第72話 海
「ゴクッ……」
アロリアさんの唾を飲む音が聞こえてくる。その目は既に蛇肉に釘付けだ。
「食べないの?母ちゃん?」
「そ、それじゃあ…頂こうかしら……はむ……っ?!!!!」
耐えきれなかったらしい。そして美味さに驚いたらしい。
目を見開いて俺の方を見ながら
「ニルも食べよう。朝からこれはちょっと重たいかもしれないが…」
「ご主人様の料理に、重たいも軽いもありません。全てが美味です。」
「真顔で言われると恥ずかしいから。」
適当に摘んで食べると、ニルもやっと朝食にありつけた。
結局、一袋の全てが四人の腹の中へと収まり切った。
「さてと…腹も満たされたし、少しアロリアさんと話をしたいから、二人はリバーシでもやって遊んでいてくれないか?」
「分かりました!」
ニルとバートは素直に聞いてくれたみたいだが、アロリアさんの顔はむしろ青ざめていく。もう逃げられないとでも思っているのだろうか。
「そう緊張しないで、色々と聞かせて欲しい。」
「は、はい…」
もう面倒だ。好きに思ってもらって構わないから聞きたい事を聞こう。そのうち誤解も解けるだろう。
「さっきは一体何があったんだ?」
「…部屋の中にずっと居ると気が滅入ってしまうので、外の空気を吸うためにバートと共に甲板へ向かったのです。
甲板でバートと海を見ていると、先程の貴族様がいらしたのですが、その……私を夜の相手にと…」
「…は?いきなりそんな事を言われたのか?」
「はい…」
ここは商船であって、
自分が貴族である事が全ての許可証だと勘違いし、街で見掛けた女の人を無理矢理連れて帰る…なんて事も普通にある。実際に見たのは初めてだが、飲み屋や冒険者達の噂でそんな事をたまに耳にしていた。
こういった意味での貴族の力は強く、もしこういった行為を行ったとしても、
「これだから貴族ってのは……断ったから体裁を傷付けられたとか言いだして、あんな事に?」
「はい…」
「断るなんて勇気があるな。」
「…バートの父、私の夫はもうこの世にはいませんので…」
「バートを守れるのはアロリアさんだけ…って事か。」
もし頷けば、彼女はあの貴族に連れていかれ、必要の無いバートは殺されるか、良くて放り出され、貧民となる。そして、そうなれば結局、人知れず静かに死んでいく事になる。それが目に見えているから何があっても頷くわけにはいかなかったのだろう。
「それに、私とバートは夫の仕事である行商を引き継いでおりまして、街を追い出される程度で済めば…」
「確実に息子が死ぬよりも、首を横に振ってどうにかなる可能性に賭けたわけか。母は強しだな。」
実際にあの貴族は一先ずだとしても彼女からは離れてくれた。
「理由は分かった。それで、これからどうするつもりなんだ?」
「………」
アロリアさんの顔はとてつもなく暗くなる。
この商船の中に居る以上、あの貴族と顔を合わせる可能性は高い。今回の事を不快に思った貴族が二人を探す事にした場合を考えれば、自室に居る事も出来ない。
貴族の男を断った時点で、ある程度彼女達の今後は暗くなってしまった。それが分かっているから、どうする事も出来ずこうして暗い顔をして黙っている。
「もし良かったら、少し狭いが到着までこの部屋で隠れておくか?」
「えっ?!い、いえ!」
「二人に手を貸した時点でこれくらいの事は覚悟しての事だし、このまま放り出すなんてこともしたくはない。さっきから何度も言っているが何かが欲しいわけでもない。無理にとは言わないが、バートのことを考えたらこれが一番良いと思うが?」
「ですが…もしあの貴族の方に見付かりでもしたら…」
「最後にこの船を降りるまで、二人はこの部屋から出られなくなるが、それでもあの男と顔を合わせるよりずっと良いだろう?」
「………本当によろしいのですか?」
「俺とニルは構わない。バートも、暇はしないだろうしな。」
ニルとリバーシを真剣にやっているバートに目をやると、アロリアさんも釣られてバートを見る。それで決心が固まったみたいだ。
「あの…よろしくお願いします!」
「決まりだな。ニル。」
「はい?」
俺の声に反応したニルとバートがこちらを見る。
「船が向こうに着くまでの間、アロリアさんとバートをこの部屋に泊める事にした。そのつもりでよろしく頼む。」
「分かりました。」
「え?!良いの?!」
「ああ。暫くの間よろしくな。」
「うん!ありがとう!シンヤさん!」
バートが満面の笑みでお礼を言ってくれる。まだ小さい男の子だが、自分達の状況をなんとなく理解しているのだろう。子供というのは思った以上に賢いのかもしれない。
俺とニルも付き合って、客室での時間が過ぎていく。アロリアさんも、この客室に泊まると決めてからは気を許してくれたのか、よく笑い、一緒になってリバーシを楽しんでいた。
予定では航海開始から五日程度で辿り着く。明日か明後日か分からないが、随分と近くまで来たはずだ。ここに閉じ
翌日。その日は朝から天気が悪く、空は厚い雲で覆われていた。
常に共に居るのも気を使わせてしまうため、俺とニルは定期的に甲板に出ていた。
「今にも振り出しそうですね。」
「海が荒れないと良いけどな…もう直ぐ着くはずだし、それまで天気が持ってくれるといいが…」
どんよりとした空模様を見ながらニルと話をしていたが、俺の願いは日が沈む頃には打ち砕かれてしまった。
ギギギギギギ…
「凄いな…」
船が軋み、大きく床が傾く。リバーシもやっていられる状況ではない。
「船酔いが再発しそうです…」
四人共壁に張り付き体を固定しなければ居られない程だ。船室の小窓から見える海は完全な闇で、窓に打ち付ける暴風雨に、たまに雷まで鳴っている。
船の耐久性は分からないが、木造の帆船ともなると絶対に安全とは言えないだろう。
「母ちゃん。」
バートは母親の元に行き、その手を握る。
しかし、恐ろしくて母を頼ったのとは違う。どちらかというと自分が守らなければと言いたげな目をしている。不思議な子だ。
「ニル。少し良いか?」
「はい?」
「もしもの時の為に、馬車だけ仕舞ってくる。」
「分かりました。」
インベントリの事を伝えていない為、アロリアさんとバートは何を言っているのか理解出来ないでいたが、聞いてはこないし説明する必要も無さそうだ。
大きく揺れる船内。この体でも歩いて船倉まで辿り着くのは一苦労だ。馬車が壊れていないと良いが…
二分で辿り着けるはずの船倉に十分以上かけて向かい、中を見ると、今のところ被害は出ていない様だ。
人とは違い馬以外は船にしっかりと固定出来るため、人よりむしろ安全かもしれない。
インベントリ内に馬車を収納した後、船倉から出ると前の曲がり角から現れる大きな影。
「おいっ!俺様を支えるのである!ブヒィ!」
従者二人を連れた例の男が壁に張り付いてフラフラと通路を進んでくる。従者二人も支えるどころではなく、立っているのもやっとに見える。
面倒な相手に鉢合わせてしまったと思ったが、下を向いてさっさとすれ違えば関係ないかと足を進めていく。
「チッ!使えない奴らであるな!」
「……………」
「あっ!そこのお前!」
俺が進んでくるのを見つけた貴族の男が声を掛けてくる。
関わりたくないと思っている時に限って関わってきやがる。
「俺様を船倉に連れていくのである!ブヒッ!」
冗談ではない。俺は船室に帰る!と言いたいところだが、あまり事を荒立てたくはないし…
そう思って顔を上げて、その貴族の顔を見た俺は一瞬固まってしまった。
緑色の髪に緑色の瞳。悪趣味ともとれる豪勢な服の下にはだらしなく飛び出した腹。髪の中に見える垂れ下がった肌色の耳。ブタの獣人族の男。
忘れもしないクズの貴族。俺がこの世界で貴族嫌いになった元凶。イガルド-ナイサールその人だった。
獣人族の街、デルスマークにおいて聖騎士の引き込みや、その他
「おい!早くするのである!」
「……よう。ナイサール。楽しそうじゃないか。」
「??」
俺の顔を見ているが記憶には無いらしい。ゲーム時の事だし、ただの冒険者風情を覚えているわけもないか。
「誰であるか…?」
「プリトヒュが会いたがっていたぜ?クソ貴族様。」
「ブヒィッ?!こ、こいつは!おい!俺様を守るである!」
「こんな所で会うなんて奇遇だな。確実に捕まえてプリトヒュの所に送り付けてやるよ。」
「ブヒィィッ!」
ギギギギギギ!
足を踏み出そうとした瞬間に、今までで一番大きな揺れが訪れる。咄嗟に壁の
「ブヒィィィィ!!!」
傾いた船内の床を転がっていくナイサール。従者の二人もナイサールを追うように床を滑っていく。
「逃がすか」
ベキベキバキッ!
ナイサール達を追いかけようと、体感でほとんど垂直になった床を蹴ろうとした時、木造船の中で最も聞きたくない音が全身に伝わってくる。
バキバキバキッ!
バシャバシャ!
大きく傾いていた船体が水平になり、通路の壁から海水が噴き出してくる。
「急げ!早くしろ!」
「こんな状況で修理なんて出来るかよ!」
「出来なきゃ全員死ぬんだぞ!生きたきゃ意地でも直せ!魔法も使いまくれ!」
未だ揺れの止まない船内、その船底側から船員達の叫び声が聞こえてくる。
「これは本気で危険な状況らしいな…」
ナイサールを追っている場合ではなさそうだ。俺は事が大きくなる前に急いでニル達の元に戻る。その間も揺れと木材が割れる様な音が船内に響き続けている。
「ご主人様!ご無事でしたか?!」
「なんとかな…」
船室に戻ると直ぐにニルが声を掛けてくる。
アロリアさんとバートは抱き合い、不安そうな顔をしている。先の状況を見て、安易に大丈夫なんて言っても信じないだろうし、変に危機感を失って対処が遅れたらそれこそ危険だ。
「全員落ち着いて聞いてくれ。」
「…………」
「今この船はかなり危険な状態にある。通路に居た時外部から浸水してきていた。」
「そんなっ!!」
アロリアさんはバートを強く抱きしめる。
「焦らず俺の言う通りにしてくれ。」
出来る限り落ち着いた声で言うと、アロリアさんも俺の目を見て頷いてくれた。
「とりあえず、離れないようにロープで互いを強く結ぶんだ。」
インベントリから出したロープを自分の腰に巻き付け、結び、アロリアさんに渡す。
「はい!」
アロリアさんは自分とバートが離れないように、強く固く結び、ニルに手渡す。
バキバキバキバキッ!
「っ!!」
大きな揺れを感じる度に嫌な音が大きくなっている。
「ご主人様出来ました!」
「よし。水の中に入っても息が出来る様に、それと衝撃から守れる様に魔法を掛ける。」
揺れて魔法陣が上手く描けない。
バキバキバキバキッ!
「っ!!」
俺達の船室。その船首側の壁がけたたましい音を上げながら剥がれていく。
「ひぃっ!!」
アロリアさんが怯えた声を出してバートに被さる。
剥がれた壁の向こう側には、真っ二つになった船体の片割れ。その中に見える僅かな灯りと、船客や船員達。
雷が光ると、千切れた船体が漫画でしか見たことの無いような、信じられない大波の中に見える。波の高低差は何十・・・いや何百メートルあるか分からない。
波の中には助けを求めているであろう人々や、船倉に居た馬や荷物が浮かんでいるが、打ち返す波の中に消えていく。
ザバザバザバッ!
剥がれた壁の部分から大量の海水が入り込んできて、俺達の体は上も下も分からない
船の残骸や船自体にぶつかったりはしなかったみたいだが、自分の体がどうなっているのかも分からず、聞こえてくるのは水のゴポゴポという音だけ。
目を開いても暗すぎて何も見えないし、ニル達が無事かも分からない。
このままでは確実に
指先にだけ集中し、魔法陣を描いていく。
唐突な水中へのダイブで、肺の中にはほとんど酸素が残っていない。
苦しい…
それでも俺達を結んでいるロープが切れていなければ、この魔法で全員が助かるかもしれない。
意地でも描き上げなければ。
ダメだ…もう…苦しい…
体内にある空気が口から水中へと吐き出され、代わりに海水が入って来る。
苦しさで意識が薄れていく中、魔法陣の最後の一文字を描くために指を動かした。
そこで意識は刈り取られ、真っ暗な闇の中へと落ちていく。
ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー
暗い……
ここは…
魔法陣は完成したのだろうか…
…いや…死んだのか…?
「生きて…」
母さん…?………違う……誰なんだ……?
真っ暗な闇の中、女性の声が聞こえる…気がする。
必死にその声の方向に手を伸ばしてみるが、自分の手さえ見えない。
「……………ま!」
今の声とは違う、誰かの声がする。
「…………様!!」
今度は間違いなく声が聞こえる。よく知った声だ。とても落ち着く声。
「ご主人様!!!」
薄く開いた視界の中に、銀髪の美女が移り込む。
泣きそうな顔に、ずぶ濡れの髪。その先端から落ちてきた水滴が頬に当たると、胃を何かが逆流してくる
「っ!げほっ!ごほっ!ゴポッ!」
胃から逆流した液体が口を通過してそのまま排出されていく。
「ご主人様!ご主人様ぁ!」
震える声で俺の背中を必死に
「ごほっごほっ!あぁー……」
一通り胃の中身を吐き出すと、やっと吐き気が消える。
「よかった…ヒック…よかったですぅ…」
ボロボロと涙を流すニル。自分がたった今死にかけていたとその時初めて認識した。
「……ニル…」
「はいぃ…ヒック…」
「無事で良かった……それと、助かったよ…ありがとう…」
「うぅ……」
何度も目を手でこすり、涙を拭うニル。起き上がって頭を撫でてやるくらいしてやりたいが、体が思うように動かず、ずーんと重い。
俺達だけでなく、船の残骸の一部や、荷物もいくつか流れ着いている。
「そうだ!アロリアさん達は?!」
「ヒック…大丈夫ですぅ…」
ニルの後ろ側を見ると、アロリアさんとバートが仰向けに寝ている。全身ずぶ濡れだが、二人とも胸部が上下している。
「ふぅ…良かった。」
「うぅ…ご自分の心配をなさってくださいよぉ…」
未だ涙が止まらないニル。体が重いが、少し無理して上半身を起こし頭を撫でてやる。
「すまんすまん。皆無事で良かった。」
「はいぃ…」
ニルの涙が落ち着いた頃、アロリアさんが意識を取り戻す。
「くぅ…」
「アロリアさん!大丈夫ですか?!」
「………………ここは…っ!バート!!」
「うっ…」
アロリアさんが真横に寝ていたバートを見つけ、揺り動かすと、意識を取り戻す。
「母ちゃん…?」
「バート!!」
胸を撫でおろすよりも先にバートを抱きしめるアロリアさん。本当に二人とも無事で良かった。アダプテーションウォーターが上手く発動してくれたのだろう。最後の一瞬で描き上げる事が出来てよかった。
「まさかあんなに大きな帆船が
あれだけの大波となると相当の圧力を生み出すし、木造船くらいならばバラバラに出来るかもしれない。もしくは何かに
「あれだけの事があったのに、生きているというだけで有難いさ。」
「……そう…ですね。」
浜辺を見ると、荷物に混じって死体がいくつか流れ着いている。それに綺麗に全身が残っている死体の方が珍しい。
その中で大した傷も無く助かったなんて奇跡としか表現できない。
「それより、ここは一体どこの海岸だ?」
「………私達は何度かこの海域を横断しておりますが、このような風景は見たことがありませんね…」
砂浜から数メートル中に入った場所には、木々が生い茂っているのだが、見たことも無い木だ。
幹は左右に大きく波打ち、その色はレモンイエローの油絵具のような色。それに対して異常なまでに直線的に伸びる枝と、その先に広がる葉は、目が痛くなるような鋭い蛍光色の緑色。
「あんな毒々しい木は俺も見たことが無いな。」
「これからどうされますか…?」
「どこに流れ着いたのかは分からないが…陸地に居る事は間違いない。この海域には島も無いし、目的地からそう離れた場所ではないだろう。少し歩けば見知った場所に出るかもしれない。」
普通、
「何があるか分からないから、ニルはアロリアさん達とこの付近に待機していてくれ。俺が何かないか周辺を見てくる。」
「分かりました。」
「森には近付くなよ。」
「はい。」
この世界には結構面倒な植物系のモンスターも存在する。あからさまに怪しい森に入るのは周辺を探索してからでも遅くはない。俺は一人で海岸沿いに陸地の探索を開始した。
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