194●この国が良くなる気がしないのは、なぜだろう?⑨『エヴァ』が導く、“親殺しの方程式”。
194●この国が良くなる気がしないのは、なぜだろう?⑨『エヴァ』が導く、“親殺しの方程式”。
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そこで、本稿の内容は、TV版の第一話から……
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||……(EVANGELION:3.0+1.01)』(2021)のラスト十数分にまですっ飛びます。
つまり、四半世紀におよぶエヴァサーガの最初と最後だけを観て、全体を理解しようという無謀な試みですね。(アホなことは百も承知ですが……)
さてここで描かれたのは、名門インパクト大学の受験勉強に破綻したネルフ家の大騒動、つまり家庭崩壊です。
「スパルタ親父と教育ママ」の体制が崩れ去ります。家族を互いに縛り付けていた強制力の弱体化。これ、実社会における家庭崩壊と同じ現象ですね。
インパクト大学に入学しても、じつは人生の幸福とは無関係であることを、家庭教師ミサトは悟ります。
ミサトは尊敬する恋人リョウジから、インパクト大学の無意味さを教えられ、狂信的な参考書エヴァに依存した受験勉強の愚かさを悟ったのです。
しかしリョウジはゲンドウによって殺されてしまいました。
そこでミサトの心はグラッと傾いたのです。
こうなった今、私が心から守るべきはシンジ君だ!
そう、彼女が常に同居していた男は、シンジ君だけだったのですから。立派な同棲生活です。たまたまセックスレスだっただけ。
「大人のキスよ」と、シンジ君と愛を交わします。
これがいけなかった。実父ゲンドウの怒りを買ったのです。
ミサトは自ら“ヴンダー
四人の子供たちのうち、アスカとマリはミサトにつき、すっかり引きこもり化していたシンジも、アスカにボカスカと
汎用決戦テキストの参考書エヴァを、魔法でロンギヌスならぬガイウス包丁に変え、ゲンドウに突っかかるカチコミモードのミサト。
防ごうとするレイを突き飛ばすものの、ミサトは力尽きて死亡し、代わってガイウス包丁を持ったシンジ君。
包丁の切っ先は実父ゲンドウを向きます。
しかし、実の父親の俺様を殺せるものか、とほくそ笑むゲンドウ。
だが、ミサトは死の直前に、シンジ君に最後の殺し文句をささやいていました。
「息子が父親にしてやれるのは、肩を叩くか殺してやることだけよ」
意を決したシンジ君、ガイウス包丁を取り、ゲンドウに突進した次第。
しかし唐突ながら、シンジの中に宿っていた実母ユイの霊が実体化、「シンジ、私の胸でお眠りなさい」とばかりに抱擁しようとします。
つまり、家庭内暴力で荒れ狂うシンジを収めようとしたのですが……
嫉妬のあまりゲンドウは狂います。
「私のユイだ。シンジ、お前のユイではない!」という意地っ張りですね。
ゲンドウ、よくよくのダメオヤジでした。
これではユイなくして何もできない、ただの駄々っ子ではありませんか。
それでも、自らの手でガイウス包丁を奪い取ったゲンドウ、ユイの霊を羽交い絞めにして、ユイもろとも自分に突き刺します。
ゲンドウは自害。幽霊のユイと心中ですね。
やっぱ、よくよくのダメオヤジでした。
それもまた、「昭和の親父」のしがないプライドと弱さの表れと解釈して、憐れんであげるべきでしょうか。
このように、エヴァの物語には「昭和からの脱却」も語られているのでしょう。
作品の音曲は、昭和の歌やサントラのオンパレードでありますし。
こうして、四人のチルドレンはエヴァという受験勉強の強制から解放され、ついに自由に満ちた「エヴァの無い世界」を手に入れたのでした。
以上が、“ネルフ家の惨劇”の一部始終です。
シンジ君の「親殺し」によって、チルドレンたちの、スパルタ教育で束縛されていた心が、晴れ晴れと救済されたのでした。
それが、人類補完計画の真の正体だったのでしょうか?
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ことほど左様に、『新世紀エヴァンゲリオン』は、昭和の旧弊を引き摺る「スパルタ親父と教育ママ」の強制教育から、“親殺し”という緊急手段をもって解脱、
そこで、まとめです。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||……(EVANGELION:3.0+1.01)』は、観ていていかにも難解です。“第3村”の周りにホンワカと浮かんでいる送電鉄塔や鉄道車両たち、ありゃなんだ? とか、いろいろ謎深いものがありますよね。
それらの謎をわかりやすくする方法として、DVDのディスクをキカイに差し込んだ時、最初に表示される「視覚障害のある方のための音声ガイド」、あれを生かしたまま視聴することを強く強くお勧めします。
最初は「コア化」を「小赤」と聞いてしまったりしましたが、繰り返し聞くうちに、いろいろなことが、なんだかわかった気がしてくるのが不思議ですね。
この音声ガイドのナレーター様、エンドロールにクレジットされないお方なのですが、素晴らしいお声で、適度に感情も漂わせておられ、本当にいいお仕事をされています。
これはもう、必聴!
音声で語られる、もう一つのエヴァって感じですね。
ディスクを二倍三倍に楽しめる要素ですので、未聴の方はぜひお試し下さい。
さて、それらを踏まえた上で、使徒だゼーレだインパクトだ補完計画だアダムだリリンだドグマだガフだコアだといった、とにかくややこしくて難解な概念は、高度な専門知識を持ったコメンテーター様(おそらく岡田斗司夫先生では……)に解題をお任せすることにして、私のようなトーシロ組は、それらを思い切ってバサッと取り払ってしまいましょう。
すると、何が残るのか。
多分、こんな単純な方程式に帰結すると思います。
(親:強制)×(エヴァ:運命)+(子供達:自由)=世界
作品の中で冬月副指令が「運命を仕込まれた子供達」と表現していますので、「エヴァに乗って戦う状況」を「運命の強制」と解してみました。
つまりこうです。
シンジ君の最終的な望みは「エヴァの無い世界」の構築でした。
エヴァそのものは「運命」なのでシンジ君が勝手に消し去ることができません。
しかしその代わり、エヴァの搭乗を「強制」する力である「親」を消し去ってゼロにすれば、自動的にエヴァはゼロとなり、無くなります。
残るのは、「(子供達:自由)=世界」のみですね。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||……(EVANGELION:3.0+1.01)』のラストシーン。
親を殺すことで実現させた「エヴァの無い世界」で、子供から大人に脱皮したシンジ君は、いかにもこれから社会に船出するフレッシャーズな印象です。
同じく親の束縛から自由を獲得したチルドレンたち。
そこには個人の行動のみがあり、家族による束縛は完全に切り離されています。
そしてかれらは架空のアニメ世界から、現実の世界へと飛び出していきます。
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この場面、まさに“家族愛至上主義”から“おひとりさま物語”へのパラダイムシフトを象徴しているかのようですね。
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以上は、作品に関する無数の解釈論の一つであって、これが絶対に正しいと主張するつもりは全くありません。
あくまで私個人の私的な感想です。その点ご容赦下さい。
でも、たしかに、「追い詰められたロスジェネ世代の、昭和の親たちの束縛からの解脱」として受け取れば、四半世紀におよぶ『エヴァンゲリオン』の結末がストンと明快に理解できるような気がします。
やはり、凄い作品なんだ……と、つくづく思いますね。
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架空の映像世界から、最後に現実世界へ飛び出してゆく演出は、庵野監督が「テレビシリーズ終了後の竹熊健太郎との対談で、ラストシーンは「幕末太陽傳」(1957)の「幻のラストシーン」をやりたかった事を明かし、監督の川島雄三の気持ち(作品のテーマの逃避願望)はわかると語っていた」(ウィキペディアより)とされます。
庵野監督が長年胸に秘めておられた渾身の演出プランだったのですね。
このように「虚構→現実」へ移行するタイプのラストシーンは、メル・ブルックス監督の『ブレージングサドル』(1974)で典型的なスタイルが用いられ、それに先立って英国製のTVドラマ『プリズナーNo.6』(1968)の最終話でも、近い雰囲気の演出が極めて効果的に使われています。
『プリズナーNo.6』の最終話は断然イチオシですね。あまりにも意表を突かれてアッケラカン……な、「よくわかんないけど……凄い!!」感覚は、あの一作に勝るものなしです。
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さてしかし、『エヴァンゲリオン』の結末は、まだ課題を残しています。
「エヴァの無い世界」って、シンジ君たちにとって、どのような世界なのか、具体的にはなんら説明されていないってことですね。
じっさい、どんな世界のことを意味しているのでしょう。
作品が終結した西暦2021年の現実世界のことではないと思います。
こんな、格差と分断にあふれた、殺伐とした社会のはずがないでしょう?
あるべき世界、叶うことなら目指したいユートピアが、作品の中に提示されているはずです。
それはいったい?
【次章へ続きます】
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