30●『ホルス』から『かぐや姫』へ(12)…『ポニョ』は“誕生”を、『かぐや姫』は“死”を描いた。だから次は……
30●『ホルス』から『かぐや姫』へ(12)…『ポニョ』は“誕生”を、『かぐや姫』は“死”を描いた。だから次は……
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以上、わかり切ったことを長々と説明してきましたが、理由があります。
『崖の上のポニョ』から五年……
『かぐや姫の物語』(2013)のことです。
本人の希望なのか、罪ゆえの島流しなのか、確たる理由は不明ですが、竹の中に宿ってこの世に生を受け、竹取の翁に拾われて、すくすくとタケノコのように急速成長した“かぐや姫”。
クレオパトラも楊貴妃もメじゃない、絶世の美少女に育ちました。
並み居る貴族や、果てはミカドの求婚すらはねつける強心臓。
人間の愚かさに怒り落胆する一方で、ささやかな幸せを大切にする庶民の生き方に共鳴し、人生に希望を抱きます。
私は生きている! という実感です。
しかし、無情な転勤辞令のように、突然の別れがやってきます。
自分は月の人であり、まもなく月の天人が迎えにやって来る……
愚かであり汚くもあるが、活気があり美しくもある人の世に、生きる実感を抱き始めた姫は、平和ではあるが変化というものがない天人の世界に帰らねばならない運命を前にして、心が狂おしく引き裂かれていきます。
この、かぐや姫の、わが胸をかきむしる思いで煩悶するさまは、45年昔の『太陽の王子ホルスの大冒険』のヒロイン、ヒルダを彷彿とさせます。
悩むことなく、ブレることなく「人間になる!」と明るく宣言するポニョと、発狂するかの如くに悶え呻吟する“かぐや姫”は見事な対照をなしているのです。
天人は、異星人だと解釈することもできるでしょうが、地上の人々からみれば、天国あるいは極楽に住まわれる神仏と同じことでしょう。絵的にも、極楽浄土から訪れた菩薩さまや天女のような描写がされています。地上人をはるかに超越した魔法的な能力を持っている点でも、事実上、神様と同じ地位にあるとみなしていいでしょう。
かれら天人の世界は地上に比べて平和で清浄であるかわり、変化のない、恒常的な世界です。
いわば“あの世”。
そのような、まるで時が止まったような世界はあり得るのか……といえば、マクロな視点からすれば、現実に存在していてもおかしくないと思います。
といいますのは……
余談になりますが、私たちの宇宙、すなわち具体的な質量が観測できる範囲の世界は、今から約138億年の昔、ビッグバンという超高温高密度のとてつもない爆発によって誕生し、それから宇宙はとどまることなく膨張を続けているとされています。
ショッキングな生まれ方をした、変化に富んだ世界ですね。
しかしこのビッグバン宇宙論が提唱されたのは1950年の少し前あたりのころ。
ということは、それまでは“ビッグバンじゃない状態”で宇宙が存在していると思われていたことになります。
それが、“定常宇宙論”。英国の著名なSF作家でもあるフレッド・ホイル博士が、“ビッグバンだと? アホ抜かせ”とばかりに反論して掲げた宇宙論です。
こちらはビッグバンの発想とは、まあだいたい真逆。
宇宙は膨張する。すると質量は薄まる。で、薄まった分は、真空中から自然にふつふつと質量なりエネルギーが湧き出てきて、全体のバランスをとってくれる。宇宙は万古不変、未来永劫、変わることなく静かに“定常性”を保ち続けているのだ……というわけです。人体の
二十一世紀の現在、私たちはみんな当然のようにビッグバン理論を信奉していますが、1950年代あたりはこの“定常宇宙論”がけっこう主流だったのです。ビッグバン宇宙論を提唱したガモフ博士という人は“酔いどれガモフ”と異名をとるアルコール大好き人間だったらしいので、後から、「ビッグバンは酔っ払いのホラ話、めんご、めんご~」で済まされるんじゃないかと、みんな警戒したのかもしれませんね。
ところが1964年の年末近くに、ビッグバンの証拠といわれる“宇宙背景放射”が本当に発見されたので、みーんなコロッとビッグバンに
しかし、“宇宙背景放射”なる現象が、じつはビッグバンに起因していない、イカサマ的な別事案だったとしたら……
宇宙の本質は“定常宇宙論”の方かもしれませんね。
そうなれば、宇宙には最初からとてつもない爆発などはなくて、フレッド・ホイル博士が思い描いた通り、割合と静かに“現状維持”する世界だということになります。
何億年という長い長いスパンでとらえると、月世界の天人たちのような、静寂に包まれた、時間の止まったような世界も、アリと言うことかもしれませんね。
ねえ皆さん、“宇宙背景放射”がじつは宇宙規模のペテンだったとしたら、どうでしょうね? あれ、何者かのトリッキーな産物だったとしたら……
……なんてことを小ネタに想像しながら、秋山完という
とはいえ、天人たちが暮らす“静止した世界”、すなわち質量やエネルギーのプラマイが定常的にバランスのとれた世界というのは、決して、ありえない世界ではないと思うのです。
で、『かぐや姫の物語』ですが……
かぐや姫は、すべてが死んだように静まり返った、天人の月世界へ還らねばなりません。それは、肉体が地上世界を離れるだけでなく、彼女が地上世界で得たすべての思い出を捨て去ることを意味しています。
そうなった自分は、いわば記憶の
本人にとって、そして周りの人々にとって、“かぐや姫”は消え去ってしまう。
これは“死”と同じです。
ですから……
『かぐや姫の物語』とは、死に直面した少女の物語なのです。
監督の高畑勲氏は、2018年に逝去されましたが、ジブリアニメとして残された高畑監督の作品は、『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』などのいずれにも、死の影、そして滅びゆくものや消え去りゆくものへの憧憬がたっぷりとたゆたっていると感じます。
ということは……
“誕生”を描いた『崖の上のポニョ』と、
“死”を描いた『かぐや姫の物語』。
宮崎駿監督と高畑勲監督はそれぞれのお立場から、“誕生”と“死”を描かれました。
いずれの作品も、アニメ映画として群を抜いた、両監督の渾身の傑作と言えるでしょう。『かぐや姫の物語』には鬼気迫る情念すら宿っています。
では、次なる作品は?
そうです、このように“誕生と死”が描かれた今……
残されたテーマは、“誕生と死の間”に横たわっているはずです。
……私たちは生まれてから死ぬまでをどう生きたらいいのだろうか?
だから『君たちはどう生きるか』。
これは先立たれた高畑監督が、宮崎監督に遺された宿題であるのかもしれません。
ファンとしては、ただ完成を心待ちにするばかりです。
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さて、本稿の第18章に戻りますが……
宮崎駿監督と高畑勲監督が直接間接に関わられた下記の六作品は、ひとつの大きな流れをなしています。それぞれの作品が共通のテーマを異なった角度で処理した、巨大な連作叙事詩として捉え直すことができるでしょう。そのような視点でぜひもう一度、各作品を鑑賞されることをお勧めします。
自然(エコロジー)と、神様の扱い方に着目して、各作品の特徴を記述すると、こうなります。
『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968):人類vs自然〈悪魔〉。自然を征服し勝利する人類の凱歌。
『未来少年コナン』(1978):人類vs人類。戦争と平和。楽天的なエコロジー。
『風の谷のナウシカ』(1984):人類vs自然〈分解者〉。終末的なエコロジー。
『もののけ姫』(1997):人類vs自然〈神の登場〉。協和的な(互いに折り合いをつける)エコロジー。
『崖の上のポニョ』(2008):人類vs神〈誕生〉
『かぐや姫の物語』(2013):人類vs神〈死〉
では六作を通じて共通する要素は、何でしょうか?
いずれも、大自然の摂理である巨大な何か…たとえば、神…に対峙する“人類”のありようが、ドラマの中核をなしています。
ヒトとはなにか。ヒトが生きるとは、どういうことなのか、ですね。
宮崎監督の他の作品『千と千尋の神隠し』(2001)、『風立ちぬ』(2013)でも、“生きる”意味を問いかける作風が感じられます。
“誕生”と“死”の狭間の人生、その本質は何なのだろうか?
やはり、『太陽の王子ホルスの大冒険』から『かぐや姫の物語』までの六作に続く、七作目の最終章は、『君たちはどう生きるか』ということでしょう。
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続く章では、単純に見えて大きな謎をはらむ『崖の上のポニョ』を詳述します。
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