挨拶

私は以前、看護師をしていました。

結婚を機に退職したのですが、在職中に不思議なことがありました。



その日は夜勤で17時からのシフトでした。

日勤者からの申し送りを受けた後、夕食の配膳や食事介助、食後の与薬やトイレ誘導など慌ただしく業務が始まりますが、夕食前後の時間帯を過ぎて20時に差し掛かると、業務が落ち着いてくるというのがうちの病棟の特徴でした。

その日は特にゆったりとした日で、20時前には患者対応がひと段落つき、書類業務や朝の準備に取り掛かることができました。

20時をまわった頃、ステーションで業務をしていると蛍光灯が短い時間ですが点滅しました。

そろそろ交換時期だから守衛さんに連絡しておこうと、その時思ったのを覚えています。

というのも、うちの病院の場合20時を過ぎると夜勤守衛が見回りを始め、各病棟やナースステーションを訪れるからです。

そのまま夜勤守衛から交替の管理の人に伝われば、明日の午前中には見に来てくれるだろうとあたりをつけました。

ところが、いつも見回りにくる時間帯になっても守衛さんは来ません。

そうこうしているうちにスタッフルームに忘れ物をしたことを思い出し、私は他の夜勤者に声をかけて一旦スタッフルームへ戻りました。

スタッフルームに置いた自分のカバンを開けて探し物をしていると



コンコンコン、とドアをノックする音が聞こえました。



あ、守衛さんだと思い「どうぞー」と声をかけましたが返事がありません。

あれ?と思ってドアを開けると誰もいません。

はて?と首をひねりながらカバンに戻ろうとすると、また



コンコンコンとノック。



「はーい?」とドアを開けると、やっぱり誰もいない。

おっかしいなぁと振り返ったときに、またもコンコンとノックの音。



「ちょっとだれー!?」と声をあげると

「あ、守衛ですけどもー」とドアの向こうから声が。



あわててドアを開けると、いつもの守衛さんが「お変わりありませんね?」と見回りに来ていました。

さっきのはなんだったんだろう?と考えてみたのですが、それ以降はノックもなかったので気のせいだと片付けて仕事に戻りました。

翌朝、夜勤を終えて申し送りを行なっているときでした。

出勤してきた日勤の看護師が耳打ちしてきました。


「聞いた? Tさん、ステったって」

「え、嘘?」


”ステった”とはドイツ語のsterben(ステルベン)を用いた略語で「死亡」という意味です。

残念さと悲しさが胸にこみ上げました。

Tさんは以前、うちの病棟に入院されていた患者様でした。

五ヶ月ほど前に入院され、Tさんの状態はやや不安定ではありましたが明るく前向きに闘病されていました。

しかし、一ヶ月程前に容体が急変し、転院されていきました。

Tさんは私を自分の孫のように気にかけてくださり、私もまた自分のおばあちゃんのように仲良くさせていただいた方だったので、本当に無念な想いでした。


「Tさん、いつ?」

「昨日の夜だって。20時くらいって聞いた」


それを聞いて思い出しました。

Tさんが亡くなったという20時頃は、入院中のTさんがスタッフルームに私を訪ねて来てくれた時間帯でもありました。

20時を過ぎると仕事が落ち着くことを知っていたTさんは、車椅子をこいでスタッフルームにいる私に、よく会いに来てくださいました。

「はい、内緒で差し入れ。頑張ってね」と、果物やお菓子を私に渡すと、いつも労いの言葉をかけてくれたのです。


昨晩も、入院中に私を気にかけてくれたように、最期のご挨拶に来てくださったのだと思って心のなかで手を合わせました。


思い返してみると、ノックをされてドアを開けたときに、かすかにお線香の香りがしたのが印象的でした。



あれは、もしかするとTさんが眠っている場所の香りだったのかもしれません。


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