第66話 死にたくなければ動け
「アゼリア」
名を呼ばれた直後、飛び起きた彼に抱きつかれた。はしたないと思いながら、婚約者だから許されると自分に言い聞かせ、彼の背に手を回す。ぎゅっと強く抱いたイヴリースから若いハーブの匂いがした。すっきりした香りを、目をとじて吸い込む。
どん! 激しい衝撃音がして、あちこちで何かが壊れる音がした。木々を爆風が押し倒し、動物達が逃げ惑う。意味が分からなくて、ただ怖くてしがみ付いた。
「もう大丈夫だ。そなたは余が守るゆえ」
とんとんと落ち着かせるように背を叩くイヴリースの声に目を開くと、景色は一変していた。
美しい絵画のような平和でのどかな風景はなく、緑の草原は黒く焼け焦げ木々は悲鳴を上げて燃える。生きたまま焼かれる木々と、動物達の感情が一気に押し寄せた。
なぜ? くるしい、なにを。やめて、こわい。こないで……ひがあつい。
言葉より鮮明に押し寄せる大量の感情を処理できず、アゼリアは頭を抱え込んだ。感受性の強い獣人は、他者の痛みに敏感だ。通常は押さえ込んでいる鋭敏な感覚能力が、今は解放されていた。
目を見開いて涙を流す婚約者の、苦痛を和らげるために結界を張る。すでに第三形態まで見せているイヴリースに躊躇いは少なかった。魔力を解放する第二形態で翼を使って彼女を抱き込む。
「我が君!」
「っ! 貴様、我が娘になにを」
転移したメフィストと、無理やり同行したアウグストの声が聞こえた。抱き込んだ婚約者の温もりを名残惜しく思いながら、父親であるアウグストへ渡す。引き留めるアゼリアの指は、なかなか解けなかった。
「侵入者だ、余が排除する。アウグスト殿、我が愛しのアゼリアを預ける。カサンドラ殿の助けが必要だ」
端的に最低限の要件を告げて、イヴリースは牙を見せつけるように口元を歪めた。苛立ちと怒りが彼の身を貫く。
どのような理由があれ、愛しの番を怯えさせ、魔王に喧嘩を売ったのだ。千々に裂いてばら撒いてくれる。ばさりと翼をはためかせ浮いたイヴリースの黒瞳が、森の方角を見据えた。敵の位置を探るまでもなく、強い魔力反応が出ている。
「先に行くぞ、メフィスト」
「お待ちください、ゴエティアを……」
誰かを呼んで同行させなくては……と叫ぶ間に、イヴリースの姿は消えた。遅れて衝撃波が大気を揺らす。がくりと肩を落としたメフィストは、主君の後始末を始めた。
「何が……?」
「閣下には、いくつか命令を出していただきます。まず砦にいる騎士や兵士をすべて屋敷に下がらせてください。それから民も屋敷より後ろで保護すること。屋敷の前に陛下が結界を張っていますので、それより後ろに下がってください」
「だが」
「死なせたくなければ動けっ!」
口調も声量も豹変したメフィストの叱咤に、ようやくアウグストの頭が動き出した。まず民を逃して守り、戦力を後ろに引かせて防衛ラインを引く。娘は妻に預けるしかあるまい。陣頭指揮を執る息子に合流する必要があった。
やることが見えて覚悟が決まると、アウグストの表情が引き締まる。震える娘を抱き寄せる父を、屋敷へ転送したメフィストは肩を竦めた。
「さて、私も参りましょうか」
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