ。これからする話のために心を定めて、口火を切った。


「なあ。お前は自分の両親のこと、どう思ってるんだ?」

「…………それは」


 若菜は一瞬だけ目を見張ると、そう言って目を泳がせ、俯いて黙ってしまった。

 苦しい。自分でも呼吸が浅くなっているのがよく分かる。

 まるで心臓が万力でゆっくりと潰されているかのようだ。

 それでも、話をしないといけない。

 彼女のもういない両親について、ほじくり返すとしても、もうしばらく時間を置いてからにしようと三澄は考えていた。

 こんな非常にデリケートな問題に、まだまだ赤の他人である三澄が干渉して良い道理はないだろうから。

 だがきっと、それでは駄目なのだ。

 聞かずに、このまま一緒に暮らしていくことは出来ない。曖昧なままにしておけば、必ず破綻する。そんな予感が三澄にはあった。


「もしかして、恨んでるのか?」


 初めて会った時の様子も含め総合してみると、少なくとも彼女が自分の両親に対し良い感情を持っていないのだけは、簡単に予想できる。

 世の中には、親と仲の悪い子どもなんていくらでもいる。

 反抗期然り、性格の不一致然り。親子だってお互い人間だ。好き合えることもあれば、逆に嫌い合うことだってあるだろう。

 だが、若菜からは、そういう普通とは一線を画す、致命的な隔たりのようなものがあると思えて仕方がない。

 それこそ恨みや憎しみのような、黒くて重い、殺意へと届き得る感情が。


「正直に答えて欲しい。嫌かもしれないけど、答えてもらえるまで、何度でもこの質問は続くからな」


 何とも間抜けさの滲み出る脅し文句だ。単純明快ゴリ押し作戦。しかしながら、三澄にできるのはこのくらい。吸血種としての真価を取り戻したならいざ知らず、今の彼女に持久戦で負けることはないだろう。

 あとは早いとこ折れてくれるのを願うばかりだ。

 しかし、若菜は顔を伏せたまま、


「…………分かりません」


 弱音を吐くみたいにそうポツリと呟いた。


「は? 分からないって、なんでだ」


 恨みや憎しみみたいな強い感情に気付かないなんてことがあるのか。


「それも、分かりません」

「……」


 はぐらかされているのか。そう持久戦を覚悟しかけたところで、別の可能性が浮かび上がる。

 心の発達不全。すなわち彼女の言葉が本当で、ただ、ちゃんと感じ取れていなかっただけであるという可能性。十五歳にしてそうであると言うのなら、その過去はおそらく常道を外れた悲惨なもの。

 有り得ないとは言い切れない。

 彼女の生い立ちは、詳細は知らないが、どう考えても常道から外れていると判断できるものだ。


「分からないなりに、さ、言葉にできることとかって……あったりしないのか?」


 怖々と聞く。これでもし、はぐらかそうとせず、必死に言葉を探すような素振りを見せられれば、可能性は高くなってくる。

 嘘を言って欲しい。考えすぎだと思わせて欲しい。


「少なくとも恨んではいないと思います。恨んでも意味のないことなので」

「意味ないって……」


 そう言って割り切れるなら、それは恨みではなく、そもそも感情ですらないだろう。

 すなわち、彼女はやはり……。


「でも、意味ないじゃないですか。生まれる前からやり直せるわけがないですし、半分吸血鬼である事実も変えられない。恨んだって、疲れるだけですよ」

「……そういうこと、か」


 少し安心した。今の彼女の言葉は、かつて恨んでいた者のものだ。

 強い感情を抱くには、それだけエネルギーが必要になる。まして維持となれば、その量は膨大。息切れしてしまうのは、仕方のないことなのかもしれない。

 だが、自分を生み、育ててくれた親を恨むということの不幸さは、三澄に表せるものではない。


「ほんとにもう、疲れました」


 溜息混じりに肩を落とした。


「どうして私を助けたんですか? 別に放っておいてくれてよかったのに」


 非難の色を孕んだ声音だが、力がない。


「何で私に優しくするんですか? 私に油断をさせて、どうするつもりなんですか? 体が目当てなら、こんな面倒なことしなくてもいいんですよ?」

「……馬鹿言ってんな。お前の体になんか興味ねぇよ」


 三澄のきっぱりとした物言いに、若菜は「そ、そうですか」と狼狽える。

 イライラさせないで欲しい。自分のことを粗雑に扱う点が、本当に目に余る。ただでさえ彼女の心情を計りかねているというのに、自分の感情にまで振り回され始めたら、収拾がつかなくなる。

 とは言え、彼女の本音らしき言を聞けたのは幸いでもあった。


「俺がお前を助けたのは、別に何かして欲しいとかそういうんじゃないんだ。ただ……」


 以降、言葉が続かない。自分が一体何を言おうとしていたのか、既によく分からなくなっていた。

 若菜に「ただ?」と怪訝な目を向けられても、それは変わらない。


「いや、だから、家事とかそういう諸々、無理すんなって話なんだ」


 自分でもこれは無理があると思った。明らかに質問の答えになっていない。

 若菜が押し黙り、また俯いてしまった。三澄としても、これ以上虚言を吐くわけにはいかず、口を噤む。

 これではダメだ。正直に話せと言った三澄自身が、疑念を生み出す元凶になっている。

 はっきりさせないといけない。若菜を安心させられるよう、覚悟を示す必要がある。

 三澄は沈黙を破壊すべく、居住まいを正した。


「…………え?」


 若菜が驚いたように顔を上げる。


「今はまだ不安かもしれない。こんなこと言ったって信じてもらえないとは思う。だけど必ず、例え一生を懸けてでも、俺が若菜を幸せにしてみせる。だから待っていて欲しい」


 若菜の不幸は、生まれた瞬間から始まっている。この世界において、吸血種に人並みの幸せは望めない。

 親を選べたら。

 彼女は自分を生んだ両親を恨み、運命を呪った。

 解放されたければ、あとはもう死ぬしかない。でも、死ねない。だから心を砕いた。疲れた、なんて覆い隠して。

 あまりにも理不尽な話だ。生きている限り、不幸であり続けるなんて。

 だから幸せにする。この世界から守りながら、人並み、いや、それ以上の幸せに限りなく近づける。

 これまでの不幸が全て、この幸せのための布石だったのだと笑えるように。

 いつか、自分の両親のことを愛せるように。


「……」


 若菜は唖然としていた。無理もない。ぶっ飛んだことを言っているのは分かっている。

 だけどこちらは本気だ。


「俺にお前を幸せにさせてくれ」


 続けざまの三澄の熱意に、若菜の瞳が揺れた。


「い、意味が分からないです。何なんですか、そんなのまるで……」


 絞り出すように、若菜が声を発した。少し怯えているようにも見える。

 熱くなりすぎているかもしれない。でも、嘘じゃないと伝えたい。


「若菜は、自分の名前の由来って考えたことあるか?」

「……え? 名前の由来、ですか?」


 三澄の突然の問いに、面食らう若菜。


「これは、ただの予想なんだけどな」


 そう、これはただの予想。そして願望が反映されたものでもあり、賭けでもあった。


「まずは名字。名字なんだから、若菜の両親だって陽ノ本を名乗っていたんだよな?」

「それは、はい。偽名ですけど」

「うん、そうだろうな。でも、だからこそ、その名字には意味がある」


 名字は基本的に、代々受け継がれるもの。だからそこに意味を持たせられるのは、最初にそれを名乗った者のみ。


「陽ノ本、もしくは陽ノ下。つまり、若菜の両親は、自分たちの弱点である太陽に憧れていたんだと思う」


 細かいところまでは分からない。だが、かなり的を射ているように思う。

 吸血種にとって、太陽の下で暮らすことはきっと、幸せの象徴なのだ。

 だから、克服したいつかを夢想し、自らの名に刻んだ。初志貫徹。あまりに難題だからこそ、忘れたり、諦めたりしないよう、彼らは誓いを立てたのだ。


「そして若菜。日の光を浴びて、青々とした葉を広げる。そしていつか、花を咲かせるんだ。綺麗で、いい名前だよな」

「……」


 俯いた当の本人から、同意の声はない。構わず続ける。


「こんな名前を付けてくれたんだ。若菜は、ちゃんと愛されていた。幸せになって欲しい、絶対に幸せにするって、お父さんもお母さんも思っていたはずだ。――薄々は気付いてたんじゃないか? そこまで難しい漢字でもないし」


 若菜のかつての暮らしぶりがどうだったかについて、三澄はほとんど何も知らない。名付けた当初あった愛情も、時が経ち、失われていたかもしれない。

 だから博打。裏目に出れば、彼女とのこの微妙でフワフワとした関係は、悪い方向に確定的なものとなる。


「………………言うんですか」

「……え?」


 声が小さくてよく聞き取れなかったが、どこか不穏なものを感じた。肩が震えている?

 三澄が様子を窺おうと、若菜の顔を覗き込もうとした瞬間だった。


「愛されていたから何だって言うんですか!」


 若菜は溜め込んだものを爆発させるように、目をひん剥いて声を張り上げた。

 がつんとハンマーで殴られたような衝撃だった。己の大切な何かの崩れていく音が、頭の中でごわんごわんと反響している。


「あなたの言っていることは、いつもいつも分からない!」


 続けて、涙交じりにそう叫ぶと、おもむろに立ち上がり、床を踏み鳴らしてリビングを出ていってしまった。


「……」


 残された三澄にできたことは、開けっ放しのドアの奥、壁によってできた黒い影を眺めていることだけだった。

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