第168話 出たぁあああああ!

 刺繍の美しいドレスを泥だらけにして、森を抜けた。糸を途中で木々に引っ掛けてしまい、服はボロボロだ。まるで強盗から逃げてきたみたい。途方に暮れたが、実家に帰らないと言う選択肢はなかった。


 着替えたいし、お風呂も入りたい。愛用のブラシは王宮に置いてきたが、嫁ぐ前まで使っていたブラシで身嗜みも整えたかった。いわゆる毛繕いだ。これは獣人にとって欠かせない日課だった。


「お義兄様なら私がわかるわ」


 王女を伯母に持つ王妃ブリュンヒルデは、アンヌンツィアータ公爵家の分家である侯爵家の娘だ。現国王ノアールの一目惚れで、公爵家の養女となって嫁いだ。そのため公爵家当主は従兄弟であり、同時に義兄でもあった。


 見窄らしい姿になったけれど、気づいてくれる。そう信じてブリュンヒルデは扉を叩く。玄関のドアが開いて、執事が目を見開いた。


「で、出たぁああああ……っ」


 叫ぶなり老執事は倒れてしまう。咄嗟に手を掴んで、後頭部を打たないよう気遣った。お年寄りは大切に、年長者は敬うもの。それが執事や侍女でも同じだ。横たえた執事の叫び声に飛び出した侍女は、声も出さずに卒倒した。


 窓の外を見れば王宮方面で火の手が上がっている。まさかとは思うけれど、お義兄様かヴィルヘルミーナあたりが特攻したのでは?


 こうしてはいられないわ。すぐに風呂に入って着替え、身嗜みを整えて王宮に戻らなくては! そこまで急いでいても、このまま取って返す気になれない。木造の高い塔に、高所恐怖症の妻を閉じ込める夫に対しての意趣返しが混じっていた。


 侍女は膝から崩れ落ちたので、幸いにして身体にケガはなさそう。さっと確認して、ブリュンヒルデは自室だった西の突き当たりの部屋へ向かった。だが途中で執務室を見つけ、そっと開く。


「お義兄様、いらっしゃるの?」


「ん……ブリュ、ヒルデ?! え? 死んだって……」


 なんということ。夫ノアールは、実家にまで嘘をばら撒いたのね? だとしたら国民もそう信じているのかしら。困ったことになった。もういっそ離縁して、実家で暮す……いえ、カサンドラお姉様のところに住むのもいいわね。相談してみましょう。


 ブリュンヒルデが夢を広げる間に、死んだ義妹がゾンビになったと泣き出す公爵。慌てて生きているのだと言い聞かせ、手を握って温もりを確かめさせる。ゾンビは動く死体で腐っているから、温もりはない。ようやく生存確認してもらえたことで、まず最初の要求をひとつ。


「お義兄様、私お願いがありますの」


「なんだ? ちょうどヴィルヘルミーナが王宮にいる。王を殺させるか? いっそ皮を剥いで城門に晒してやろうか」


「物騒なことをおっしゃらないで。やるときは自分で殺りますわ」


 ブリュンヒルデがにっこり笑ったら、公爵の表情が引き攣った。


「私、身嗜みを整えたいの。お風呂の用意をしてくださる? あと着替えも。それから玄関に執事のアーサーと若い侍女が卒倒しているから救助もよろしくね」

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