義妹へ会いに行こう! その9

 とっくに日もまたぎ、いつもならすでに夢の中にいる時間。

 ラングロワ侯爵邸で開かれている歓迎の宴は未だ続いていた。

 煌々こうこうと燭台の明かりが漏れる大広間から遠く離れた屋敷の片隅。まるで別世界のように薄闇と静寂に支配された部屋にその声は響いた。


「遅くなって申し訳なかったわ、ヴェーラ。あとは私が代わるから、あなたは少し休みなさい」


「ありがとうございます。それでは少し仮眠を取らせていただきますので、少しの間お願いします」


「了解よ。――あぁ、そうそう。今夜は私たちにもご馳走が振舞われているの。もうこんな時間だから食べられないかもしれないけれど、休む前に厨房へお寄りなさい。母乳のためにも、あなたはたくさんの栄養を摂らければならないのだから」


 ここはエミリエンヌの長男――フェリクスの育児室。

 宴の喧騒さえほとんど届かぬ静かな部屋に、二人の女性の姿があった。

 一人は専属乳母のヴェーラ。そしてもう一人は夜番メイドのアメリ。いまは二人が束の間の交代をするところだ。


 生後一ヵ月の乳児の場合、母乳を飲ませる間隔はおおよそ2~3時間おきになる。そのためヴェーラは片時もフェリクスから離れられなかった。

 とは言うものの、ヴェーラは自身の子――生後二ヵ月の女の子であるフェリシーの世話もしなければならないので、夜間の数時間を夜番メイドに任せることにしていたのだ。


 次の授乳までの数時間、ヴェーラは入浴と食事、そして仮眠のために部屋を出ようとする。

 するとその時、突然背後から何者かに身体を押さえつけられてしまう。咄嗟に背後を振り向くと、そこには見たことのない黒装束の男がいた。


「な、何者!?」


「なんですか、あなたたち! ここをフェリクス様のお部屋と知っての狼藉ですか!?」


 少し遠くを見ると、必死に身を捩らせながら叫ぶアメリがいる。彼女もまたヴェーラ同様に黒装束の男に羽交い絞めにされていた。

 そんな二人に向かって男が囁く。


「静かにしろ。声を上げるな。言うことを聞かねば、このガキが血を流すことになるぞ。それはお前たちも望むまい」


「くっ……!」


 咄嗟に言葉を飲み込むアメリ。同時に周囲へ視線を走らせた。

 見たところ賊はこの二人だけのようだ。部屋の外に護衛の騎士がいることを鑑みれば、こいつらが入口から堂々と入ってきたとは考えにくい。

 かと言って、ほかには防犯を考慮した小さな明り取りの窓が幾つかあるだけなので、そこから侵入したとも思えなかった。


 全身を覆う異様な出で立ちと、全く油断も隙もない佇まい。その「只者ではない」感は、荒事とは無縁のヴェーラやアメリにも一目でわかるものだった。

 そんな者たちを相手にして、自分たちになにかできるとも思えない。それでも抵抗を試みるヴェーラに向けて男が剣を抜き放った。


「おとなしくしろと言ったはずだ。それ以上なにかしようとするならば、容赦なく斬り捨てる」


「ひっ……!」


 小さな燭台の明かりが灯る薄暗い室内。ともすれば足元さえも覚束ない薄暗闇の中に、その特徴的な湾曲刀がぬめりと光る。

 思わず息を飲む乳母とメイド。その二人に向けて、男が覆面の中でにやりと笑った――ような気がした。


「安心しろ、なにもこのガキを殺そうというのではない。ほとぼりが冷めるまで暫し預かるだけだ。時が来れば無事に返すと約束しよう」


「な、なにを! お前たち、賊の言うことなど信用できるわけ――」


 勇ましくも反論しようするアメリ。気の強そうな吊り目がちの瞳を細めて、ジッと男を睨みつけた。その彼女に向かってぼそりと男が呟く。


「静かにしろと言ったはずだ」


 たった一言そう告げると、一欠片ひとかけらの躊躇もなく男が剣を突き出した。同時にアメリの口を手で塞ぐ。

 瞬間見開かれる青い瞳。その透き通る輝きの中には、憤りとも驚きともつかない光が灯っていた。


 盛大に血飛沫を上げながら、それでいて物音一つ立てずに倒れるメイド。力なく地に伏した身体には、もはや生命の輝きは見当たらなかった。

 こうして哀れなアメリは、悲鳴一つ上げることさえ許されずに25年の生涯を閉じたのだった。

 

 今や身動みじろぎ一つしない元同僚だったもの。ただの肉塊と化したそれを、これ以上ないほど目を見開いてヴェーラが見つめる。

 その様に男が見下したような視線を向けた。


「お前もだ。命が惜しくば静かにしていろ」


「ひっ……!」


 とっくにヴェーラは抵抗する気を失っていた。

 守るべきはフェリクスただ一人。己が命を賭してでも守らなければならない存在ではあるものの、今の彼女にはどうすることもできなかった。

 大声を上げれば外に控える騎士が駆けつけてくるに違いない。けれど、その結末を想像すると身の震えが止まらなくなる。


 これほど厳重に守られていながら、難なく部屋の中へ潜入してきたのだ。この男たちが相当な手練れであるのは間違いない。ならば騎士たちが到着するよりも早く、一撃で斬り捨てられるのは目に見えていた。いや、それどころか、追い詰められた男たちがフェリクスを害する可能性すらある。

 そんな諦めにも似た感情に支配されたヴェーラは、その場に座り込んで動かなくなってしまうのだった。



「さぁ来いガキ。いいか、泣くなよ……」


 父親譲りの金色の髪と、母親譲りのやや気の強そうな整った顔。

 己に危機が迫っていることさえ知らずに、愛らしい寝顔を晒してすやすやとフェリクスが眠り続ける。その彼に黒装束の男が手を伸ばそうとした瞬間、それは聞こえてきた。


「ギギギ……」


「なんだ?」


 人の声とも獣の唸り声ともつかない不可思議な音。例えるなら、建付けの悪いドアを無理にこじ開けた時のものだろうか。

 そんな生理的嫌悪感を覚える音が、思いのほか近いところから発していたことに、男が怪訝な顔を隠せない。それでも無造作にフェリクスに手を伸ばしたとき、それ・・は動いた。


「ギギギ……」


 薄闇広がる部屋の中に、ゆっくりと、そしてのっそりとその身を持ち上げた何か。

 見ればそれは、フェリクスの枕元に置かれたぬいぐるみだった。

 大きさは赤ん坊と同じくらい。二本の長い耳と思しきものが生えているところを見ると、どうやらそれはうさぎを模しているらしかった。


 それにしては不気味すぎる外観が気になる。

 決して庶民には手が届かない、高級なタオル地で作られた手触り最高のぬいぐるみ。けれどその外観が全てを台無しにしていた。

 

「な、なんだ貴様!」

 

 思わず声を漏らす黒装束の男たち。もちろん人形が答えを返すわけもなく、ただひたすらに不気味な声を上げるばかりだ。

 それからすっくとフェリクスの前へその身を晒した。


「ちっ……邪魔だ!」


 男がぬいぐるみを手で払いけようとする。

 無造作に伸ばされる男の手。それを人形が器用に掴み上げた。


「ぐあぁぁぁぁ!」


 突如上がる野太い悲鳴。

 見ればぬいぐるみが男の手を握り潰していた。

 メリメリ、バキバキと音を立てて男の腕を引き千切ようとするうさぎの人形。堪え切れずに漏れた男の悲鳴を聞いて、ついにフェリクスが目を覚ました。


「ふぇ……ふぇ……ふぇぇぇ! ふぁぁぁぁぁん!」


 細く、可愛らしいフェリクスの泣き声と、男の野太い断末魔の悲鳴。

 その相反する声のどちらもがやかましく響いたその直後、部屋の扉が勢いよく開かれたのだった。



「なにごとだ! 一体なにがあった!?」


「おい、ヴェーラ! なにが……!?」


 まるで蹴破るような勢いでドアを開けて、二人の護衛騎士が部屋の中へと入ってくる。けれど彼らはその直後にたじろいでしまう。

 なぜなら、目の前の光景があまりに理解を超えていたからだ。


 まずはおびただしい血を流して倒れる一人のメイド。恐らくすでに事切れているのだろう、彼女は身動ぎ一つしていなかった。

 それはいい。それはまだいい。なんとその横には、悲鳴を上げながら床を転げ回る男がいたのだ。赤子と同じくらいの小さなぬいぐるみに、半ば腕を引き千切られて。


 残った一本の腕を駆使して、必死に男がぬいぐるみを払い除けようとする。

 騎士たちがその光景を呆然と眺めていると、もう一人の男が騎士たちに襲い掛かってきた。


「クソが! 邪魔だ、どけぇ!!」


「な、なんだ貴様は! 賊か!?」


「なんでもいい、とにかく捕らえろ!」


 号令一下、剣を構える騎士たちと、すでに血まみれの湾曲刀を振り下ろしてくる黒装束の男。彼らが二対一の状態で二合、三合と切り結んでいく。

 しかしさすがに一筋縄ではいかない。同時に二人の騎士を相手にしても、男は一歩も下がらなかった。いや、あまつさえ大幅に上回る手数によって騎士たちを圧倒し始めたのだ。


 産まれたばかりの赤ん坊ではあるものの、フェリクスはこの家の最重要人物だと言っていい。そしてその護衛を任されているのだから、騎士たちも決して弱いわけではなかった。

 それどころか、並み居る騎士たちの中から選りすぐられた、騎士中の騎士と言っても過言ではなかったのだ。

 その彼らにして苦戦を強いられていた。それも二対一であるにもかかわらず。


 続けて十合、二十合と斬り結んでいくうちに、騎士たちの顔に焦りが生まれてくる。

 思えば応援を呼ぶのを忘れていた。いや、正確にはそんな暇などなかったのだが、それでもその事実は彼らの肩にずっしりとし掛かってくる。


 このまま男に押し切られるなど、なんたる失態か。

 護衛の任に就いていながら、賊の潜入を許した挙句にメイドを一人殺されたのだ。それだけでも度し難いというのに、このまま倒されてしまえば更なる恥の上塗りになる。


 その結果、フェリクスの拉致を許してしまうことになるのだ。

 それだけは絶対に許されない。けれど斬り結べば結ぶほど、彼我の実力差は如何ともし難かった。

 そんな焦りにも似た感情に騎士たちが襲われていたその刹那、部屋の中に断末魔の叫びが轟いたのだった。



「ぎゃぁぁぁぁぁ!!!!」


 目の前の状況すら忘れ果て、咄嗟に視線を走らせる騎士たちと黒装束の男。するとその視界に信じられない光景が飛び込んでくる。

 たらたらと血の滴る男の生首。それをうさぎのぬいぐるみが頭上高く持ち上げていた。

 降り掛かる血で真っ赤に染まりながらも、胸を張り、得意そうにも見えるその様は、どこか勝ち誇っているようにさえ見えた。


「ちっ……」


 黒装束の男が小さく舌打ちをする。

 なにを思ったのか、今や死体と化した相棒を確認した彼は、そのまま一直線にフェリクスの方へ向かって走り出した。

 赤ん坊を人質に取ろうとしているのは間違いない。

 これは面倒なことになる。そう思いつつも、追いかける以外になにもできない騎士たちがそれでも必死に追い縋ろうとしていると、不意に黒装束の男が立ち止まった。

 これ幸いとばかりに騎士たちが確保しようとしていると、再びそれは聞こえてきたのだった。

 

「ギギギ……」


 思わず耳を塞ぎたくなる気味の悪い声。やはりそれはうさぎのぬいぐるみだった。

 今や血をたっぷりと吸い込んだ全身は、強く押せば血が滲み出てきそうにも見える。いつの間に移動したのか、男とフェリクスとの間に人形がその身を晒した。


 背筋を伸ばして両腕を広げ、通さぬとばかりに大股に脚を開いて立ち塞がる不気味なうさぎ。それに向かって男が剣を振り下ろそうとしたとき、部屋の中が真っ赤に染まった。


「ぎゃぁぁぁぁぁ!!!!」


 再び響き渡る野太い悲鳴。

 もちろんそれは黒装束の男のものだ。気付けば彼は、真っ赤な炎に包まれていたのだ。

 火を消そうと必死に男が床を転がり回る。しかし彼は最後まで消すことはできなかった。そしてそのまま燃え盛る炎の中で絶命したのだった。


 絨毯と壁に燃え移った炎を騎士たちが必死に消し止めようとしていると、途中からヴェーラも手伝いに入ってくる。

 どうやら彼女は気を取り直したらしく、燃え盛る炎の鎮火に必死に手を貸していたのだった。



 その後炎は駆け付けた応援によって無事に消し止められた。

 しかしその原因となった小さなうさぎのぬいぐるみを見ても、そこにはただの不気味な人形が転がっているだけだ。

 手練れの男たちを難なく屠った姿はすでになく、半ば血が乾き始めて赤黒く変色した気味の悪い姿を晒していた。


 それを見ていると、少し前の出来事がまるで夢のように思えてしまう。

 しかし騎士たちは見ていたのだ。不揃いな指が生えるぬいぐるみの掌から、巨大な炎の塊が生まれ出たのを。


 あれは間違いなく魔法だった。

 遠い昔、騎士見習いの頃に一度だけ見せられた攻撃魔法の実演。あれはその時の火炎弾ファイヤーボールそのままだった。

 いや、正確に言うなら、ぬいぐるみが放った炎の塊は、魔術師が放ったそれよりも二回りは大きかった。それが記憶違いでなければの話だが。


 一体これはなんなのだろう。誰がこんなものを作ったのだろうか。

 恐らくフェリクスの身を案じた誰かの手によるものなのだろうが、それにしても不気味過ぎる外観は、もはや呪いの人形としか言いようがない。

 いくら有用であったとしても、こんなものを枕もとに置いてしまえば、赤子の情操教育に悪影響を与えるのは間違いなかった。


 そんないささか場違いとも思える感想を騎士たちが抱いていると、突然それは聞こえてきた。


「た、大変だ! 若奥様が……若奥様が連れ去られた! 黒装束の男たちに攫われてしまった! 誰か助けを呼んでくれ!!」


 悲鳴やら怒号やらが飛び交う、阿鼻叫喚のラングロワ侯爵邸。

 その最中さなかでもぐっすりと眠り続けるフェリクスを抱きながら、専属乳母のヴェーラは再びその身を震わせたのだった。

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