27●『ホルス』から『かぐや姫』へ(9)…神の椅子は用意されていた。コナン君の神対応はお釈迦様級。

27●『ホルス』から『かぐや姫』へ(9)…神の椅子は用意されていた。コナン君の神対応はお釈迦様級。






 『風の谷のナウシカ』、『未来少年コナン』『太陽の王子ホルスの大冒険』には、神様がどこに、どのような形で存在しているのでしょうか?

 続いて、『未来少年コナン』です。


●『未来少年コナン』(1978)

 作品は明らかにSFですから科学の世界。

 “人類vs自然”という対立概念で語られてはいませんから、“自然神”というスタイルの神様が登場することはありません。

 その代わり、別なところに、神様に該当する存在がいます。

 コナン自身です。

 作品中で最もすぐれた、超自然的な身体能力を発揮できる、ただひとりの少年。

 彼の中にこそ、“自然神”が宿っていると考えることもできるでしょう。

 物語構造の中で、コナンは典型的……かつ天啓的な“オッドマン”です。


※オッドマン仮説……

 マイクル・クライトン作『アンドロメダ病原体』(1969発行)で知られるようになった組織論の仮説の一つです。オッドマンとは“半端者”の意味。フラリと現れた“まれびと”や、“異端者”のような意味合いもあります。

 集団の中に一人、そんな変わり者を入れると、日本的には和を乱すヨソモノとしてイジメられ、排除されてしまいますが、じつは、そのような人物が加わっていた方が、組織全体としてはうまく機能する……という考え方です。

 普段は役に立たなくても、いざ非常時となれば専門能力を駆使して大活躍してくれる……といった効果が期待されます。



 で、『未来少年コナン』のオッドマンはどうかというと……


 育ての親を亡くして天涯孤独となったコナン少年。

 しかしそんな部外者の彼が、ハイハーバーとインダストリアをめぐる対立と陰謀にフラリと飛び込んできたことで、さまざまな事件が誘発され、拡大され、惨劇や悲劇が回避されて、事態は大きく変わり、奇跡のように解決へ向かいます。

 異質な一人が加わったことで、物語が沸騰するのです。

 ある種の触媒効果のようなものですね。

 まさにオッドマン。

 疾風のように現れて人類を救う、スーパー・オッドマンなのです。


 そんな彼は、人びとにとって、天からつかわされた救いの使徒でもあり、類まれなラッキーボーイであるといえるでしょう。

 『未来少年コナン』の物語に神が降臨するとしたら、間違いなくコナン自身が最有力の“憑代よりしろ”ということではありませんか?

 神様そのものではありませんが、神様代理人候補の筆頭というべきか。


 コナンは、純粋無垢の自然児として設定された少年。

 孤独なかわり、大人たちの悪に触れずに育ってきました。

 この少年コナンの中には、無邪気なまでに純真な神が宿っているかのようです。

 その証拠に、少年コナンだけは、常人の域を脱した行動力と体力と生命力を与えられ、画面狭しと活躍します。

 腕白だけど逞しく、そして正しく育った、無邪気な少年。

 コナン少年は『太陽の王子ホルスの大冒険』のホルスと身体能力や生い立ちなどの特性が似ていますが、もうひとつ似ているキャラクターがあります。

 『わんぱく王子の大蛇オロチ退治』(1963)の主人公スサノオです。


 このスサノオを正義感あふれる理性的な“よいこ”にしたら、コナンになりますね。

 普通の人間なら確実に大怪我で死亡してしまうような跳躍や疾走や頭突きなんかを、コナンは難なくこなしていきます。

 アニメだから公然と許されるアクションと解すればいいのですが、コナンだけにそれが許されるのは、彼の中に“神”が宿っていることが無言の合意として作品世界にあてはめられているからではないでしょうか。

 それゆえコナンは、対立する二つの正義であるラナとモンスリーの間に立って、ラナを守り、モンスリーの頑なな心を溶かす役割まで果たします。

 ハイハーバーの村の家で、敗北の苦渋を噛みしめるモンスリーの前に現れたコナン。その姿に動揺し、同時に心の扉を開くモンスリー。

 そのとき彼女は、純真無垢の少年の中に、絶望の人生を脱却する“救いの神”を垣間見たのではないでしょうか。


 ちなみに、純粋無垢の愚か者……すなわち自然人……の中にこそ神は宿る、という考え方は、リヒャルト・ワーグナー作の舞台神聖祝典劇『パルジファル』(1865)の主人公である青年パルジファルに具現化されています。彼は最後にキリストの聖杯グラールを掲げて、人々を救うのです。


 少年神のスサノオは物語前半ではいささか粗暴で“やんちゃ”なキャラに描かれていますが、本質は純真で素朴なマッチョ少年神であり、後半は愛するクシナダ姫のためにオロチを退治する英雄となります。

 オロチに食われる運命に抗うクシナダ姫は、ラナに相当する位置づけですね。

 コナン少年はスサノオよりはずっと“よいこ”ですが、ラナを大蛇オロチレプカの毒牙から救う、いわばマイルド・スサノオなのです。


 そしてまた、コナンには神が宿る? と思わせる証左が二つばかりあります。


 第18話で、インダストリア軍に占領されたハイハーバーの村人に向かって、占領責任者に任命されたオーロが虚勢を張る場面です。

 突如、闇を切り裂くコナンのもり。オーロのズボンの裾を貫きます。

 コナンの声。「僕の銛はお前をどこまでも追い掛けていくぞ!」

 あえてオーロを殺さず、しかも、殺すぞと脅すこともなく、“銛が追いかけていく”という表現にとどめたコナン。

 NHKならではの放送配慮もあるのでしょうが、明らかに殺せるチャンスなのに、コナンは殺しません。

 敵であっても人を殺したり傷つけたりしない……というのは、ラナとの約束事でもあるでしょうが、やはりコナンの心に宿った神格を表しているのでしょう。

 コナンは人間の少年ですが、潜在的に神の資格を与えられているのですね。


 もうひとつ、第25話で墜落するギガントからレプカが脱出しようとした時。

 交通艇に飛び乗ったコナンと入れ替わってギガントに落ちたレプカ。しかしコナンがはっしとばかりにレプカの腕をつかんでやります。

 生き残る最後のチャンス。しかしそのレプカの下半身に、同じように助かりたいギガントの乗組員が鈴なりにしがみつきます。

 この光景……

 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』(1918)ですね。

 もっとも、『蜘蛛の糸』は海外作家の元ネタがあるということですから、二十一世紀の現在でそんな話を書くとネットでしっかりボコられるでしょう。某五輪エンブレムみたいにね。

 それはともかく、部下たちを蹴落とそうともがいたレプカには、『蜘蛛の糸』と同じ結末が待っていました。

 この時、コナンは明らかに、蜘蛛の糸を垂らすお釈迦様の立場。

 神仏と同様の判断が求められ、そして不可抗力とばかりにレプカの手が離れます。

 この『蜘蛛の糸』の引用場面は、やはり見事です。

 レプカたちの滅亡は、人間コナンの意志でなく、天の配剤となるからです。


 咄嗟の善意からレプカに手を差し伸べたばかりに……

 コナンはお釈迦様の代理人まで演じてしまったわけです。


 この神対応少年、まんま神様の貫禄十分と言えるのではないでしょうか。









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