第175話 初めての出来事

 フレデリクの状態を主治医が確認した。

 その結果、昏睡による中度の脱水症状と、出血の後遺症による吐き気と眩暈、そして脱力が見られるものの、それ以外は特に問題ないとのことだった。

 目が見えづらい症状も、医師が言うにはしばらくすると治るらしい。


 ジルに斬られた傷はリタと僧侶たちの治癒魔法のおかげですっかり塞がり、その後の経過も問題なさそうだ。

 とにかく今は栄養のあるものをたくさん食べて、ひたすら身体を休めることに専念するようにと主治医に言われた。


 その説明を聞いた皆の顔には、目に見えて安堵の表情が浮かぶ。

 しかし何故かフレデリクだけが浮かない顔をしていた。

 理由はわからないが、医師に診察を受けている間からずっと彼はそんな顔をしていたのだ。


 その顔は途方に暮れていると言うべきか、絶望と言うべきか、いずれにせよ決して良い表情ではなかった。

 周りの皆がフレデリクの病状に安堵の溜息を吐いているのに、当の本人だけがそんな顔をしている。

 その様子がとても気になったリタは、試しに訊いてみた。


「フレデリク様。何やら浮かない顔をしておいでですが、如何されましたか?」


 まるで窺うようにフレデリクがリタを見る。

 そして答えた。


「決闘……なんだけど、やっぱり負けちゃったんだよな…… 僕がここにこうしているということは、そういうことなんだろう?」


「えっ、いや、それは……」


 質問に質問で返されてしまったリタは、思わず言い淀んでしまう。

 フレデリクのプライドを慮ると、「代わりに私がぶっ飛ばしておきましたわ。おほほざます」などとは言い辛かったのだろう。

 しかしその様子を早とちりしたフレデリクは、今にも泣きそうな顔をした。

 


「や、やっぱり負けたんだな。 ……つまり、リタはもう僕の婚約者じゃないのか……くそっ、なんてことだっ!! すまない、リタ……僕は……僕は……僕のせいで君は……」


 涙に潤む瞳で真っすぐリタを見つめながら、声を絞り出す。

 絶望と後悔に染まったその声は掠れて聞き取りにくく、未だ真っ青な顔色も相まって、その姿はまるで幽鬼のように見えた。


 そんなフレデリクにどう説明しようかと皆が思案していると、突然その音は響いたのだった。


 バシンッ!!


「うあっ!!!!」


「ふははははっ!! 何を言っとるか、お前は!! そんなもの、我々の勝ちに決まっとるだろうが!! あんな猪なんぞ、リタの拳一発で地に這ったわ!! あの雄姿をお前にも見せてやりたかったぞ。これでこそムルシア家の嫁になる者だ。うははははっ!!!!」


 それは父親のオスカルだった。

 絶望に打ちひしがれる息子の背中を、まるで遠慮せずに平手で叩いたのだ。

 豪快に笑うその姿は、フレデリクが病人であることをすっかり忘れているようにしか見えなかった。



「ぬおぉぉ……」


 あまりの痛みと衝撃に、フレデリクが身悶えする。

 そんな息子を見たシャルロッテは、おもむろにオスカルの耳をつまみ上げると、そのままズリズリと壁際へ引きずっていく。

 絶世の美熟女と名高いオスカル自慢の妻の顔面は、今や般若のようになっていた。


「あなた!! この子が怪我人なのをお忘れですか!? 一体何をなさっているのです、無思慮にもほどがありますでしょう!! 傷が開いたらどうなさるおつもりなのですか、いい加減になさいまし!!!!」


「いたたたたっ!! す、すまん、悪かった、お、俺が悪かった!! ゆ、許せシャルロッテ!! 以後気を付ける……」


「あなたはもう下がっていてくださいまし!! まったく!!」


 身長183センチ体重120キロのまるでゴリラのような男が、美しくも気が強い小柄な妻にはまるで頭が上がらない。

 あまりにギャップのあるその姿は、どこか笑いを誘うものだった。



 その後エミリエンヌによって決闘の結果が知らされると、フレデリクは呆気に取られたような顔になる。

 そしてリタの顔をジッと見つめた。

 

 そんな婚約者の視線に耐えられず、思わずリタは視線を外してしまう。

 まるで男顔負けのお転婆娘に思われているようで、些か居心地が悪かったようだ。

 フレデリクの顔が驚きから感心に変わり、そして最後には歓喜に彩られる。

 自分の代わりに決闘に勝ち、婚約者の地位を守り抜いたことに純粋に彼は喜んでいるようだった。


 その後一頻ひとしきりリタの武勇伝で盛り上がると、気を利かせたシャルロッテにより、小一時間ほど二人きりになることが許されたのだった。

 



「それじゃあ、ごゆっくりー!!」


 からかうようなエミリエンヌの声とともに、全員が部屋から出て行った。

 するとそこには、リタとフレデリクだけが残された。


 今度こそ本当に二人きりだ。

 婚約者同士とは言え、結婚前の若い男女がひとつの部屋で二人きりになるなど非常識極まりない。

 しかし未だ満足に身体を動かせないフレデリクを見る限り、きっとおかしなことにはならないだろうとシャルロッテは思ったらしい。


 それは礼節に煩い彼女にしては珍しかった。

 恐らく彼女は、息子の無事な姿を見てホッとしたのだろう。そして少々寛容になったのだ。



 広い寝室に二人きりになると、何処か気まずい空気が流れ始める。

 いくら母親に許可を貰ったとは言え、これまで二人きりになどなったことのない彼らは、どうしてもお互いに意識してしまう。

 それでも平静を装ったフレデリクが話し始めた。


「リタ……本当にありがとう。君にはいつも助けられてばかりだ。今回のことは自分の情けなさに腹が立つほどだけど、これだけは心の底から言える――本当に君が他人ひとのものにならなくて良かった」


「フレデリク様……そのようなことを言わないで下さいませ。貴方様だって、立派に闘ってくれたではありませんか。確かに不幸な事故は起こってしまいましたが、わたくしのために必死に闘ったあの姿は一生忘れません」

 

「リタ……ありがとう」


 その言葉に微笑みながら、嬉しそうに頷くフレデリク。

 しかしその直後、顔に不思議な表情を浮かべるとまじまじとリタの顔を見た。



「……そうだ、僕は夢を見ていたんだ。その夢の中での君は、もっとこう……何て言うか……そう、気安い感じだった。話し方がもっと柔らかくて、距離が近いというか……」


 その言葉にハッとしたリタは、覚悟を決めたような顔をする。

 そして上目遣いで窺うように見つめた。


「……も、もしかして、聞こえてました?」


「えっ? あ、あぁたぶん……夢の中の君は、もっと口調を柔らかいものにするとかなんとか言っていたと思う……」


「そ、それは夢ではありません。 ……い、言いました。確かに私はそう言いました。 ――この機会に、もっとざっくりとした口調にしようって言いました、確かに。貴方がお嫌でなければ」


「いや、全然嫌なんかじゃない。むしろこっちの君のほうが好きだよ。以前よりも距離が近くなったような気がするし」


 その言葉を聞いた途端、突然リタは真っ赤になった。

 どうやら彼女は、フレデリクの言った「好き」という言葉に過剰に反応したらしい。



 如何に前世で、やれ世界最強の魔女だの、やれ無詠唱魔法を極めし者だのと称えられようとも、こと恋愛に関してはまるでポンコツだった。

 彼女の恋愛経験と呼べるものは、ほぼ皆無に等しい。

 これまで二百年以上に渡ってユニコーンに跨って来られたことからも、それはお察しだった。


 そんなリタだから、色恋沙汰に関しての免疫の無さは、まさに筋金入りだった。 

 それでも彼女は、婚約者の言葉に必死に食らいついていく。 


「そ、それなら、これから二人の時だけくだけた口調を使います。よ、よろしいですか?」


「うん、ありがとう。なんだかとっても嬉しいよ。これまで見たことのない君を見ているようでなんだか楽しい」


 絶世の美女と名高い母親の血を色濃く受け継ぎ、男にしては美しいとも表現できる顔を綻ばせてフレデリクは笑う。

 そして一頻り笑い声を上げたあとに、ふと真顔になった。


「そうだ、思い出したよ。その夢には続きがあるんだ。 ――夢の中の君は、僕が目を覚ましたらキスをしてくれるって言っていたんだっけ」




「ふえぇぇえぇぇっ!!!???」


 突然身体を仰け反らせると、意味のわからない絶叫を上げるリタ。

 透き通るような灰色の瞳は大きく見開かれ、小さく可愛らしい口さえも、これでもかとばかりに開かれる。

 そして今やその顔は、真っ赤に染まっていた。


 それまで夢だと思っていたフレデリクは、リタのその反応を見て、実はそうではなかったことを確信する。

 そして些か意地悪そうな顔をしながら話を続けた。


「ははぁ……やっぱり夢じゃなかったんだ。 ――そうだ。決闘に勝てたらご褒美を貰えるって話だったけれど、残念ながらそっちは諦めるよ。その代わり、約束通り目を覚ましたんだから、君にご褒美のキスをしてもらおうかな」


 まるでからかう様な流し目のフレデリクに対し、カチコチに身体を強張らせるリタ。

 確かにあの時は感情の赴くまま口走ってしまったが、いざ実行するとなるとまるで勇気のないヘタレだった。


 そんな婚約者の姿に、フレデリクは微笑みを浮かべる。


「ふふふっ。いやだなぁ、冗談だよ。そんなに真っ赤にならなくてもいいじゃないか」


「フ、フ、フ、フレデリク様。わ、わ、わ、私は約束を、ま、ま、守る女でしゅ。や、約束通り、キ、キ、キ、キスをしましゅっ!!」


 両眼を固く閉ざし、顔を真っ赤に染めながらリタが叫ぶ。

 まさに必死の形相で紡ぎ出したその言葉は、盛大に噛んでいた。

 するとその姿を見て悪いと思ったのか、フレデリクは助け船を出したのだった。


「無理しなくてもいいよ。そんなに真っ赤になられたら、何だか逆に申し訳ないし」 


「む、む、無理なんかじゃないれす!! キ、キ、キスの一つや二つ、どうってことないしの!!」

 

「い、いや、相当無理してると思うけど……そうだなぁ、なんだか大変そうだし……それじゃあ、こうしよう――」


 そう言ってからおもむろに身を乗り出したフレデリクは、そのままリタの額にキスをした。


チュッ。



「……」


「ははは。ごめん、何だか大変そうだったから、僕の方からキスしてあげたよ」


 年上の余裕を見せて軽く笑うフレデリクだったが、彼も彼なりに恥ずかしいらしく、その端正な顔は赤く染まっていた。


 そんな婚約者の前で、未だ固まったままのリタ。

 これ以上ないほどに瞳を大きく見開いて、小さな口はまるでアホのように開いたままだ。

 その姿は、まるで魂が抜けた人のようだった。


「……リタ?」


 あまりに反応がないのを怪訝に思い、再び声をかける。

 するとリタは――



「ひやぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」


 突然意味のわからぬ叫び声を上げたかと思うと、その真っ赤な顔をフレデリクの毛布で隠してしまう。

 そしてそのまま悶絶していた。


「リ、リタ? どうした? 大丈夫か?」


「ず、ず、ず、ずるいです!! 不意打ちだなんて、ずるい!! わたしは、わたしは――うひーはー!!」


 手と足をバタバタと動かしながら、毛布で顔を隠したまま何やら叫び続けるリタ。

 そんな婚約者の頭にそっと手を添えると、フレデリクは優しく撫で始めた。


「はははっ、そうか。完璧な君にも、実は弱点があったということか。でも、そんなに恥ずかしがらないでくれよ。なんだか虐めてるみたいで、少し――」


「意地悪!! フレデリク様の意地悪!! もう知らない!!」


「ごめんごめん。ほら、こうしててあげるから、機嫌を直してくれよ」


 こうしてリタは、婚約者フレデリクとのファーストキス(なのか?)を経験した。

 図らずもそれは不意打ちのようなものだったが、顔を真っ赤に染めて恥ずかしがりながらも、満更でもなさそうだった。



 恥ずかしさのあまり顔を伏せ続けるリタの髪を撫でながら、フレデリクは思う。


 今回の決闘は惨敗だった。

 ムルシア侯爵家と言えば、王国を代表する武家貴族の筆頭だ。

 それなのに自分は、衆人環視の前で殺されかけるという失態を演じてしまった。

 

 相手があの武勇に名高いジル・アンペールなので仕方がないのかもしれないが、それでも危なく殺されて、そのうえ最愛の婚約者まで奪われるところだったのだ。

 今回はリタだったから何とかなったが、場合によっては最悪の事態になっていたかもしれない。


 ムルシア家の嫡男として、この先も彼女に頼ってばかりではいられない。

 もっと頼りになる男になって、一生彼女を守り続けなければいけないのだ。


 美しくも愛らしい、小さな淑女。

 そんなリタの髪を撫でながら、フレデリクは一人誓いを立てるのだった。

 

 



「失礼します……兄さま?」


 その一時間後、エミリエンヌを先頭にしてムルシア家の面々が遠慮がちに部屋に入ってくる。

 そして妙に静かな部屋の中に目を凝らすと、そこにフレデリクとリタがいた。


 椅子に座ったまま顔をベッドに突っ伏したリタが、すぅすぅと小さな寝息を立てていた。

 そしてフレデリクは、そんな彼女の頭の上に優しく手を乗せる。

 彼もリタ同様に眠っており、その顔には穏やかな笑みが広がっていた。

 


 恐らく安心して気が抜けたのだろう。

 丸二日以上に渡って起きたままのリタは、まるで意識を失ったかのように眠り込んでいた。

 そしてその頭を撫でているうちに、フレデリクも眠ってしまったのだろう。


 そんな仲睦まじい二人の姿に笑みを浮かべると、ムルシア家の者たちは無言のままそっとドアを閉めたのだった。

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