第179話 針氷峰 (2)
セナがラトと残ってくれるという話になったので、俺とニルは、早速その細い道を進む事にした。
「雪は降っていませんが…やはり寒いですね…」
「一応防寒の魔具を身に付けているとはいえ、それ以外の部分には効果がないからな…もう少し厚着するか?」
「いえ。今は寒いですが、動けば温まるので大丈夫です。」
ビュォッ!
「「っ!!」」
大丈夫だと言って直ぐに、突風が吹き付け、二人して顔を服に埋める。
「早く動いて体を温めるか。」
「そ、そうですね。」
人一人通れるかどうかの足場を、壁面に背中を預けて進んでいく。
時折訪れる突風に、姿勢を崩されそうで怖い。
カラッ…
細い足場にあった氷の欠片が落ちていくのが見える。
下は見ない方が良いだろう。
ただの落下だけならば、魔法で着地する事も可能かもしれないが、この山は上から下へと強い風が吹き付けている。
もし落ちれば、その風に押され、落下スピードは自然落下のそれよりずっと速くなるはずだ。そうなれば、魔法で勢いを殺しても危険かもしれない。
その上、上から見ると、ほとんどの場所が尖った氷柱になっている。落ちれば串刺しになってしまうだろう。
二度と下を覗き込まないと心に誓い、細い足場を進んでいく。
「ニル。少し広い場所に出られるみたいだ。」
「分かりました。」
暫く進んでいくと、細かった足場が広がり、踊り場のような場所に出る。
ギュッ…ギュッ…
足元は平面で、雪が積もっている為、足を踏み出すと独特の音を放つ。
「ここまでか?」
細い道を進んで来たは良いが、周囲は氷壁に囲まれ、それ以上進む事が出来なさそうだ。
「自然に出来た道だからな…何も無いのが当たり前か…」
「こういうのは根気が必要ですね…」
「そうだな。戻って上を目指そう。」
空を見ると、暗かった空に晴れ間が見え始めている。
山の天気は変わりやすいと言うし、油断は出来ないが、晴れている間に行けるところまで行っておきたい。
俺とニルは再度慎重にラト達が待つ場所まで戻り、その日の進行を開始した。
壁を一つ登り、そこから行けそうな場所を探して、周囲を探索するが、また行き止まり。
また壁を一つ登って周囲の探索…行き止まり。
口で言うよりずっと大変で疲れる作業だが、これを繰り返すしかない。
そして昼頃。
「ご主人様。」
ニルが声を掛けてくる。
「セナが…」
俺から見ても、少し疲れ始めているように見える。
「分かった。今日はここまでにしよう。
どこかに風を凌げる場所は…」
周囲を見るが、尖った氷柱と氷の壁と雪。そればかり。
「ご主人様。この辺りはどうでしょうか?」
「昨日より狭いが、十分だな。」
氷柱に塞がれていて気が付かなかったが、氷が横に裂けたような切れ目があったらしい。
一晩過ごす程度ならば、問題ないだろう。
「セナ。今日はここまでにしよう。」
「え?でもうちは…」
「セナ。」
「うっ……分かったわ。今日はここまでね。」
「ああ。寝床を作るのを手伝ってくれないか?」
「分かったわ。ここに来たらシンヤさんの言う事を聞くって約束もしたからね。
ふぅ…私も張り切り過ぎていたわ。気を付けるね。」
「仕方ないさ。さっさと済ませて休もう。」
「ええ。」
俺だってこの山に登り始めてから、ずっとサクラの顔が頭の中をチラついている。余命は後半年弱。
桜点病の症状から、半年後、いきなり亡くなるという事は無いだろう。今は歩けても、徐々に弱っていくはずだ。
もし動けなくなり、弱り切ってしまえば、病が治ったとしても、助かる可能性は低くなる。そう考えると、治療薬を届けなければならないデッドラインは、多分、もっと早い。
セナはかなり急いで道具を作ってくれたが、それでも一週間は消費した。針氷峰に登るためには必要な時間だったと分かっていても、焦る気持ちはやはり有るだろう。
「はぁ…駄目ね。気にしないようにしていても、ついつい考えちゃうわ。」
床面を整地しながら、セナが暗い顔で言ってくる。
「考えないようにしようとする事自体が、もう考えているんだ。
大切な人の命の話だ。考えないようになんて出来ないさ。」
「……近しい人が亡くなったの?」
「まあな…」
俺の言葉に何かを感じ取ったらしい。俺の知り合う女の人は本当に鋭い人ばかりだな…
「昔父親と母親をな。」
「そうだったんだね…」
「元いた場所を離れた後にも、仲良くなった人を何人か亡くしたしな…
どんな形で亡くしたにしろ、大切に思っている人であれば、考えてしまうさ。
どれだけ時間が経っても、ふとした瞬間に思い出したりな。」
「…………」
「でも、サクラは助けられるはずだ。
いや、俺達が必ず薬を作って届ける。そうだろう?」
「当然!」
「なら、俺達の命は、サクラの命と同じだと思わないか?」
「うちらの命が…?」
「俺達が焦ったり、変に
「そっか……そうだよね…」
「俺達は死ねないんだ。絶対にな。
だから、疲れた時はしっかり休む。無理な時は別の方法を探す。」
「そうだね…そうだよね!分かったわ!」
今までの強がった笑いではなく、どこかスッキリしたような顔で自然に笑うセナ。
「よーし!今日はしっかり休む!」
「そうだな。」
元気一杯にそんな事を言われても説得力は無い気もするが…セナの事だから大丈夫だろう。
「休む前に…道具の様子を確認しておくから、シンヤさんとニルの道具類出しておいてくれる?」
「分かった。」
「分かりました。」
整地が終わったところで、セナは道具のメンテナンス。俺とニルは昼食の準備。ラトは伏せして大人しくしている。
昼食を終えてゆっくりしていると、不意にラトが話し掛けてくる。
『シンヤ。』
「どうした?」
『この山に登り始めてから、全然モンスターに会ってないけど、おかしいと思わない?』
ラトの疑問は俺も感じていた。
麓付近で調べた時、ラトは何種類かのモンスターを仕留めてきた。
どれもCランク以下の弱いモンスターだったが、それでも簡単に見付けられたらしいし、数が少ないわけではないと思う。
「俺も同じ事を思っていたが………周囲にモンスターの気配は?」
『僕の感じられる範囲には居ないよ。』
「……環境が厳しいから、山の麓にしかモンスターが住み着かない…とか?」
『僕が狩ってきたモンスター見たでしょ?』
「だよなー…」
ラトが狩ってきたモンスターの中には、スノウラビットと呼ばれるCランクのモンスターが居た。
真っ白でモコモコした毛玉のような見た目だが、中身はホーンラビットとよく似ている。
ホーンラビットの亜種だと言われていて、寒くて雪の降る場所に生息している。
ホーンラビットよりは動きが速いらしいけれど、ラトから見れば、どんぐりの背比べだろう。
このスノウラビットは、とても身軽な為、崖のような場所に好んで住み着く習性があり、この山は最高のコンディションとなる。
他にも、スノウバットと呼ばれるCランクのモンスターが居た。
一言で言えば真っ白なコウモリで、大きさはコウモリより少し大きい。当然飛べる。
群れを作って行動するモンスターで、スノウラビットと同様に寒くて外敵が少ない場所に好んで住み着く。
どちらも、針氷峰に居ておかしくないモンスターだったが、登り始めてから一度も見ていない。
「麓付近には居たんだから…不自然だよな?」
『僕としては、登り始めてからの方が多くなると思ってたよ。』
「だよな…」
麓では、スノウラビットとスノウバットを捕食する側のモンスターも見掛けた。となれば、巣を作る場所はこの山のどこかになるはずだ。
しかし、実際は、姿どころか足跡一つさえ見ていない。
スノウバットの巣としては、風が凌げる場所が最適なはずだ。しかし、今回休憩を取る場所にも、昨日休憩を取った場所にも、スノウバットの痕跡は見えなかった。
「ラトはどう思う?」
『多分、そんなモンスター達が近寄る事すら避ける相手がどこかに居るんじゃないかな?』
「だよなー…」
他にも理由はいくつか考えられるが、最悪の予想はそれだろう。
こんな雪山とも氷山とも言える、足場の悪さしかないような場所で、Sランク相当のモンスターにでも出会ってしまったら…
極端な話でもなく、氷壁に張り付いている時に襲われでもすれば、ほぼ回避は不可能。いい的だ。
出来ればこの予想は当たっていてほしくないところだが、こういう予想に限ってよく当たるもので…
翌日、セナの体調もすっかり回復した為、俺達は再度上を目指して壁を登っていた。
歩いたり走ったりするのとは勝手が違い、
しかし…
「こいつは…」
「高い壁ですね…」
目の前にそそり立つ壁は、今までの倍近くある。
「ここを登れば、七合目を越える…ってところだな。」
「の、登れるかな…?」
ここまで弱音を吐かなかったセナも、流石に腰が引けている。
氷壁は縦に何本も筋が入った形をしていて、凹凸は激しい。掴む場所は沢山ありそうだが…正直セナの体力が上まで続くかどうか微妙な所だ。
「上から引き上げられそうなら良いが…」
ここに来るまでの間に、何度かセナとラトを引き上げた。ただ、踏ん張れるスペースがある時にのみだったし、そんな都合良くスペースがある場所はほぼ無かった。
「平気。意地でも登ってやるから。ここまで来て諦めるなんて嫌。」
「…そうだな。休み休み登れば良いしな。」
「ええ。」
流石にここまで来られれば、壁登りもそれなりに上達するもので、ロープを壁に掛けて体を休める方法や、比較的楽な登り方が、セナにも身に付いていた。
「それじゃあ、先に行くぞ。」
「気を付けてね。」
「ああ。」
もう何度目になるか分からないが…幾度となく行ってきたクライミングをスタートする。
巨大な壁を登る時、周囲を占めるのは壁を登る俺が出す音と、風が吹き抜ける音だけになる。
ザッ…ザッ…
静かで白い世界の中に音だけが響く。
壁の半分を登った辺りだっただろうか…先に進む為に手を上に伸ばした時、今までに無かった音が俺の耳に割り込んでくる。
バサッ!
羽ばたきの音。それに気が付いた時には、かなり危険な状況に立たされていた。
音の方向を振り返り、目にしたのは、羽を広げると、十メートル近くはあるであろう真っ白なカラスの姿。
Sランクモンスター、スノウクロウ。
大陸の寒い地域でも見られるモンスターだ。
その巨体からは想像出来ない程のスピードを持ち、遠距離タイプのモンスターである。風魔法しか使わないが、上級風魔法が多い。
空を飛び、魔法で攻撃し、近寄ってきたりはしない。
カラスであるのに白いという特徴が印象的で、その最も特徴的な白い羽根は、魔法に対する高い耐性と、大抵の飛び道具を受け流す。
遠距離特化のモンスターだ。
今一番相手にしたくない相手の類に入る。
『シンヤ!避けて!』
ラトの感情が流れ込んでくる。
「っ!!」
スノウクロウの得意魔法は風魔法。どう見ても俺の事を狙っているし、このまま壁にただ張り付いていてもいい的にしかならない。
早速スノウクロウは、俺の事を八つ裂きにせんと魔法陣を描き始める。
「クァァァァ!」
スノウクロウが一つ鳴くと、魔法陣が光り出す。上級風魔法、
『下から援護するから避けて!』
「クソッ!」
ここから飛び降りても、着地出来ないし、落下中に衝撃を抑える魔法陣を描く時間など無い。
パキッ!
氷壁を蹴って、無理やり横に体を跳ばす。
「クアアァァァァ!」
ガガッ!
スノウクロウの風魔法が氷壁に当たり、ごっそりと氷が剥がれ落ちていく。
「うおぉぉっ!」
ガリガリガリガリガリッ!
体が落ちていかないように、ピッケルを氷壁に噛ませ、アイゼンで勢いを殺そうとする。しかし、氷は簡単に剥がれ、なかなか勢いを殺すことが出来ない。
こういう時の為に打ち込んでいた杭も、次々と氷から抜けていく。
「オラァ!」
ガンッ!!
ピッケルを無理矢理壁に突き刺し、落下を止める。
腕が痺れる程の衝撃に襲われるが、風魔法は避けた。そして、死んでいない。
ゴゴコッ…
スノウクロウに抉られた氷の塊が、氷壁に当たりながら下へと落ちていく。
「あっぶねぇ…」
『シンヤ!まだ来るよ!』
「刀も振れないってのに!」
「クァッ!クアアァァ!」
ゴウッ!
今度は反対側へと飛び移る。
ガリガリガリッ!
体の落下は直ぐに止められて、魔法も避けられたが、このままでは手出しが出来ない。
ニル達も下から魔法を撃ってくれてはいるものの、スノウクロウは無傷。どうにかして刀で直接叩かなければ…
「ご主人様ぁ!!」
真下からニルの声。
視線を向けると、自分の腰辺りにロープを巻き付けて、固く結んでいる。
俺に引っ張り上げろと言っているのだと分かるが…かなり危険な行為だ。
しかし…ニルと俺なら。
右手で自分の腰から伸びているロープを握ると、ニルもロープを強く握る。
「うおぉぉっ!」
パキパキパキパキッ!
ロープを強く引き上げると、打ち込んでいた杭が全て剥がれ、ニルの体が浮き上がる。
ニルの体はグングン俺に近付いてくる。その手には黒く光る魔法陣と、戦華。
ヒュッ!
ロープから手を離し、ニルの手元から伸びてきたシャドウテンタクルを握る。
「クアァッ!」
このままニルをスノウクロウの方へと持ち上げたかったが、スノウクロウも黙って見てはいない。
「ニル!」
狙われているのは相変わらず俺。
ニルを飛ばすより先に自分が回避しなければ殺られてしまう。
ニルもスノウクロウの魔法陣に気が付いたらしく、勢いが無くなると同時に、戦華を壁に突き刺し、体を固定する。
ゴウッ!
「っ!!」
ニルが踏ん張れる姿勢になったのを見て、体を壁から離す。当然、壁に触っていなければ、体は落下していく。
「ご主人様!」
大風刃が、肩口を
「問題無い!」
落ちていく俺とニルが交差し、握っていたシャドウテンタクルがピンと張る。
ガガガッ!
「っ!!」
俺の体重を支えているニルが、数メートルずり落ちてくるが、なんとか耐えられた。
「クァァァァ!」
スノウクロウがまたしても魔法陣を描いていく。
落下スピードが緩やかになったところで、壁に対して垂直になるように両足を着け、シャドウテンタクルを握りながら横へと走る。
「うおおぉぉぉぉぉ!」
シャドウテンタクルの長さは変わっていないため、俺は氷壁に弧を描くように体を走らせていく。
「クアアアアァァ!」
動いている俺に狙いを定められず、イライラしているのか、大きな声で鳴いたスノウクロウ。俺からニルへと狙いを変えたらしい。
「ニル!」
「はい!」
俺の声に反応したニルが、一切の
ゴウッ!
ガガガッ!
ニルの居た場所に大風刃が当たり、大きく氷を抉り取る。
もしその真下に俺が居たならば、落下してくる氷の塊に押し潰されていただろうけれど、横へと移動した事でその心配は無くなった。
シャドウテンタクルにニルの体重を感じると、落ちていたニルの体が止まり、そのタイミングでスノウクロウに向けて全力で腕を引く。
人が人を投げ飛ばすスピードを
「やあぁぁ!」
ザシュッ!
ニル一撃は見事にスノウクロウの片羽を捉え、大きな傷を与える。
「クアアアアァァァ!」
羽を傷付けられ、空気を掴めなくなったのか、スノウクロウがバタバタと暴れながら落ちていく。
『僕の出番だ!』
バチバチッ!
帯電したラトが、氷壁に対して光の線を作り出し、それが落下しているスノウクロウへと辿り着く。
「逃がさないよ!」
ラトの口がスノウクロウの首元を捉える。
ゴキンッ!
スノウクロウの弱点は、物理的な近接攻撃に対しては、あまり防御力が高くないところにある。
そうなれば、ラトの噛み付き攻撃に耐えられるはずもない。
骨の折れる乾いた音が響いた後、ラトの口に咥えられていたスノウクロウの首があらぬ方向へと曲がっている。
まだ息があるのか、ピクピクはしているが、羽一つ動かす事が出来ないらしい、
タンッ!
ラトは
褒めてやりたいが、今はまだ宙に投げ出されたニルを無事に壁へと導かなければならない。
既にシャドウテンタクルは消えてしまっているため、腰に繋がっているロープを急いで
ニルの体が上への移動を止めてゆっくり下への移動へと変わる。
ロープを手繰り寄せる中、ニルの顔を一度だけ見たが、心配や不安の類は一切感じない。その信頼に応えるべく、俺はロープを強く引く。
ニルの体は下へ落ちようとしていたが、横へと向かって移動し、俺の方へと向かってくる。
わざわざ俺が受け止めなくても、壁に張り付けるとは思うが、壁に叩きつけられて怪我が無いとは限らない。
ドンッ…
迫ってきたニルをロープを離した手で受け止める。
銀色の髪が微かに頬に触れる。
「助かったよ。」
「い、いえ…」
少しだけ頬を赤らめたニルを、ゆっくり壁へ張り付かせる。
「セナは…無事みたいだな。」
下を見ると、スノウクロウによって抉られた氷の塊が見えるが、セナはラトの後ろの、更に物陰に隠れていて、無事のようだ。
「危うく死ぬところだったな。」
「ご主人様。腕は大丈夫ですか?」
「軽く切っただけだ。」
「傷薬だけでも塗ってください。」
「上に行ってからでも…」
「ご主人様。」
「……はい。」
睨むような、叱るようなニルの目を見て、素直に傷薬を塗っておく。
『大丈夫?』
「軽い傷だけだ。大丈夫。」
ラトが下から心配してくれているのを感じ、それに返す。
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