恐怖に立ち向かうもの(後編)
初めてあの顔を見てから、叡持はずっと心に何かが引っかかっていた。言語化は出来ないが、確実に何か引き留めるものがある。呪詛を緩め、あの時の恐怖を呼び起こさせるほどに。
本来なら、魔導士にここまで時間を割くのは合理的ではなかった。黒い煙の謎を解き、新たな魔術の可能性を発見した時点で、既に目標は達成していた。そもそも、あの時、クラウド・クラスター・キャノンで竜の亡霊を吹き飛ばした時点で殺害すればよかった。
あの顔を見たことで、思考が停止してしまった。本来なら殺害するべきタイミングで、手が動かなくなってしまった。そして、数日間にわたって活動が出来なくなってしまった。
停止するほど無駄で意味のないことはない。人は常に進むべきであり、後退こそしたとしても、停止しては何も変わらない。進歩も発展もない。だから動き続けなければいけない。
そうか、これは本能だ。叡持はここに来て、もやもやがすっきりした。
自分は、停止していることに嫌悪感を覚えていた。感情的な「嫌」ではない。効率が悪くなっていることを知らせる「警報」だ。そして、それを打破するための「本能」が、自分を動かした。
すっきりとした叡持は魔導士と向き合った。魔導士は震えあがり、体を縮めている。
シュウウウゥゥゥゥ……。
叡持は迷いなく装甲を脱いだ。実は相手への防御魔術は残してあるが、それは秘密である。
「……何の、真似……だ」
声を震わせながら、魔導士は潰れた声を吐いた。
「以前装甲を解除した時は、ひどく怯えておられましたね。ですが、今は態度一つ変化されていません」
既に怯えきっているので、これ以上行動に変化は起こらない。このようは本音を抱えていたが、魔導士は言葉に出来なかった。生身の人間が怖いことには変わらず、そして叡持の目的が分からないことも怖かった。
ただ、怖かった。自分はいつ消されてもおかしくない。自分は負けたのだから。
……もう、既に私は消えたのか?
私は生きては帰れないし、自分を維持することも叶わない。もう……。
「早く……、消して、くれ」
「はい?」
「早く、私を消してくれ」
「と、言われましても……」
「もう、怖くて怖くて仕方ない……。誰かを殺さないと不安で仕方ないというのに、今の私はそれが出来ない。この命だって、大賢人の手の中にある。お前が殺そうと思えば私の命は消える。……怖いんだ。お願いだから解放してくれ。もう、楽にしてくれ」
「しかし——」
「もう、何なのか分からない。どうして私はここまで怖いのか、何が怖いのか、分からない。もう嫌だ、殺して——」
「安心しました」
叡持は、暖かい笑みを浮かべた。冷たい魔法使いには絶対に出来ないような、出来ないと思われていた笑み。魔導士はその表情に戸惑いながら、叡持から滲み出ている雰囲気に飲まれていった。
「僕が考える、あなたのバイアスを取り除く方法。それが、しっかりとあなたに効くことを確信出来ました」
「……どういうこと、だ」
「あなたは、何が怖いのか分からない。そうおっしゃりました。当然です。なぜなら、それが恐怖の本質だからです」
叡持は一歩前へ足を進めた。魔導士はドキッとしたが、叡持は変わらずに言葉を続けた。
「恐怖、それは理解できません。認知することも、対処することも出来ません。そう、『未知』こそが、恐怖の本質です。これに気が付いた時、世界が変わります。自分の手に負えない相手でも、取るに足らない相手に落とすことも可能です。『死』が恐怖であるのも、死後の情報がまったくないことが原因です。そして、何かに挑戦する時も、先が見通せないことが恐怖に繋がります。何より厄介なのは、恐怖は事実を捻じ曲げ、情報にフィルターを通してしまいます。それは、余計に事実の確認を困難にし、更に人を恐怖の虜にしてしまいます。あなたが、恐怖の奴隷となっていたように。それがあなたにかかるバイアスであり、あなたを苦しめる呪いです」
「……だから何だというのだ」
「原因が分かれば対処が出来ます。利用することも、潰すことも自在になります。当然ながら、『恐怖』への対処、つまりあなたにかかる呪いについても例外ではありません」
叡持はそう言いながら、杖を高く掲げた。そこから溢れ出たのは、膨大な文字列と、難解な記号。それは叡持が集めたデータの数々だった。実験データから観測データまで、ありとあらゆるデータが空間を埋め尽くす。
「恐怖に対抗するもの。それは『知見』です。膨大な知識は恐怖から身を護る盾となり、経験は恐怖に立ち向かう剣となります」
セリフと共に、青白色のオーラが噴出した。冷たく破壊をもたらすものではなく、高い熱量を誇り、相手に熱を届ける光。
「知らなければ調べればいいのです。理解できなければ、理解出来るまで考えればいいのです。知見が広がれば、強大な力を保持していた恐怖は、少しずつ、しかし確実に力を削られていきます。そして、『未知』が『既知』へと変化した時、恐怖は既に消えています」
叡持はゆっくりと歩き始めた。魔導士の下へ、少しずつ近づいていく。
「く……、来るな。何をする、つもりだ」
魔導士は怯えた声を上げる。しかし、叡持は笑みを浮かべたまま、ただ歩いている。魔導士には理解できない。怖い。この魔法使いが何をするつもりなのか、分からない。
「……殺すなら、早く殺してくれ。お前は何を——」
「僕が装甲を解除するのは、僕が敵でないと認めた者の前だけです」
「え——」
魔導士は硬直した。胸が高鳴った気がした。叡持はそのまま歩き続け、魔導士の目の前、拳一つ分も離れていないほどの距離まで近づいた。
そして、名状しがたい仮面に手をそっと乗せた。
「あなたのような方が、このような仮面で顔を隠すとは、あまりにも勿体ないじゃないですか」
「——!」
魔導士は瞬時に理解した。叡持が、次に何をしようとしたのか。
「や、やめてくれ! それだけは——」
魔導士が言い終わるより前に、叡持はそっと手を滑らせた。その手につられ、仮面もまた、魔導士の顔からずらされていく。
ぱあ、と素顔が露わになった。白く柔らかい肌、黒く丸い瞳。愛らしく、かわいらしい少女の顔が、叡持の目に入った。
「もしよろしければ、僕と共に、魔術の探求をしませんか?」
「え……?」
空気が一瞬で熱くなった。今までのしがらみを融かし、新たなつながりが作られていくように。
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