第269話 知りたくなかった名前
ブルゴー王国軍と激戦を繰り広げながらも、徐々に押し込まれつつあるカルデイア大公国軍。
互いに大量の戦死者を出しながら一進一退を繰り返していたが、気づけばブルゴーとの東部国境からすでに150キロも攻め込まれていた。
とは言うものの、決して数でカルデイアが劣っていたわけではない。
それどころか、数だけなら完全にブルゴー軍を圧倒していたのだ。
しかし残念なことに兵の練度が伴っていなかったのと、実情を無視したような勝手な兵の補充によって、かえって現場はかき回されていた。
事実、指揮を執る将軍ダーヴィト・ヴァルネファー及び参謀ジークムント・ツァイラーともに中央の軍部の一方的なやり方についていけず、せっかく補充された(送りつけられたとも言う)兵も持て余すばかりだった。
そもそも末端の指揮官が不足している現状において、如何に兵が多くとも効果的な運用などできるわけもなく、送られてくる兵たちの多くが後方で遊兵と化していたのだ。
では、なぜそのようなことになっているかと問われれば、全てはカルデイア大公の指示だった。
最愛の女性を失い、生きる意味も目的さえも見失って一時は廃人同然にまでなりかけた大公セブリアン。
しかし宰相の必死の計らいによりやっと正気を取り戻したかと思えば、開口一番ブルゴー軍を皆殺しにせよと命じたのだ。
憎きブルゴー人を抹殺するためなら、手段は問わず、如何なる犠牲も惜しまない。
国中の戦力は勿論のこと、首都の防衛部隊を投入することさえ辞さず。
そんな些か常軌を逸した命令にはもちろん軍部や各大臣、重鎮たちも難色を示したが、当のセブリアン本人はまるで聞き耳を持たなかった。
それどころか、真っ当な意見を述べる者、批判を口にする者たちを次々に粛清し始めると、ただひたすらに己の我を貫き通したのだ。
その結果、今や逆らう者さえいなくなったカルデイア大公は、完全に「裸の王様」と化していた。
「なぁジークムントよ。ここらで一度ブルゴーを押し戻さんと、どうやら軍部は本気で俺たちを更迭するつもりらしい。 ――これを見てみろ。次戦においても軍を後退させるなら、指揮権を剥奪すると通達してきた」
「ほう……どれどれ……」
ここはカルデイア軍最前線に設けられた指揮所。
そこに作られた簡易な野戦テントの中に、そんな会話が繰り広げられていた。
激戦に次ぐ激戦のため、出陣以来一度もまともな休息をとれていない幹部たちは、皆一様に疲れ果て、薄汚れ、すでに無精髭とも呼べないほど伸び切った髭を晒している。
そんな少々くたびれた雰囲気の指揮所の中に、未だ眼光鋭い男がいた。
身長は170センチ程度だろうか。それほど背は高くないが、ひと目で軍人とわかる鍛え抜かれたガッシリとした身体。
太い首から続く力強い顎と、短く刈り込んだくすんだ金髪に意思の強そうな青い瞳。
言うまでもなくそれは、カルデイア軍将軍ダーヴィト・ヴァルネファーだった。
その彼が右手に持った紙切れのようなものをひらひら揺らしていると、参謀ジークムント・ツァイラーがそれを受け取る。
今年47歳になる彼は最近では近くのものが見え辛いらしく、少々手元を離しながら斜めにその紙を読んでいった。
「更迭なぁ……ふぅむ、どうやら本気のようだな。 ――で、実際どうなんだ? などと、参謀の俺が訊くことではないか」
「はははっ、まぁ確かに。お前が俺に訊くようでは、すでに終わっているだろうな。 ――ならば逆に問おう、参謀よ。次の会戦で決着をつけるには、我々はどうするべきか?」
するとジークムントはにやりと笑って、同じように姿勢を正した。
ダーヴィトとジークムントは同い年の幼馴染であるため、昔から全く遠慮のない関係だった。
同時に成人し、一緒に軍人となり、揃ってカルデイアの東部軍を任された彼らは、10年前の戦役では共に苦汁を舐めさせられた仲でもあったのだ。
まさにそんな「腐れ縁」とも言うべき彼らは、実の兄弟以上に仲が良かった。
しかし組織の中では将軍と参謀という上下の関係があるために、部下の前ではそれを崩さないように気をつけていた。
とは言うものの、連戦に次ぐ連戦によりすっかり部下たちとも打ち解けた今では、彼らの前では飾らない普段の関係を見せるようになっていたのだが。
しかしここにきて突然改まった姿勢を見せたのは、この先が重要かつ真面目な話である証拠だった。
そんなジークムントが尚も話を続ける。
「ここ最近の敵軍を見る限り、補給と兵員の補充が滞っているのは間違いないだろう。事実、前回の会戦以降兵の数が増えているようには見えん」
「それは俺も承知している。現在も続々と補充を受けているこちらに比べると、明らかにあちらは人手不足のようだ。 ――ならばあちらが補充を受ける前に、一気に片を付けるべきなのだろうな……などとこれまで何度も言ってきたが、敵もさる者。ブルゴーの将軍も中々に侮れん」
「確かにな。正直に言えば、ここまで追いつめられるとは全く思っていなかった。 ――とは言え、次で本当に決着をつけるべきだ。やっと指揮官級の手配が付いて、これまで遊兵と化していた奴らをやっと投入できる時が来たのだからな」
「そうか。ならば兵力は?」
「
その言葉に、周囲の者たちの顔に笑みが浮かぶ。
彼らとて首都に家族を残してきている身なのだ。
こんな辛く苦しい戦いなどにさっさとケリをつけて、家族のもとに早く帰りたいのが正直なところだ。
そしてそれはダーヴィトもジークムントも同じだった。
次の戦いに勝ちさえすれば家に帰れる。
今や彼らはそのことで頭がいっぱいだったのだ
するとその様子を見ていたダーヴィトが、一歩大きく前へ歩進み出る。
そして叫んだ。
「よぅし、お前たち、今こそ決戦だ!!
――――
夜明けとともにカルデイア軍は、左右の両翼を突出させてブルゴー軍を取り囲み始める。
そして兵たちはその顔に残虐とも思える笑みを浮かべながら、少しずつ距離を詰めていった。
今ではブルゴーの倍近くまで人数が増えていたカルデイア軍は、負けることなど全く考えていなかった。
これまでの戦闘で仲間を殺られ、傷つけられ、苦汁を舐めさせられてきた恨みを晴らす。
彼らの頭はこれだけで一杯だった。
じわじわと次第に取り囲んでいくカルデイア軍。
まるで怖気づいたかのように、徐々に後退し始めるブルゴー軍。
その光景を小高い丘の上から眺めていたカルデイアの幹部たちには、すでに勝ちが見えていたのだろう。
その証拠に、将軍ダーヴィトを始めとする主要な幹部の顔には、何処か余裕の笑みさえ浮かんでいたのだ。
しかし次の瞬間、一転してその表情は凍りついてしまう。
「ぐわぁー!!」
「ぎゃー!!」
「うぎゃー!!」
突如戦場に響き渡る無数の悲鳴。
瞬間それは
驚いた幹部たちが咄嗟に視線を向けると、その声はブルゴー軍と衝突したカルデイアの先頭集団から発せられていたのだった。
その光景は、あまりに異常だった。
まるで圧力に屈したかのように、
その先頭を舌なめずりしながら取り囲んでいたカルデイア兵たちは、気づけば瞬きする間に全員地に倒れ伏していたのだ。
パッと見ただけでも、その数は100を下らない。
それだけの兵たちが、一人の例外もなく全員腹から真っ二つにされていた。
突如離れ離れになった上半身と下半身。
もちろん全員即死だった。今やピクリとも動かない100人の兵士が、200の死体になって真っ赤に地を染めていた。
あまりと言えばあまりに凄惨な光景に、思わず目を剥いてしまうダーヴィト。
そしてその騒ぎの中心に、一人の男を見つけたのだった。
中肉中背の体躯と、この国では珍しい黒い髪と浅黒い肌。
遠くからではよく見えないが、恐らくその顔は凛々しく整っているのだろう。
鎧を着けずに細く湾曲した片刃の剣を振り回す姿は、
男が剣を振る度に10,20と死体が増えていき、その後を続く兵たちが残ったカルデイア兵を狩っていく。
派手に血飛沫を上げながら、真っ二つにされていく仲間たち。
その様に恐れ慄いたカルデイア兵たちは、今や戦うことさえ忘れて逃げ惑うばかりだ。
文字通り血路を切り開きながら、真っ直ぐこちらへ向かってくる謎の男とその後ろで勢いに乗るブルゴー兵たち。
特徴的な細身の剣を縦横無尽に振り回し、まるで情け容赦なく兵を斬り裂くその様は、すでに戦闘と呼べるものですらなかった。
敢えて表現するなら、それは「虐殺」だった。
そんな光景を目の当たりにしたダーヴィトは、思わず叫んでしまう。
その顔には未だ驚きが張り付いたままだった。
「な、なにが起こっている!? い、一体何なのだ、これはっ!? あの男はなに者だ!?」
「将軍閣下、危険です!! ここは我々が食い止めますので、閣下はお下がり下さい!!」
「何を言う!! 俺たちは奴らの倍はいるのだぞ!? それにここまではまだ距離がある!! ――それなのにここを引けというのか!? お前達、正気か!?」
「し、しかし、敵主力が真っ直ぐこちらへ向かっているのです!! あの勢いでは、ここに到達するのも時間の問題でしょう!! ――全く信じがたいことですが、あの男一人にすでに200人以上は殺されているのです!! あんなの見たことありません!! まるで化け物です!!」
「くっそぉ……たった一人に200人以上だと? そんなことがあり得るのか……?」
逃げるようにと必死に促す部下を尻目に、目の前の光景を必死に理解しようとするダーヴィト。
しかしそうしている間にも、謎の男は着実にこちらへ向かってくる。
立ち塞がる兵たちを文字通り薙ぎ倒しながら、全く速度を落とすことなく血煙を巻き上げ続ける一人の男。
まさにそれは地獄絵図だった。
男が通り過ぎる度に確実に死体は増えていき、すでにその数は300を超えているかもしれない。
そんな時、横から声をかけてくる者がいた。
とっさにダーヴィトが振り向くと、そこには必死な形相のジークムントが立っていた。
「と、とにかくここは引け、ダーヴィト!! 奴が何者なのかは知らんが、あんな化け物、まともに相手できるわけないだろう!!」
「何を言う、ジークムント!! !! どのみちここを引いても更迭という名の粛清が待っているだけだ!! それならば、真正面からあの男と対峙してやろうではないか!! ――俺とて武人の端くれだ。腕にもそれなりの自信はあるのだからな!!」
倍の数とは言え、所詮は練度の低い寄せ集めの集団でしかないカルデイア軍は、遂にその正体を晒し始める。
恐怖に顔を歪めた兵たちは敵前逃亡さながらに逃げ惑い、すでに秩序を失った彼らは格好の各個撃破の対象になっていた。
一度崩れるとその後は早かった。
如何に指揮官が叱咤、鼓舞しようとも、一度恐怖に負けた兵たちはそのまま烏合の衆と化してしまい、すでにそれらは軍隊の集団戦闘とは決して呼べない様相を呈していた。
そんな彼らが勢いに乗るブルゴー軍を防げるわけもなく、結局そのまま中央突破されてしまう。
あまりの恐怖に逃げ惑うばかりのカルデイア兵たち。
その彼らをまるで情け容赦なく斬り捨てながら、遂にカルデイアの指揮所まで辿り着いた謎の男は、そのままの勢いでテントの中に走り込んできたのだった。
返り血で真っ赤に染まった一人の剣士。
中肉中背、決して体格に恵まれているようには見えないが、それでもその剣技は冴え渡り、彼が切り開いてきた道には無数の死体が転がっていた。
浅黒い顔も、黒い髪も、その全てを真っ赤に染めて、その男はたった一人で敵の指揮所に乗り込んできたのだ。
そして細身の片刃の剣を突きつける。
「お前が将軍ダーヴィト・ヴァルネファーだな!! この戦を終わらせるためだ。悪いが死んでもらうぞ!!」
周囲を見れば、将軍以下10名は下らない敵の幹部たち。
しかしその男は、そんなものにはまるで目もくれずにダーヴィトだけを睨みつけていた。
一瞬凍り付く、その場の空気。
しかし次の瞬間、幹部たち3名が同時に斬りかかっていた。
「おのれぇ!! 死ねぇ!!」
「貴様、何者だ!!」
「閣下!! お逃げください!!」
軍幹部にまで昇り詰めているのだから、彼らとて腕に覚えのある剣士なのだが、ここに来るまでの男の様子を見る限り、凡そ自分たちに敵う相手とは思えなかった。
それでもこの至近距離で同時に斬りかかられれば、無事で済むはずがない。
そう思った幹部たちは、咄嗟に男に斬りかかっていたのだ。
しかし彼らは、まさに瞬きをする間にも満たない時間でただの肉塊に成り果てていた。
一人は頭を吹き飛ばされて、一人は身体を縦に真っ二つにされて、もう一人は身体を上下に切り裂かれていたのだ。
周囲に舞い散る血飛沫と濃い血の匂い。
自身が殺した相手など気にも留めることなく、勢いよく血振りする謎の男。
その男に思わずダーヴィトが叫んだ。
「そうだ、俺がダーヴィト・ヴァルネファーだ!! 俺は逃げも隠れもせぬ!! 殺すというなら、受けて立ってやろうではないか!! 返り討ちにしてくれる!!」
「ほぉ……」
「しかしその前に貴様、名を名乗れ!! 名を知らねば、墓標に名も刻めまい!!」
どう控えめに言っても、自分の叶う相手ではない。
そうわかっていながらも、決してダーヴィトは恐れることなく言い放つ。
するとその男は、ゆっくりと口を開いた。
「俺か? 俺の名が知りたいのか? 知ったところで意味はないと思うがな。 ……しかし、知りたければ教えてやろう。 ――俺の名はケビン・コンテスティ。巷では『
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