第105話 日常の影に

 分厚い雲に覆われた空から、雨がしとしとと降りそそぐなか、俺は静かに眼前の景色を眺めていた。

 目の前には平原が広がっており、その先に険しく切り立った山と、深い崖に挟まれた道が伸びている。

 その道がこの辺りで唯一、ヴァンヘルムからワーグナー領に侵入できる経路である。

 そしてそこからの侵入に備え建っている、堅牢堅固で巨大な要塞から伸びた、監視塔の上に俺とヴァネッサさんは立っていた。


「もうすぐだな」


 ヴァネッサさんが前を向いたまま呟いた。


「指揮を取らないで平気なのですか?」


 眼下で兵士たちが、迅速に配置に付いている。


「そんなやわな鍛え方をした覚えはない」


 確かに誰もが、迷いなく統率のとれた動きをしている。

 しかし、ヴァネッサさんがここまで言いきるしごきとは……。

 想像してゴクリと唾を飲みこんだそのとき、突然雨足が強くなりざあざあと降りそそいできた。

 すると――


「ん、あれは?」


 雨に煙る視界の奥に、幾つも立ちのぼる魂力の揺らめきが見えた。

 距離にしてまだ2キロメートルほどはあるだろうか。

 先ほど確認していた、ワーグナー領に入るための唯一の道を、雨に隠れて行軍している。


「ほう、やはり魂力感知はお手の物のようだな。しかしあれは陽動だ」


 確かにあんなに立ち昇る魂力、いくら合戦に気がはやっているとはいえ不自然だ。

 しかし、陽動ということは本命の部隊がいるはず。どこだ……?

 俺が辺りを見回していると、砦に設置された槍のように太い矢を飛ばす大型弩砲どほう――バリスタから一斉に矢が放たれた。


「え、空間に歪みが?」


 バリスタから放たれた矢が、何もない空間を波紋のように揺らめかせ飛んでいく。


「敵の認識阻害の魔法だ。しかし当然こちらも対策はしている」


 ヴァネッサさんがそう言った瞬間、矢が地面につき刺ささり辺りに炎を飛びちらせた。

 矢に油か何か仕掛けがされているのだろうか?

 そしてその火に炙られた敵の伏兵が、それを合図に一斉に進軍してきた。


「なんだこの戦略は……?」


 隠れていたのはたかだか20数人の兵士。しかも良く見てみると、鎧も何も身につけていない。

 敵将は何を考えているんだ!?


「驚くのも無理はない。こいつらには端から勝つ気などないからな」


 ヴァネッサさんが不機嫌をあらわに吐きすてた。

 勝つ気がない? なら、この兵士たちは何のために突っこんで来ている?

 俺の疑問などよそに、砦の狭間さまから敵兵目掛けて矢が放たれる。

 その度にひとり、またひとりと敵兵が地面に倒れていく……。中には体に幾つもの矢をはやしながら這うように、近づいてくるものもいる。


「なんなんですかこれは……? 盾も鎧も身につけないで、こんなのただの自殺じゃないですか!?」

「身につけないのではない。身につける余裕がないのだ」

「ど、どういうことですか?」

「こいつらは皆、八日熱という重い病に犯されている。本来なら歩くのもやっとのはずだ」


 雨あられの矢のなかを、こちらに向かい走る敵兵を見下ろしながら、ヴァネッサさんは言った。


「な、なんでそんな病に犯されたものをわざわざ……。ま、まさか!?」

「聡いお前のことだ、もう全てわかっていると思うが、こいつらは自ら病に犯されてきたのだ」

「……か、彼らは奴隷ですか?」

「奴隷と負傷兵だ。対価は支払われているがな」


 ヴァンヘルムは堅牢堅固な要塞を容易く落とすことはできないと判断し、持久戦を仕掛けているのだ。

 奴隷や負傷兵を意図的に八日熱に発病させ、生きたウイルス兵器として送りこむことによって……。

 八日熱は特効薬こそあるものの、その原料となるダレアスの花は稀少である。

 病は徐々に兵士たちを蝕んでいく。体だけではなく、恐怖として心にも伝染するのだ。

 確かに効果は大きい。それにしても、あまりに外道ではないか。


「……これが、戦争ですか?」

「ああ。そしてこれが、平和の影に潜んだ日常だ」


 すでに矢の掃射は終わっている。遠くで魂力を無駄に放出していた、陽動隊もすでに退却している。

 八日熱に感染した突撃兵が全滅したからだ。

 バリスタの大槍のごとく太い矢に潰され、下半身だけとなった死体が転がっている。

 頭が黒焦げになっている死体もある。

 眼下には雨に流される彼らの血が、ただ広がり続けていた。



 ――俺はひとり町を歩いていた。

 ざあざあと降っていた雨はすっかりあがり、辺りに土の香りが漂っている。


「おい、ちょっと呑んでいこうぜ」


 前から歩いてくる腹の出た男が、隣を歩く男に嬉しそうに声をかけた。


「いいのか? この前もかみさんに怒られていたばかりじゃねーか」

「そう言うなって。夜はこれからじゃねーか」


 そう言ってふたりは、近くにあった酒場に入っていった。

 中からは喧騒が聞こえてきた。


「なんだか夢でも見ているみたいだな……」


 病に犯された敵兵たちは、焼却場に運ばれ速やかに焼かれた。

 もちろん、死体を運搬するものに感染のリスクがある。

 しかし放置していたら、病が蔓延してしまうため、そうするしかないのである。

 その光景を眺め唇を噛みしめる俺に、ヴァネッサさんは言った。

 これはまだまだ、ほんの一部であると。


 手足を吹きとばされながら、ひとりでも多くの敵兵を倒そうと向かっていく兵士。

 自分に襲いかかる敵兵や、自分が殺した敵兵の姿がフラッシュバックし、突然叫びだす仲間。

 食料が尽き、それでも行軍するために、無理やり口の中に押しこんだ敵兵の肉の味。

 今は同盟を結んでいるので、そこまで大きな戦になることはない。

 しかし、日常とは薄氷の上にある存在なのだと、実感するには十分であった。


「……俺に何ができるんだろうか?」


 俺は今まで反開戦派同盟の盟主という立場を、深く考えてはいなかった。

 ベルの姉妹を探す片手間で、砦でも作っておけばいいんだろって、その程度に考えていた。

 誰かに守られていたことも知らずに……。


「どうしたんですか、坊ちゃま? 浮かない顔をして」


 ひとり物思いに更けていたら、見知った顔に声をかけられた。


「エルネこそどうしたんだ? こんな時間にひとりで」

「ちょっと月でも見ようとお散歩を」

「こんな曇り空で月なんか見えるわけないだろ。もしかして、また見ていたな?」


 俺が問いかけると、エルネはふふふと笑ってみせた。

 やはりそうか。あまりにもタイミングが良すぎるからな。

 今日はヴァネッサさんと激しく戦っていったからネッケの糸ではないはず。

 となると、恐らくパックルで眺めていたんだろうな。

 依存が強すぎる気がしないでもないけど、まあいいか。

 急にマチアスさんに連れていかれたから、何事かと心配してくれたんだろう。


「なあエルネ。俺はどうするべきだと思う?」


 エルネの顔を見て安心したのか、悩みが口をついてでる。


「いつになく弱気ですね。胸でもかしましょうか?」


 するとエルネがおどけたようすで、そう言ってみせた。

 その言葉につられるように、豊満な胸に視線がいく――相変わらずいいものをお持ちで……。


「ふふ、やっといつもの坊ちゃまに戻ったみたいですね」


 エルネはたいそう満足そうに笑顔を浮かべた。


「あのな……。女性の胸を不躾に眺めるのが、エルネの中のいつもの俺なのか?」

「あら、違いましたか?」

「違う! と言いたいけど、違わないかも知れない……」


 思い返してみると、確かに隙あらばいつも見ている気がする。

 ヴァネッサさんと話しているときも、結構いいもの持っているんだよな、とか見てたし。

 もしかしてヴァネッサさんにもバレているんだろうか? いかん、悪寒がしてきたぞ。


「せっかくだからもう少し見ておきますか?」


 なんて、思っていたらエルネから素敵なお誘いが……。


「いや、もう大丈夫。お陰で元気が出たよ。ってか、悪いな。エルネそういう男の視線苦手なのに、俺を元気づけるために無理をさせて」


 まあ、俺は紳士だから当然ことわるけど。


「うーん、なぜか坊ちゃまは平気なんですよね」

「紳士だからな」

「いえ、嫌らしさは感じるんですけどね」


 そんな俺の言葉を、ばっさりと切ってすてるエルネ。そうか、嫌らしさが溢れていたか……。


「ところで坊ちゃま、何か食べていきませんか? 昼からずっと何も食べていないでしょ?」


 エルネは少し心配したようすで、俺の顔を覗きこんだ。

 ご飯か。正直食欲がないんだよな……。

 今でもちらちらと、さっきの光景がよみがえるし。


「坊ちゃま、お気持ちは良くわかります。坊ちゃまの類いまれな記憶力のせいで、私なんかよりもよほど深く思い悩んでいるのでしょう」


 そうか。パックルで俺を見ていたってことは、エルネもあれを見ているんだよな。あの凄惨な光景を。


「でもだからこそ、いつも通り夕食を楽しむべきだと思うんです。そうしないと、どんどん弱っていくだけですから」


 幼い頃の自分を思い出したのだろう。

 エルネは少し辛そうな表情でそう言った。


「そうだな。ギルドの依頼報酬も入ったし、おいしいものでも食べていくか」

「それなら坊ちゃま、この先においしいシチューが食べられる店があるんですよ」


 俺は雨にぬかるむ道を、鼻息を荒くするエルネに手をひかれ歩いていった。

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