第237話 最後の謝罪
ぽつり……
ぽつり……
身体の芯まで届くような、冷たい水の感触。
それを頬に感じて目を覚ますと、自身が地に倒れていることにジルダは気付く。
不意に瞳を開けると、いつの間にか降り出した冷たい冬の雨が自身の身体を濡らしていた。
瞬間この状況が理解できなかった彼女の脳裏に、直前の光景が蘇る。
「そうか……私は……」
痛む身体を気遣いながらノロノロと上半身を起こしてみると、そこには壮絶な光景が広がっていた。
全身黒ずくめの男が三人。
その全員が盛大に血を流しながら地に伏していた。
一人は首を落とされて、一人は腹を裂かれ、そしてもう一人は膝から下を失っていた。
そんな死体が転がる光景を、半ば呆然としながらジルダは眺める。
状況から察するに、これをやったのは唯一の生き残り――自分に違いなかったが、その記憶は曖昧で目の前の光景が今でも信じられない。
ジルダは必死だった。
如何に凄腕の暗殺者だと言われていても、それは一般の認識にすぎない。
彼女とて暗殺者集団「漆黒の腕」に戻れば、決して最強などとは言えなかったからだ。
剣技の実力を敢えて言うなら、ジルダは
それは組織の中でも上位のレベルと言っても過言ではないが、その彼女にして同時に三人も相手にして無事で済むとも思えなかった。
それでも自分は生きている。
耐え難い全身の痛みを勘案すれば自分は相当な怪我を負っているのだろうが、それでも再び目を覚ましたのであれば命に別状はないはずだ。
周囲を見る限り、生き残ったは自分だけ。
つまりは自分の勝ちなのだ。
そう思ったジルダではあるが、そこには喜びも安堵も感じられない。
今はただひたすら襲いかかる全身の痛みに耐えながら、自身の身体を確認するしかなかった。
真っ先に確認したのは腹だった。
今では己の命よりも大切なものが宿るそこは、見たところ無事らしい。
事実そこに痛みを感じなければ違和感もなかったため、ジルダはホッと胸を撫で下ろした。
思えば男たちは、執拗に腹を狙っていたような気がする。
恐らくそれは
愚かな連中だ……
そんなことをぼんやり考えていると、次第に身体の状態がわかってくる。
どう控えめに言っても、ジルダは満身創痍だった。
左手は親指と人差指以外全てを斬り落とされてしたし、上腕にも骨まで届く切創が二箇所もある。
出血はそれほど激しくないが、全く指が動かないところを見ると、恐らく神経もしくは腱ごと切断されているのかもしれない。
それだけでも今後暗殺者を続けるには致命的な怪我ではあったのだが、それ以外にもまだあった。
痛みの激しい右脚を見てみる。
するとそこには、本来あるべきもの――足首から先がなくなっていた。
不幸中の幸いと言うべきか、きつく結んだブーツの紐のおかげで自然と止血された状態になっていたが、その光景は軽くパニックを起こさせるのに十分だった。
しかしジルダは、鉄のような自制心で己を押さえつける。
思わず叫びそうになる弱い自分を必死に宥めながら、音が出るほど奥歯を噛みしめた。
幸いにも利き手――右手は無事だった。
もっとも最後まで剣を持ち続けていたのだから当然なのだろうが、その事実は今のジルダを安堵させるのに十分だった。
しかし左脚に目を向けると、再びその顔は歪められる。
全身に無数の斬り傷を負うジルダではあるが、左脚の状態はさらに酷かった。
幸いにも太い血管は切られていなかったが、それでも腿の肉は大きく削ぎ落とされ、膝も半分千切れかかっている。
足先を失った右脚といい、千切れそうな左脚といい、このままでは自力で歩くことも
確かに男たちはジルダの殺害に失敗した。
それどころか返り討ちにあって殺されてしまっていたが、結果的にそれは成功したと言うべきか。
何故なら、ジルダの怪我を見る限り、どう控えめに言っても生きて戻るには相当な困難が予想されたからだ。
しかしジルダは希望を捨てなかった。
なにより愛する男のため、そして腹に宿った
確かにこれは酷い怪我だ。思わず気を失いそうになるほど全身は痛むし、腕にも脚にもまるで力が入らない。
今まで経験したことがないほどに、絶望的な状況だ。
しかしそれでも、命に別状があるわけではないのだ。
ゆっくり時間をかければ、必ず城に戻れる。
城に戻れば、セブリアンに助けてもらえる――
「うぅぅ……く、くそっ……あの女……ペネロペめ……再び相まみえることがあったなら、素っ首叩き斬ってくれる!! さらに一族郎党皆殺しにしてやるから、首を洗って待っていろ!! ――陛下なら……セブリアン様なら……きっとやってくれるはず」
襲いかかる激痛のせいで半ば意識を飛ばしそうになりながら、それでもジルダは憎きペネロペに恨み節を吐く。
そうしながらなんとか上半身を起こすと、無事に残った右腕一本で城へ向かって身体を引きずり始めたのだった。
――――
「おい、ジルダは戻ってきたか? 組織の幹部に会いに行ったきり、もう一週間も経つぞ。よもや何かあったのではあるまいな?」
「そのような知らせは受けておりませぬが……まぁ、ジルダ殿ほどの御仁であれば、余程のことがない限りご心配には及ばないかと。もう数日お待ちになってみては?」
「……そうか。しかし今は戦時中ゆえ、何があるかわからんからな」
「確かに。それでは私の方から
「あぁ、頼む。ジルダがいないと、どうにも勝手が違ってな。落ち着かんのだ」
カルデイア大公国の首都ベラルカサにある大公セブリアンの居城――ライゼンハイマー城の一室に、聞き慣れた低い声が響く。
もちろんそれはこの城の主、セブリアン・ライゼンハイマーのものだ。
一週間前に外出したジルダの帰りを、ずっと彼は待っていた。
専属護衛、そして愛人として片時も傍を離れなかったジルダではあるが、珍しく急用ができたと言い残して城を出たのが一週間前。
その帰りをセブリアンはずっと待ち続けていたが、ここ数日は目に見えて機嫌が悪かった。
どうやら彼は、心の拠り所として思った以上にジルダに依存していたらしく、まるで母親の姿を探す幼子のようにその姿を求め続けた。
そして一週間経っても帰ってくる気配すらないことに、憤りを隠そうともしない。
そんな国家元首にして将来の夫に、ペネロペが声をかける。
「陛下。ジルダさんがいなくても、この
「ふんっ。婚儀を行っていない限り、お前はまだ俺の妻ではないのだ。気に入らないのであれば、実家に戻ったらどうだ?」
「意地悪な御方……いいですわ、ジルダさんの代わりにこの
「……冗談はやめろ。軍議がある故、もう俺は出る。お前は好きにしろ」
「うふふふ……承知いたしました。 ――いってらっしゃいませ」
19歳という年齢のわりに妖艶な雰囲気を纏うペネロペ。
美しい顔は
その彼女が見つめていると、セブリアンは不意に歩みを止めてしまう。
そして
「なんだ……? あぁ、靴ひもが切れたのか。縁起でもない……」
小さな声で呟きながら、しゃがみこんだままのセブリアン。
意味ありげな笑みを浮かべながら、その姿をいつまでもペネロペは見つめ続けていた。
――――
目を覚ましてからどのくらい経ったのだろうか。
二時間、三時間――いや、もっとかも知れない。
目を覚ました時には月の光さえ眩しく感じていたが、気づけば東の空にうっすらと日が登り始めていた。
ずりずりと右腕一本で自身の身体を引き摺りながら、必死に城に向かって進み続けるジルダ。
しかしその速度は絶望的なまでに遅く、未だその場所は暗殺者たちの死体が視界に入る程度にしか進んでいなかった。
ほぼ出血が止まっていたのが幸いだったが、身体を引きずった後には赤い筋が残ったままだし、すでに日が昇り始めたことを考えるとこのままでは追手に見つかるのも時間の問題だ。
かと言って、現状これが精一杯の速度だ。
今や両脚は使い物にならず、神経が切れたらしい左腕は全く力が入らない。
如何に利き腕が無傷であろうとも、その一本だけでは体重50キロに迫る身体を引きずり続けるのは彼女にして容易ではなかった。
途中何度もジルダは諦めそうになった。
全身を襲う激痛と、左手と両足を欠損した絶望感、そして遅々として進まないその歩み。
毎度身体を引きずる度に耐え難い痛みが襲ってきて、思わず悲鳴を上げそうになってしまう。
あぁ、いっそこのまま自害してしまえばどんなに楽か。
一秒毎にジルダはそんなことばかり考えていた。
暗殺者集団に属する者たちは、万が一敵に捉えられた時のために自害用の毒を持ち歩いている。
もちろんそれはジルダにしても例外ではなく、死のうと思えばいつでも死ねる。
事実、この数時間の間に何度毒に手を伸ばしそうになったものか。
その度に愛する男と、腹に宿る
そしてまたもう一回と、己の身体を引き摺り続けていたのだ。
しかしそんな永遠とも思える辛く苦しい時間も遂に終わりを迎えようとしていた。
何故なら、背後から馬の蹄の音が聞こえてきたからだった。
地面に横たわったままジルダが背後を振り向くと、そこには無数の騎馬の集団がいた。
彼らは暫く暗殺者三人の死体を調べていたが、そこから真っ直ぐに伸びる血の跡を見逃すはずもなく、遠くに倒れる小さな影を見つけて真っ直ぐに駆けてくる。
「おい!! 生き残りがいたぞ、こっちだ!!」
ジルダを視認した一人の騎士が声高に叫ぶと、他の者達も追随してくる。
そして瞬く間にジルダに追いつくと、満身創痍の身体に剣を突きつけた。
「動くな!! 武器は……持っていないようだな。 ――それにしても酷い姿だが……お前も暗殺者の仲間なのか? それとも襲われたのか?」
「と、通りすがりの村の者です……いきなりあの男たちに襲われて……」
息も絶え絶えに、それでもジルダは口から
しかし騎士たちはすぐに見破ってしまう。
「嘘をつくな!! お前も奴らの仲間なのだろう!! では訊くが、通りすがりの村の女が、なぜ奴らと同じ格好をしている!? 言えっ!!」
「……」
「動くなよ!! その身体、
今やピクリとも動けないジルダは、おとなしく騎士に従うしかない。
騎士たちは全員男だ。
相手が女であれば多少は遠慮もするのだろうが、今の彼らにはそんな考えは毛頭ないらしい。
遠慮する様子すら見せることなくジルダの胸元、下半身、下着の中にまで手を入れると、隠し持っていた幾つかの武器を乱暴に取り出す。
その際派手に胸元が
もちろんそれはジルダも同じだ。
これまで散々暗殺者としての訓練を受けてきたために、いまさら人前に肌を晒すことなどに一切の羞恥心は持ち合わせていなかった。
それに向かって、騎士が大声で問い詰める。
「この武器……やはりお前も奴らの仲間なのだろう!! なぜ仲間同士で殺し合ったかは知らないが、まずは縄を打たせてもらおう!! ――捕らえろ!!」
「はっ!!」
捕縛用の縄を片手に、騎士たちがにじり寄る。
しかし全ての武器を取り上げられた挙げ句に、動かせるのが右手一本のジルダにはどうにもならなかった。
敵の手に落ちた暗殺者の末路は決まっている。
拷問で情報を漏らしてしまう前に自ら命を断つのが組織の掟であって、そこに一切の例外はない。
言わばこの時点でジルダの命運は決していたのだ。
彼女とて物心ついた時からその教えを刷り込まれてきたのだから、いまさらそれに否やはない。
暗殺者の最後はあっけない。
人知れず毒を煽って、自ら命を断つだけだ。
しかしジルダは、激しい痛みを我慢しながら必死に抵抗を試みた。
それは
しかしそれには理由があった。
何故なら彼女は、生まれて始めて心の底から「死にたくない」と思っていたからだ。
せっかく授かったこの
もう自分には一生家族なんて得られないと思っていたのに、ここに来てそれが叶うかもしれなかった……
生まれて初めて自分という人間を愛してくれたセブリアン。
その彼との命の結晶をむざむざ死なせてしまうだなんて……
私が死ねば、この子も死ぬ。
未だ生まれてきてもいないというのに、死んでしまうだなんて……
嫌だ、嫌だ、嫌だ!!!! 絶対に殺したくない!! 死なせたくない!!
――そうだ、この子の存在はまだ彼にも伝えていないのだ。
あなたのお子が出来ました。
生まれてくるのが楽しみですわ。
あぁ、あぁ……まだ伝えていない、伝えていないというのに!!
嫌だ、死にたくない!! 死にたくない!! 死にたくない!!
この子を殺したくない!!
でも、でも、でも――
あぁぁぁぁ!!!!
ごめん!! ごめんね!! ごめんなさい!!!!
こんな私を、許して!!!!
騎士たちがジルダを捕縛しようとしていると、突然信じられない出来事が起こった。
すでに両脚ともに使い物にならないはずの彼女であるのに、凄まじい勢いでその身を起こすと、その場で宙高く飛び上がったのだ。
そして……騎士の持つ槍に自らの首を突き刺した。
突如吹き出す真っ赤な鮮血。
一瞬の隙を突いて自らの喉笛を切り裂いたジルダは、
「あっ!! き、貴様、何をしている!!」
突然の出来事に呆気にとられた騎士たちは、思わず動きを止めてしまっていた。
そしてジルダが喉を突き刺した槍の持ち主も、同様に固まっていた。
しかしそれも一瞬で、やっと捕縛した容疑者を死なせてなるものかとばかりに、一斉に救命処置を施し始める。
しかし時すでに遅く、ジルダの喉からは
ただ周囲にはヒュウヒュウと苦しそうな音が響くだけだった。
薄れゆく意識の中で、ひたすらジルダは謝っていた。
これまで人に頭を下げたり謝ったりなどほとんどしたことのない彼女であるのに、ただただ謝り続けていた。
あぁ……ごめんなさい……ごめんなさい……
こんな母を許して……
あなたを産んであげたかった。
あなたの顔を見たかった。
あなたとお話がしたかった。
だけどもうそれも叶わないの。
ごめんね、ごめんね、ごめんね。
産んであげられなくてごめんね。
こんな母を許してくれる?
セブリアン様……どうか、どうかお許しください。
あなた様とのこの10年、本当に幸せでした。
こんなどうしようない自分でしたけれど、人並みの幸せを味わわせていただいたこと、本当に感謝しております。
だけど……そのうえさらに生きた証がほしいだなんて、欲張りだったのでしょうか。
我が儘だったのでしょうか。
せめて……せめて、あなたの子を宿したことを伝えたかった。
喜ぶ顔が見たかった。
再びあなた様にお会いできるのは、きっと遠い未来になるでしょう。
それまで私は、この子と一緒にお待ちしております……
騎士たちの懸命の処置も叶わず、ついにジルダは呼吸を止めた。
そしてその四肢からはゆっくりと力が抜けていったのだった。
結局ジルダは、己の命を絶つのに毒を使用しなかった。
どう考えても、槍で喉を突くよりも素早く容易であったにもかかわらずにだ。
恐らく彼女は腹に宿った子のために、身体に毒を入れたくなかったのかもしれない。
もっともこればかりは、本人に訊かなければわからないが。
しかしその機会は永久にやってこない。
その両手は、ずっと下腹部を抱きしめたままだった。
まるでとても大切な何かを守るかのように、優しく柔らかく添えられた両手。
そしてその血塗れの顔には、どこか優しげな母親のような笑みが浮かんでいたのだった。
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