第167話 血と悲鳴と怒号
身長180センチ、体重110キロのジル。
身長172センチ、体重60キロのフレデリク。
この二人が対峙する姿は、まるで大人と子供のように見えた。
身長だけを言えば8センチしか違わないのだが、体重に及んでは
武家貴族家の嫡男というには少々、いや、かなり線の細いフレデリクは、お世辞にも武芸に秀でているようには見えない。
実際にもその通りで、彼は身体よりも頭を使う方が得意な学者肌の青年だった。
男にしては美しいとさえ言える整った顔には、今や38歳となった絶世の美女――今では美熟女か――と名高い母親シャルロッテの面影が色濃く残る。
対してジルは、その見た目からして全身筋肉の塊だ。
下半身よりも上半身の方が大きく見える独特の体形と太くて短い首は、その風貌も相まってまるで猪のように見える。
事実彼は周囲から「猪公」とあだ名されるほど、その容姿は有名だった。
彼の父親で現アンペール侯爵でもあるベネデットも、その妻ダニエラもそんな容姿をしていないところを見ると、ジルが一体誰に似たのかは不明だ。
しかし屋敷に飾られている二代前の当主の姿絵もゴツい体格をしているので、恐らくそれは隔世遺伝なのかもしれなかった。
二人の姿を見た周りの観衆がそんなことを思っていると、突然フレデリクが動き出す。
その動きはとても素早く、目で追うのが大変なくらいだ。
事前に言っていた通り、どうやら彼は短期決戦を仕掛けるつもりなのだろう。
試合開始の号令がかかった直後に懐に飛び込んだフレデリクは、そのままの勢いで右手を前に突き出す。
そして素早く身体を左右に振りながら、連続して攻撃を繰り出した。
決して己を自慢することのないフレデリクが、それでもリタの前で自負していたとおり、その動きはとても素早く的確だった。
その動きを見る限り、幼少時からレイピアの訓練だけは欠かしたことがないという彼の言葉は、十分に頷けるものだ。
しかしそんな先制攻撃も、ジルには全て防がれてしまう。
一見して動きの鈍そうな筋肉の塊にしか見えない身体を翻すと、ジルは素早く全てを防ぎ切ったのだ。
それと同時に右手を左右に繰り出す。
キンッ、キンッ、キンッ!!
連続して三度の金属音が響いた直後、既にフレデリクは間合いの外にはじき出されていた。
今の攻防では、互いに相手の身体に触れることはできなかった。
つまりこの時点で、フレデリクの先制攻撃は失敗に終わったのだ。
あとは互いに間合いと隙を探りながら、攻防を繰り返していくことになる。
しかしここでフレデリクは、己の計算違いに気が付いた。
その見た目から鈍重だと思っていたジルの身のこなしが、予想以上に素早かったのだ。
そして軽やかで洗練されていた。
その見た目通り、ジルが得意とする武器は両手持ちのロングソードだ。
しかし戦場では左手で馬の手綱を引いたり、時には盾を持つこともあるので、片手での攻防も同時に訓練されていた。
確かにレイピアに代表される刺突武器の扱いはフレデリクの方が上だったが、その他の素早さ以外は全てジルの方が上回っていたのだ。
軽量な刺突武器と思われているレイピアではあるが、その実態は細身のロングソードと大差ない。
重さこそだいぶ軽いが、それでもその重量は1キロを大きく超えるうえに、その長さも同程度だ。
さらに鋭い刃付けがされているので、突く以外にも、斬ることもできる。
つまりフレデリクが選んだレイピアは、ジルにしてみれば片手専用の軽量なロングソードとそう大きく変わらなかった。
その証拠に彼は、レイピアを「突く」のではなく、左右に振り回して「斬る」使い方をしていた。
如何に軽量なレイピアとは言え、斬り付けられればそれなりの重さの斬撃になるし、ジルほどの体格の者に思い切り振り抜かれれば、両手でなければ受け止めるのさえ難しいほどだった。
己の見込み違いに気付いたフレデリクは、試合開始直後から脂汗を流していた。
しかしそれでも長年の訓練の成果を発揮する。
刺突攻撃以外では明らかに格上の相手に対し、互角の攻防を繰り広げていたのだ。
素早く踏み込んで剣を突き出し、相手に払われると素早く下がる。
時に連続して攻撃し、時に身を翻して攻撃を避けた。
身体の線が細く、お世辞にも武芸に秀でているとも思えないフレデリクが、予想外の善戦を繰り広げる。
その姿に観衆が感心のどよめきを上げた。
彼のその闘いぶりは、この場の全員の予想を良い意味で裏切っていたのだ。
しかしそんなフレデリクの姿を正視できない者がいた。
両手で目を覆い、顔を伏せた絶世の美熟女。
それは母親のシャルロッテだった。
「あぁ……もう見ていられませぬ……」
食い入るように果し合いを見つめる次男に顔を押し付けながら、長男の立ち回りから目を逸らす。
そしてその横には、彼女とは対照的にしっかりとその雄姿を目に焼き付けるリタ。
すっかり平和ボケしているハサール王国の貴族たちと違い、前世では長年に渡り従軍し、暗殺者を撃退し続け、目の前で人の生き死にを見続けてきたリタ――アニエスは、フレデリクの能力をほぼ正確に見抜いていた。
そしてその限界も。
彼女の見立てでは、いまのスピードとそれに裏付けられた素早い攻撃をあと5分継続できれば、十分に勝機はあると見ていた。
しかし彼の持久力は、持ってあと3分が限界だろう。
事実それを証明するかのように両肩は大きく上下して、その口からもゼェゼェと荒い息が漏れている。
その姿はどう見ても、リタの目には手詰まりに見えた。
対するジルも、焦りを禁じ得なかった。
その猪のような厳つい顔には現れてはいなかったが、予想を上回るフレデリクの善戦に戸惑いを隠せずにいたのだ。
正直に言うと、彼はフレデリクを舐めていた。
父親に警告された通り、彼のレイピアの扱いには警戒していたが、それ以外の部分では完全に馬鹿にしていた。
その見た目に反して自身のスピードにも自信のあったジルは、相手の速度にもついていけるものだと思った。
しかし蓋を開けてみると、相手の攻撃を防ぐのは問題ないが、こちらの攻撃がまるで当たらない。
どんなに素早く動いたところで、寸でのところで全て躱される。
ジルの斬撃が重すぎるのを理解するフレデリクは、決して正面からジルの攻撃を受けようとはしなかった。
全ての攻撃を身体ごと躱すが、逸らすか、受け流していたのだ。
ジルにしてみれば、せめて防御の上からでも剣を叩きつけられれば、相手の手を痺れさせたり、剣を叩き折ったりできるのだが、こう動き回られてしまうとそれすらも叶わない。
その焦りは、徐々に苛立ちへと変わっていく。
そして遂にそれは起こったのだった。
ジルの横薙ぎを身体ごと躱したフレデリクは、素早く間合いに踏み込んで右手を真っすぐ突き出す。
するとその剣は、ジルの左脇腹を切り裂いた。
それはこの果し合いが始まってから初めての流血であり、その手応えにフレデリクの表情が一瞬緩む。
しかし次の瞬間、彼は右足の甲に鋭い痛みを感じてしまう。
見れば自身の右足の上に、ジルの左足が乗せられていた。
そして全体重をかけて、思い切り踏みつぶされていたのだ。
如何にブーツの上からとは言え、体重110キロの相手に思い切り体重をかけられてしまえば、足先の骨折もあり得る。
事実その通りとなったフレデリクの耳には、右足の甲の骨が砕ける音が聞こえた――ような気がした。
もしかするとそれは気のせいだったのかもしれないが、その事実を裏付けるように足先から激痛が伝わってくる。
それと同時に、右足に力が入らなくなってしまったのだった。
咄嗟に後方に飛び去るフレデリク。
しかし明らかに彼の様子はおかしかった。
右利きの彼が、まるで庇うかのように右足を後ろに下げて、不自然な構えになっていたのだ。
「おのれぇ……卑怯な……」
その様子に気付いたリタは、思わず唸り声を上げてしまう。
ルール上は相手の足を踏みつけるのを禁じてはいないが、貴族の名誉と
もしそれで勝ったとしても、勝者である以上に卑怯者だと言われてしまうからだ。
確かに偶発的な事故の場合もあるのだろうが、リタが見ていた限りあれは故意だった。
フレデリクのスピードに嫌気が差したジルが、その足を潰すという卑劣な手段に出たようにしか見えなかったのだ。
もちろんそれを一番わかっていたのは、やられた本人だ。
ジルの意図を見抜いた瞬間、フレデリクはほんの一瞬「卑怯な!!」と呟いていた。
しかし次の瞬間、彼は押し黙ってしまう。
何故なら、未だ軍務に就いてはいないが、自分もジルも軍人(の卵)だからだ。
幼少時からその心構えを教え込まれ、そのための訓練もずっと受けてきた。
だから剣以外の攻撃を咄嗟に躱せなかったのは、全て自分の甘さのせいだと思った。
戦場では何が起こるかわからない。
誰も正攻法の闘いなど挑んでは来ないし、場合によっては正々堂々と騙し討ちをすることもあるほどだ。
むしろ騙し騙されるのが戦場なのだ。
どんな手段を使ってでも相手を殺し、自分は生き残る。
生き残ることこそ正義だ。そこにずるいも卑怯もない。
それを究極にまで突き詰めたところに、軍人の本懐があるはずなのだ。
いくら卑怯だ、卑劣だと叫んだところで、明確にルールで禁止されていない以上それは反則ではない。
一言、やられた方が甘かったと言われればその通りだ。
左わき腹から血を流すジル。
右足を引きずるフレデリク。
試合開始4分で、遂に両者怪我を負った。
しかし、怪我の程度は大したことなさそうに見えるため、立会人は声を発しない。
そして止められない以上、試合は継続される。
どちらが不利かと問われれば、それはフレデリクだろう。
それまで唯一相手より優っていた部分――スピードをまんまと殺されてしまったのだ。
あとはリーチでも力でも敵わない相手と、正面から斬り合わなければならなくなった。
「よしっ、いいぞ、ジル!!」
息子の有利を悟った父親が叫ぶ。
その声と同時にガッツポーズまでして顔に喜色を浮かべた。
「くそっ!! 卑怯だぞ!!」
「あぁ!! フレデリク!!」
「に、兄さま!!」
反対側では、息子の異常に気付いたオスカルが怒声をあげ、シャルロッテが悲鳴を上げた。
そしてその横では、見ていられないとばかりにエミリエンヌが顔を伏せた。
「フレデリク!! 下がれ!! 一度下がるのじゃ!!」
淑女というものは大声を出さないものだと幼少時より教育されてきたが、今の彼女にはそんなものはクソッタレだった。
大きく高く、透き通るようなリタの声。
その声に気付いたフレデリクが視線を移すと、リタと目が合った瞬間ニコリと微笑んだ。
その顔はまるで「心配するな」と言っているようにしか見えなかった。
右足を引きずるフレデリクに向かって、ジルが襲いかかる。
そして今や咄嗟に躱せない彼に向かって、渾身の斬撃を放った。
ギキンッ!!!!
ズドンッ!!!!
片手持ちのレイピアを両手で持ったフレデリクに、まるで容赦のない一振りを見舞う。
なんとかその攻撃を受け止めたが、次の瞬間フレデリクは身体をくの字に曲げていた。
「ぐはぁ!!」
そう、フレデリクのレイピアを弾き飛ばすと同時に、ジルは彼の腹に渾身の拳を叩きこんでいたのだ。
これにはたまらずフレデリクも吹き飛ばされる。
普通であればそのまま地面に寝ころんで悶絶するのだろうが、凄まじいまでの精神力ですぐに立ち上がった。
何故なら、もしも地面に寝ころんでしまえば、その場で立会人に試合を止められてしまいそうだったからだ。
しかし何とか立ち上がったとは言え、その青ざめた苦しそうな顔を見る限り、フレデリクは呼吸困難に陥っているようだった。
そんなフレデリクに向かって、まるで
しかし呼吸困難のために満足に武器も構えられないフレデリクに、立会人が試合終了の声を上げたその直後――
ジルの右手のレイピアが、その柄の部分までフレデリクの腹に突き刺さっていた。
背中から長い金属を生やした青年が、
その視線は目の前の決闘相手と、己の腹にめり込むレイピアの柄を交互に見ていた。
「やめろ!! 終わりだ!! アンペール、手を放せ!!!!」
「アンペール、下がれ!! 手を放すんだ!!」
今や手遅れとも思える状況に慌てながら、大声を張り上げる立会人たち。
その彼らが走って来るのを、何処か呆けたような顔で見つめるジル・アンペール。
しかし彼は、決してその手を放そうとはしなかった。
そして次の瞬間、突き刺さったままのレイピアを思い切り横に薙いだのだ。
血と、悲鳴と、怒号。
それらが同時に飛び交う王城広場に、ハサール王国西部辺境侯ムルシア侯爵家嫡男、フレデリク・ムルシアの身体が崩れ落ちた。
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