第10話 魔王陛下に拐かされました
「あ、あなたが敵ならば攻撃しますわ」
あまりに整った顔は現実味がなくて、彼が声を発したことでようやく我に返った。アゼリアの強張った顔と緊張した様子に、男は数歩下がって一礼する、いわゆる臣下が主君に対する深い礼ではなく、もっと軽い会釈に近い挨拶だ。
洗練された仕草に、彼がそれなりの教育を受けた地位の高い存在だと気づかされた。馬の上から剣先を向けて良い相手ではない。ひとつ息をついて馬から飛び降りた。視線を合わせると、街道より低い草原に立つ彼と目線が平らだ。つまり男の方がアゼリアより身長が高い。
無礼を承知で剣の先を地面に向けたまま、それでも鞘に納めなかった。咎める言葉はない。口調は傲慢さが滲むのに、彼の表情に怒りや苛立ちはなかった。長い黒髪は草むらに隠れて毛先が見えない。風が吹いても彼の黒髪も衣の裾も影響されなかった。
出かける前に高い位置でポニーテールにした、アゼリアの赤い髪は風に揺れる。じっと見つめる先で、男は右手を顔の高さまで持ち上げ、パチンと鳴らした。
「え?」
「うそっ!」
父母の驚きの声と同時に、目の前が真っ暗になる。踏みしめる地面が消えたような、不安定な感覚に襲われて膝から崩れ落ちた。手にした剣の感触もなく、触れた地面らしきものは柔らかい。ぐらぐらと頭を揺すられるような不快感の直後、アゼリアは意識を手放した。
目元を押さえて崩れ落ちたアゼリアを、一瞬で距離を縮めた男が支える。草原に埋もれそうな娘の首ががくりと後ろに倒れ、額を汗で濡らした苦しそうな表情に息をのんだ。咄嗟にアウグストが剣を抜いて馬の背から飛び降りる。
「アゼリア嬢は余が預かる。連絡用にこれを置いていこう」
羽を広げた黒い鳥が舞い降りて、青年の肩に止まる。連絡役に使えと簡単そうに言われても、そうですかと娘を渡す親はいない。ようやく王族から取り戻した娘を奪還すべく、父は利き手に握った剣を低く構えた。
じりっと距離を詰めるアウグストの剣は、妻カサンドラを得るために竜の首を落とした逸品だった。光を弾く剣を引き寄せて、一息で男の足元まで跳ぶ。書類仕事で多少なまろうと、元は竜を倒した英雄だった。
そこらの騎士に劣る体捌きではない。
「おりゃあああ!」
容赦なく振り抜いた剣を、黒髪の青年は簡単そうに指先で止める。にやりと笑い、馬の上で絶句するカサンドラへ声をかけた。
「余は魔王城にいる、いつでも訪ねてくるがよい」
告げた青年はアゼリアを抱き寄せ、足元から吹き上がった黒い闇に吸い込まれて消えた。まるで白昼夢だったように、明るい日差しの下に彼の痕跡はない。
「あの方、魔王陛下よ」
滅多に姿を見せないことで有名な王族が自ら出てきたことに、カサンドラは驚いた。国境を接するルベウスの王女だった彼女も、初めて本物をみたのだ。
「もしかして、私の娘はとんでもない方を虜にしたかも知れないわよ?」
「あんな奴に、アゼリアは渡さん!」
取り返すと意気込み、アウグストは馬に飛び乗った。
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