第8話_愛おしく思うほど
梅雨だからってずっと雨や曇りが続くわけじゃない。今朝は青空が綺麗で、ようやく洗濯物が外に干せるって思いつつも、ちょっと嫌だなって思ってた。案の定、二人で朝食と洗濯を済ませてのんびり過ごしていた時間に、けたたましいサイレンの音が鳴り響く。
「
「うん、雨戸閉めてね。行ってくる」
立ち上がった彼女を私はただ見上げた。響ちゃんは優しい目で私を見下ろすと、安心させようとするみたいに軽く頭を撫でて、それから玄関に向かっていく。そんな彼女を玄関先まで見送ることも出来ない。避難指示が出ている間、無用に身体を外に晒してはいけないからだ。
「……行ってらっしゃい」
サイレンの音に掻き消されて、きっと響ちゃんには届かなかった。私は唇を噛み締めながら素早く立ち上がると、全ての雨戸を閉ざして外の光を遮断した。唯一入り込む光は玄関扉の擦りガラスからのものだけ。私はその光からも逃げるみたいに、居間の奥に座り込んだ。
ラジオは、今日出動となる十一名の霊付きが全員到着したことを知らせていた。今日は『精霊付き』が一名入っているから、人数はいつもより若干少ない。そういう力の配分も、グループ分けでは考慮されているようだ。手癖のように、テレビの電源を入れる。映像より先に音が聞こえて、驚きのあまりやや仰け反った。映像は滅多に流れないこともあり、大体は無駄だろうと思って電源を入れているので予想外だった。今日は映像があるらしい。私はラジオの電源を切って、テレビを食い入るように見つめる。
今までならただただ遠い『救世主』でしかなかった
「何か……なに、今日、……多くない?」
響ちゃんの姿ばかりを目で追っていた私は、不意に、違和感に気付く。いつもよりも、空から現れるあれの数が多い気がする。精霊付きが出てる日なんて、もっと楽そうに戦っていなかっただろうか。戦いを毎回見られるわけじゃないので記憶の中で比較してみたって、対象は幾つも無いけれど、とにかくそんな印象があった。私の心臓の音はどんどん、うるさくなる。
突然の悲鳴は、私の口からじゃなくて、テレビから漏れた。霊付きそれぞれの撃破数を淡々と告げていた声が、恐怖を帯びたただの音になる。腕に鳥肌が立って、ぴりぴりした。一目では数え切れないような数が、何かを合図にしたみたいに一斉に響ちゃんに襲い掛かったのだ。カメラは建物外部に設置されたものを遠隔操作している為か、映す角度を大きく変えることは出来ない。あれらに
『椿の女神が集中的に襲われています、状況は分かりません。他の霊付きも、いつもより多い敵の数に対応し切れておりません。椿の女神を襲う敵の数は増える一方です、状況は依然として――あっ!』
実況者が息を呑むと同時に私も息を呑む。異常なほどあれらが集まっていた場所が一瞬眩い光に包まれると、次の瞬間には全て灰になっていた。真っ赤な炎みたいに揺らめく何かが、鳥のように羽ばたいて移動して、一つのビルの上に止まる。カメラがその姿に焦点を当てた。
『椿の女神です! 無傷です、新しい神霊を見せました!』
また交代させられるんじゃないかってくらい、実況者は音が割れるまで興奮した声を聞かせた。響ちゃん自身が燃えているようにも見える姿だけど、服は燃えている様子が無いし、実際の火とはまた違うものなのだろうか。二つあった炎の翼がもう一対増えて四つになると、多くの光が響ちゃんから発射された。飛び散った光は、正確にあれらを射抜いて行く。
『椿の女神、新しい神霊によって一瞬で約二百体を撃破しました! 敵勢力、撤退して行きます!』
穴へと戻ろうと離れて行くものも、響ちゃんは容赦なく同じ光で撃破していく。最終的には、三百近く撃破したと実況者が告げた。他の霊付きにも、死傷者は無いとのことだ。ただ、建物が幾つか、響ちゃんの放った光の影響で燃えているらしい。水を扱える霊付きが、消火に向かっているのが映された。
『おそらくあの神霊を今まで温存していたのは、この事態を彼女も予測していた為でしょう。しかし、今回は温存出来る状況ではありませんでした。判断は正しかったものと思います。避難指示が解除され次第、連携して消火活動の必要があると――』
その後も実況者が、椿の女神が持つ神霊についてあれこれと解釈を述べている間に、空の穴は閉ざされ、消えていた。残党も居ないようだ。今日出撃した全ての霊付きの撃破数が順に述べられた後、避難指示の解除が告げられた。防災無線からも、同じく解除のアナウンスが流れ始める。砂嵐になってしまったテレビの電源を切り、私は急いで立ち上がった。響ちゃんが帰ってくる。出迎えよう。そう思ったのだ。しかし玄関へ向かおうとした瞬間、雨戸を閉ざしたままの縁側でごとんと音がした。一瞬で心臓が冷える。
「ああ、まだ閉めてるか、
「え」
見落とされた残党でも来たのかと思った。どくどくとうるさい心臓のせいでちょっと耳鳴りがするが、私は慌てて雨戸を開ける。のんびりとそこに腰掛けている響ちゃんが、私を仰ぎ見て目尻を下げていた。
「ただいま」
「おかえりなさい。もう、響ちゃん、どうして玄関から帰って来ないの」
「あー、ごめん。庭の方が、着地しやすくて」
そういうこともあるのか。確かに玄関前のスペースより、庭の方が広い。椿の花びらを纏っている時の響ちゃんは、時々花びらそのものになるみたいに消えて、全然違うところに姿を見せる。自在に移動して、空まで飛んでいるように見えるけれど、何かしら制限や範囲があるらしい。勝手に納得していると、響ちゃんは縁側にそのままごろんと身体を横たえる。背中の真ん中から上だけが部屋に入り込んでいるような状態だ。
「そんなところで寝たら、身体、痛めちゃうよ」
「うーん」
口元は柔らかく弧を描いて、涼しい顔をしているように見えるけど、動くのを億劫そうにしている。私は出動前と何も変わらない彼女の姿を、何往復も、目で確認した。
「……本当に、怪我は無いの?」
「うん、無いよ」
「良かった、……襲われたの見た時、……もう」
ゆっくりと実感できた安堵と共に、目の辺りが熱くなる。震えてしまった声と、私の表情に、響ちゃんは目を瞬いた。
「ああ、そっか、今日は映像があったの? タイミング悪いなぁ。……驚かせてごめんね」
のんびり伸びてきた手が、近くにあった私の手を慰めるように撫でてくれる。変わらない体温に、またほっと息を吐いた。
「でも疲れちゃった。あー、ご褒美ほしいなぁ」
「何? ごはん?」
「ううん、ソファ行こ」
何かこう、甘い誘いに聞こえるんだけど、私の頭が煩悩に溢れてるせいだよね、多分。
とか考えて無心に流されたら今どういうことになってるかって言うと、響ちゃんを腕に抱いて、ソファに座ってるんだよね。え、何これ。響ちゃんは額を私の首筋に押し当てているので表情が分からないけど、何だかご機嫌な気配を漂わせている。
「んー、落ち着く」
「そう……?」
少なくとも私はとんでもなく落ち着かないんだけど。それに心臓がすごいことになってる。これ聞こえてないのかな。聞こえてたら何て言い訳したらいいんだろう。でも私の胸中なんて知らないんだって証明するみたいに、響ちゃんは心地いい場所を探してちょっと身じろいだ。うわ柔らっか……。
「由枝ちゃんが抱き締めてくれるの安心するよ、雷の時も、あー……そういえば、ちゃんと言ってなかったかな、ありがとう」
胸の奥がぎゅっと苦しくなった。怯えてる響ちゃんに何にもしてあげられなくて、抱き締めるくらいしか出来なくて、家に引き込んだことだって何か意味があったのか、今でも分からないと思ってた。でもちゃんと意味があって、響ちゃんの慰めになってた。それが私には堪らなく嬉しい。
「いい歳した大人が、何言ってるんだって話だよね」
「そんなことない」
強く抱き締めれば、もうすっかり理解しているはずなのに改めてその小ささに驚いてしまう。女の私から見てもこんなに華奢で頼りない身体なのに、この人は誰よりも身を危険に晒して戦ってる。頭の中で、戦っていた響ちゃんの姿がぐるぐる再生された。
「甘えたくなったらいっぱい甘えてよ。響ちゃんが一番苦しい思いしてるんだから、誰にもそんなこと、言わせないよ」
私の言葉に響ちゃんが腕の中でちょっと笑った。え、今の笑うところだったかな。急に恥ずかしくなってきた。だけど小さく「ん」と返事をした声が何だか甘えた色をしていて。またきゅうっと胸の奥が詰まった。
「じゃあ、ちょっと休憩」
響ちゃんの手の平がするりと私のこめかみから顎の下までを撫でる。頭を撫でようとしたのか何をしようとしたのか分からないけど、響ちゃんって時々こうやって、少しどきどきする触り方をする。何にも意識してないのだけは伝わるから、指摘のしようがない。
そのまま響ちゃんは私の腕の中で改めて力を抜いて、一休みの体勢を取る。可愛い。私の心臓の音、邪魔じゃないかな。身長差のせいで結構、私の胸が近い位置にあると思うんだけど。聞こえているのかを確認したいけど、尋ねてしまえばどきどきしてるって白状することになるから出来ない。響ちゃんの頭が完全に私の顎の下に入っているので表情も分からないまま、ものの五分で響ちゃんは眠っちゃった。ずるりと落ちていく頭を緩く手で支えて、体勢を落ち着ける。触れ合う部分はじわじわと熱を持って汗ばんだ。暑いと思うけど、響ちゃんはこれでいいらしい。とりあえず手を伸ばして届く位置にあった
こんな全幅の信頼を得て、いよいよ、私の邪な想いなんて、告げられるわけが無いと思った。
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