25●『ホルス』から『かぐや姫』へ(7)…『もののけ姫』の到達点。大自然は神だ。

25●『ホルス』から『かぐや姫』へ(7)…『もののけ姫』の到達点。大自然は神だ。




 『もののけ姫』では、“人類vs自然”の構図の“自然”を代表して、“神様”が登場しました。

 それも、単なる概念上の存在でなく、シシ神という具体的な形を持った神様です。

 これが『もののけ姫』のビジュアル上、最大の特徴と言えるでしょう。


 自然をむさぼりりつくそうとする人類と、自然の猛威による人類への反撃。

 『ホルス……』、『未来少年コナン』、『風の谷のナウシカ』と続いてきた人類と自然との相克は、どうすれば解決するのか。その命題に対する答えとして……

 宮崎監督は、“人類vs自然”の対立の方程式に、“神様”の項を挿入することで、万人をうなずかせる解決を実現されたと思われます。


 奇妙なことですが、エコロジーの問題に取り組むにあたって、この国の人々は、科学性よりも神秘性を重んじるようです。

 この国の多くの人にとって、環境問題は論理的・科学的な手法よりも、感覚的・情緒的に理解される傾向にあると思われます。

 南極や北極の氷が何%解けている、地球温暖化を防ぐためにCO2排出を何%削減するためにレジ袋をやめて云々……と理詰めで説明するよりも、「モノを粗末にするとバチが当たる(偉い人に叱られる)」といった表現の方が、すとんと理解されるのかもしれません。


 そもそも、万世一系の現人神あらひとがみを国家の中心に据え、現在も変わりなく崇敬する国民性です。陛下の血統が神様なのか人間なのか……といった議論は別のところに置いといて、ともあれ、汚れの無い空と海と大地を心から望まれ、五穀豊穣と天下泰平を願っておられるという点で、国民はみな陛下に対する共通の信仰を、戦前と変わらず、事実上維持していると言っても過言ではないでしょう。


 だからアニメでも、神様なのです。

 最終決定権者は、なぜか神様なのです。

 それで完全に納得できてしまう国民性なのです。


 ですからこの国では、エコロジーの視点に、神の御意志が求められているのです。

 科学的分析は、むしろ二次的な付属物なのですね。

 “美しい国”、というフレーズは政治的な臭いが鼻につくようになってしまいましたが、“美しい空と海と大地”に、この国の人々は神様の存在を感じて、無条件に、大切なものとして守ろうとする意識を持っているのでしょう。

 科学がどうとか理論がどうとか言うよりも、“これを汚すとみっともない、神様に申し訳ない”と言われた方が、納得して清掃のボランティアに精を出す人が多いのではないでしょうか。


 その証拠に私たち、ボランティアなどで環境保護活動に関わるとき、まるで経文のように心の中で唱えていませんか?

 「地球にやさしく……」と。


 本当に地球にやさしくするのなら、まず人類が率先して絶滅すべきですね?

 むしろ用法としては「地球にやさしい〇〇」として、〇〇に企業名や商品名やお役所キャンペーンの名や、自分の名前を入れて、“免罪符”として使用される例も多いようです。

 その良し悪しは別として、物理的存在である地球を“神様”に擬人化していることが推察されます。

 地球すなわち大自然=神様、であると、私たちは無意識に位置づけているのです。


 この国の人々は、それほどに神を敬い、神を畏れる国民性のようです。

 大自然の万物には神が宿り、人類の所業をみそなわしておられる。

 八百万やおよろずの神様ですね。

 この概念をかざして、“人間vs自然(神様)”の視点からエコロジー問題を解釈したのが『もののけ姫』だと考えられます。


 その訴え方が広く共感され、絶賛されたのは、作品の大ヒットに現れていると思います。


 “大自然に対峙することは、神様と対峙することだ”


 これが、『もののけ姫』の一つの結論であり、『ホルス……』、『未来少年コナン』、『風の谷のナウシカ』と続いてきた壮大な連作叙事詩の大きな結論であると思うのです。


     *


 大自然に神様を見出すことで、四つの作品は幕を閉じました。

 しかし、疑問はまだ残ります。


 人類の愚行で首を落とされたシシ神は、呪われた死の液体と化して、加害者である人類に襲いかかります。

 神罰です。

 首が返却されたことで、どうやらご機嫌を直されたようですが……

 しかし神様とは、そのように人類を断罪し、罰を下す厳しい存在でしかないのだろうか?


 人類と神様の間には、もっと優しく、慈愛漂う関係があったのではないか?


 冷たく残酷な神があれば、あたたかく優しい神様もおられることでしょう?


 この疑問は至極もっともです。

 だから、その回答として……


 『崖の上のポニョ』(2004)が用意されたと考えられます。


 『崖の上のポニョ』は、全編に粉砂糖のようにファンタジックな魔法がまぶされたお話で、それだけではどうにも理屈が通らず、一言説明を加えてほしい箇所が多々あり、意外と大きな謎がそのままポンと残されています。

 いかにも子供向けのスタイルで、誰にでもわかりやすそうに見えて、じつは非常に難解な箇所があるのです。


 いったいあれは、何のお話だったのか?


 わかるようでわからない、むにゃむにゃした気分になられた方も多いのではないかと思います。


 それにもうひとつ、『かぐや姫の物語』(2013)があります。

 これ、じつは『崖の上のポニョ』と、作品テーマにおいて見事なついをなしています。


 詳しくは次章以降で……

 そしてさらに数章かけて、『ポニョ』の謎解きを試みたいと思います。


     *


 『崖の上のポニョ』を詳しく考察するその前に……


 もうひとつ、素朴な疑問を検討しておきましょう。


 『もののけ姫』(1997)において、ついに神様が明確なビジュアルをもって画面に顕現なされました。

 では、それ以前の『風の谷のナウシカ』、『未来少年コナン』『太陽の王子ホルスの大冒険』には、神様がどこにも一切登場していないのでしょうか?


 確かに、神様としての具体的なお姿は拝見できません、しかし……

 概念としての“神様”は、作品の裏面に、ちゃんと身を置いておられるのです。







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