第65話 絵画を引き裂く無粋者
さらりと彼女の赤い髪が視界を染め、身を屈めたアゼリアの顔が近づく。小麦色に健康的に日焼けした肌は、人間の貴族令嬢として失格だろう。白い肌が淑女の証などと、下らぬことを吐く輩を一瞬だけ思い出した。
ユーグレース王国の残滓――今は牢の中の囚われ人に過ぎない。彼らの処分方法を考えて緩んだ唇に、柔らかな感触が重なった。目を見開いたイヴリースが気を逸らしたのを責めるように、触れるだけで離れた。
「いま……」
「知りませんっ」
すっと顔を逸らして空を見上げるが、膝枕のおかげで彼女の赤くなった耳や首筋が丸見えだった。なんと愛らしいことをするものか。これが余の宝であり、失えない魂の片割れだ。歓喜が身体を突き抜け、アゼリアの首筋に手を伸ばした。
「余を見てくれ、アゼリア……頼む」
こんな懇願めいた言葉を吐いた記憶はない。彼女の鮮やかな金色の瞳に映りたいと願ってしまった。彼女に頭を下げ、膝をつくのは屈辱ではない。ただ愛しい感情を刺激する存在に魅せられ、触れた首筋から頬へ指を滑らせた。
「もうっ! 意地悪な方ですこと」
叱る口調なのに、表情はくすくすと笑っていて、やっと黄金の瞳が魔王を映す。とろりと溶けて滴る蜂蜜色が、木漏れ日の反射でわずかに緑を宿した。神秘的なアゼリアが消えてしまうような気がして、身を起こしかけた。
「ダメです。もっとしっかり休んでください」
武術を嗜む彼女は、獣人ならではの怪力で押さえる。無理に跳ね除けるつもりはなく、大人しく力を抜いた。
「疲れているのでしょう? 隠しても知っています。だって昼間は私達に付き合ってくれるけど、夜に書類の整理をしていますもの。魔族は身体が丈夫だと知ってますが、無理は嫌です」
無理して時間を作っていると思われたのか。アゼリアと一緒にいる時間を少しでも取りたくて、魔国を放り出した王を……彼女は気遣う。自分勝手な欲望で動く獣を、まるで愛玩物のように飼い慣らした。
「無理はしない。余の名に懸けて誓おう」
「信じます」
わかりました、ではなく。承知した、でもない。ただ「信じる」と告げたアゼリアの強さと優しさに頬を緩める。女性なのに剣胼胝がある硬い手のひらが、目元を覆った。
「少し眠りませんか?」
「そうだな……休もうか」
僅かなやり取りに、互いへの気持ちが滲んだ。気遣うアゼリアと、それを素直に受け入れたいと願ったイヴリース――肩書きもない男女の間を、風は静かに横切った。木漏れ日がちらちらと視界の端をかすめ、温かな手のひらに誘われて目を閉じる。
誰も邪魔できない、絵画のような一瞬の積み重ねだった。
「っ!」
魔力の突然の高まりに、イブリースの本能が警告する。誰かが魔国から転移した。この領地に張った結界に干渉し、すぐ近くの森に現れるだろう。
番を傷つけ奪われる――混乱と恐怖がイヴリースを襲った。
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